岩倉使節団の欧米視察
明治四年(1871年)十月八日、右大臣で外務卿の岩倉具視(いわくら ともみ)を中心に、欧米へ送る使節団の顔ぶれが決まりました。全権大使は岩倉、副使は参議の木戸孝允(きど たかよし)、参議の大久保利通(おおくぼ としみち)、工部大輔の伊藤博文(いとう ひろぶみ)、外務少輔の山口尚芳(やまぐち なおよし)。このほか各省のすぐれた人々を選んで、随員が四十人もいました。
さらに、山川健次郎(やまかわ けんじろう)や田尻稲次郎(たじり いなじろう)などの留学生、のちに津田英学塾(今の津田塾大学)の塾長となる八歳の津田梅子(つだ うめこ)、のちに大山巌(おおやま いわお)元帥の夫人となる十二歳の山川捨松(やまかわ すてまつ)など、幼い女子留学生五人も加わりました。全部で百人近い大視察団です。使命は、欧米を見て学ぶことと、幕末に結ばれた条約を改めることでした。
はじめ、この一行に、神祇省(じんぎしょう)からも皇学者(こうがくしゃ:日本古来の学問を修めた学者)を一人連れていき、皇学独自の考え方で欧米の文明を観察させてはどうか、という意見が出ました。面白いのは、言い出したのが当時のハイカラ、大隈重信(おおくま しげのぶ)で、反対したのが、国体論(こくたいろん:天皇を中心とする国のあり方をめぐる議論)に関心がありそうな岩倉だったことです。西洋へ行くのに皇学者でもあるまい、という腹でした。
ところがある日、岩倉がこの話を笑い話として、政府の教育顧問フルベッキにすると、フルベッキは言葉を改めてこう答えました。
「それは大隈さんの云ふことが正しい。国家基礎の建直しには、悉(あら)ゆる方面の意見が必要です。皇学者随行は達見(たっけん:すぐれた考え)です」
岩倉もなるほどとうなずき、すぐ大隈に手紙を送って先の言葉をわび、ふさわしい皇学者を選んでほしいと頼みました。肝の太い岩倉にもこんな一面があったのか、と思わせるよい話です。こうして大隈が推したのが、佐賀出身の久米邦武(くめ くにたけ)でした。のちに東京帝国大学の教授となる歴史家で、使節団の視察の記録(『米欧回覧実記』)は、彼が書いたものです。
この一行には、幕府の使節団にいたような、わらじを持ってアメリカへ渡った新見豊前守(しんみ ぶぜんのかみ)や、武田信玄から伝わる保存のきく味噌を持っていった竹内下野守(たけのうち しもつけのかみ)のような傑作な人物はいませんでした。それでも、航海の途中で大嘗祭(だいじょうさい)の日を迎え、岩倉大使が直垂(ひたたれ)を着てシャンパンの杯を上げた、という話が残っています。もっとも、ワシントンに着くころには、岩倉も大事にしていた髷を落として洋服を着こんでいました。ナイアガラの滝を見物に出かけたときは寒かったので「オーブルコート」を着た、と記録にあります。今のオーバーコートのことです。
外国の風俗や習慣については、当時すでにかなり知られていたので、その方面での大きな失敗はありませんでした。ところが、一行のいちばんの目的である条約改正の交渉で、大きな失敗をしてしまいます。
交渉に先立って、アメリカ大統領は「全権委任状」を出すよう求めました。ところが、一行はそれを持っていなかったのです。自分たちは天皇の命令を受けて来たのだから権限はある、と主張しましたが、外交の決まりではそれは通りません。しかたなく、伊藤博文が日本へ委任状を取りに帰る騒ぎになり、これがまたもめて、伊藤は腹を切らなければならないかというところまで追いつめられました。結局、委任状だけは渡したものの、条約改正の交渉は次の機会にする、というみっともない結果に終わったのです。
それから一行はヨーロッパに渡りました。イタリアでは大いに歓迎され、江戸時代のはじめにローマへ渡った支倉六右衛門(はせくら ろくえもん:支倉常長)の資料を見せられました。ところが当時、日本ではこの出来事をまったく知る人がおらず、一行は不思議に思って、たぶん九州の浪人たちが支倉という名をかたったのだろう、くらいにしか考えなかったといいます。
ベルリンでは、一行はビスマルクの官邸に招かれ、その勢いのよい話を聞かされました。当時のビスマルクは、普仏戦争(ふふつせんそう:プロイセンとフランスの戦争)でフランスを破ってドイツの統一を成し遂げたばかりで、昇る朝日のような勢いでした。ビスマルクは一行に、国を豊かにし兵を強くすることの大切さを力説しました。とくに、プロイセンもかつては日本と同じく弱い国で、外国の圧迫にどれほど苦しんだかを、自分の体験として熱心に語ったのです。これが岩倉や大久保、木戸に、どれほど強い印象を与えたかわかりません。
木戸と大久保は途中でけんかをし、大久保は一行と別れて先に帰国するなど、一行の中にはいろいろな摩擦もありました。それでも、欧米で受けた印象と知識は、ほとんど同じだったと言ってよいでしょう。「国を豊かにし兵を強くすること」と「まず国内を整えること」――これが彼らの結論でした。
こうして明治五年五月に帰国した彼らが、故国で目にしたのは、政治の裏で根強く動いている「征韓論」の強い叫びだったのです。
西郷、朝鮮への大使を熱望する
征韓論には、当時の人々から見れば、いちおうの筋が通っていました。朝鮮が小さな国であること、日本に無礼であること、さらに朝鮮に手を出しても清国(中国)をはじめ外国が文句をつけないと言っていること――それが理由でした。
当時の朝鮮で実権を握っていたのは、国王の実の父である大院君(たいいんくん)で、たいへんな欧米嫌いでした。だから日本の開国を「欧米のまね」だとののしり、「けものに近づいた」と言って見下していました。明治政府が対馬の宗氏を通じて、いくら国交を整えようとしても、まったく相手にされなかったのです。
そこで明治六年六月十二日、朝鮮問題についての会議が開かれました。まず板垣退助(いたがき たいすけ)が口を開きます。
「居留民を保護するのは政府の義務だから、早速一大隊の兵を釜山に送り、それから談判(だんぱん:話し合い)をやらう」
兵を出せ、という意見です。これに対して西郷は言いました。
「それは少し過激だ。それより、まづ平和的に堂々使節を派遣して、正理公道(せいりこうどう:正しい道理)を説き、それで聴かなかつたら公然罪を万国に鳴らして討伐すればよい」
太政大臣の三条実美(さんじょう さねとみ)が口をはさみました。
「大使を派するなら、兵を率ゐて軍艦に乗つて行つたらよからう」
西郷はきっぱりと反対します。
「いや兵を率ゐて行くのは、所詮(しょせん)穏かでない。大使たる者は宜しく鳥帽子直垂(えぼしひたたれ)を着し、礼を厚くし道を正さねばならぬ」
古めかしいけれども、いかにも西郷の言いそうなことです。ここに、西郷という人のよさがあるのではないでしょうか。
すると誰かが言いました。
「これは国家の大事であるから、岩倉大使の帰朝(きちょう:帰国)を待つて決すべきであらう」
この言葉が西郷を怒らせます。
「堂々たる一国の政府が、国家の大事を自ら決め兼ねるなら、今から院門(いんもん:役所の門)を閉ぢ、百般(ひゃっぱん:すべて)の政務を撤するがよい」
そう叱りつけると、一座はしんと静まり返りました。西郷はさらに言葉を進めます。
「この遣韓大使(けんかんたいし:朝鮮への大使)には、ぜひ自分を遣つて貰ひたい」
西郷は何度も三条に迫り、このことを天皇に申し上げてほしいと頼みました。この日の会議はそのまま終わりましたが、西郷はその後も熱心に朝鮮行きを望み続けます。手紙には、こう書いています。
「副島君(遣清大使)の如き立派な使節は出来申さず候へども、死する位のことは、相調ひ申すべく」
(清国への大使である副島君のような立派な使節にはなれませんが、死ぬことくらいは、できるでしょう)
いつでも命を投げ出す覚悟を、淡々とした言葉の中にのぞかせているのです。大使として行けば、朝鮮は必ず自分に危害を加えるだろう。そうなれば、朝鮮を討つ立派な理由が立つ――西郷の信念はそこにあった、と底本は書いています。
一時、清国へ使節として行った副島種臣(そえじま たねおみ)が朝鮮への大使にも決まりそうになると、西郷はわざわざ副島の屋敷を訪ね、子どものように頼みました。
「貴公は北京のよい所を見物して御座つたから、朝鮮の方は、拙者にお譲り下さい」
西郷自身の言葉をそのまま借りるなら、こうなります。
「使節で死んでも、戦ひで死んでも、只(ただ)前後の差別(さべつ:違い)のみ」
維新以来、もみにもまれた西郷です。生きるか死ぬかの覚悟は、とうにできていました。骨はたとえ鶏林八道(けいりんはちどう:朝鮮の全土)に埋まろうとも、日本の大陸発展の捨て石となれば何の悔いがあろうか、という意気だろう、と底本は書いています。
だから三条を通じて明治天皇のありがたいお言葉を拝聴すると、西郷はもうすっかり朝鮮への大使になったような気持ちで喜びました。その日、板垣にあてて、こう書いています。
「三条公の御殿より先生のお宅まで飛んで参り候仕合せ、足も軽く覚え候。もはや横槍の憂も之れあるまじく、生涯の愉快この事に御座候」
(三条公の屋敷から先生のお宅まで、飛ぶように参りました。足も軽く感じます。もう横やりの心配もないでしょう。生涯でこれほど愉快なことはありません)
天真らんまんそのものです。「もう横やりの心配はない」と言っていますが、なんということか、岩倉大使の一行は九月十三日に帰国することになっていました。
征韓論、決裂する
大久保はこれより先、五月二十五日に東京へ戻り、木戸は七月二十三日に帰国していました。木戸も大久保も「まず国内を整えること」が第一で、朝鮮へ使節を送ることには絶対に反対でした。けれども大久保は、竹馬の友である西郷に表立って反対できないので、ずるく箱根に避けていて顔を出しません。木戸のほうは、帰ってみると、税の仕組みの改正や徴兵令のあと各地で相次いで起きている暴動を、留守を預かった政府がのんきに眺めているのに不満を抱いていました。そこへの征韓論ですから、憤然と反対するのも当然だったでしょう。
十月十四日、岩倉たちが帰国して初めての閣議が開かれました。午前十一時、病気の木戸を除いて、参議が全員そろいます。征韓派は西郷・板垣・副島・江藤新平(えとう しんぺい)・後藤象二郎(ごとう しょうじろう)の五人の参議。反対派は右大臣の岩倉と、大久保・大隈・大木喬任(おおき たかとう)の三人の参議。どちらにつくかはっきりしない太政大臣の三条もいます。これに木戸が出席すれば、数の上でも反対派が上回ります。
まず三条がひと通り報告をすると、岩倉が堂々と立ち上がりました。
「大使を韓国に派遣するについては、大戦争を覚悟した上でなければならん。朝鮮の背後には、支那もあるし、露西亜もある。迂濶(うかつ)に手を出して国家百年の大計を誤つてはならぬ。現状は国力涵養(かんよう:養うこと)第一、征韓など無策、無謀である」
初めて聞く、堂々とした反対意見でした。西郷は言います。
「然し、朝鮮大使派遣は八月十七日の廟議(びょうぎ:朝廷の会議)で既に決してゐることである。今更是非を議する必要が何処にあらう」
岩倉はすかさず返します。
「いや、その為のみの、今日の廟議である」
「くどい様ぢやが、もう廟議は決つてゐるのだ」
このとき、大久保が口を開きました。
「前閣議でどう決つたか知らんが、それは拙者等の知つたことではない」
「それは貴公、本気で言はれるか」
西郷は顔色を変えました。
「留守に決めたが不服と云はれるのか。拙者も参議だ。これ程の大事を、貴公等の帰国するまで待てるか。留守の参議が決めたことに、何の悪い所が御座るか。三条太政大臣も同意で、既に聖上(せいじょう:天皇)の御裁可(ごさいか:お許し)まで経たことであるぞ」
大久保は頑として譲りません。
「我々の不在中は、大事件は決めぬといふ約束では御座らぬか」
「ばかな。左様な呑気な話かツ」
西郷は憤然と机をたたきました。このとき板垣が立ち上がりました。
「大久保参議にお訊ねしたい。貴公等の言はれる内治(ないち:国内の政治)の改良は、詳しく申すと何うなるか御説明願ひたい」
「先づ内務省を設け……」
大久保は、じろりと岩倉のほうを見ました。
「その他、色々計画も御座るが」
「内務省の設置まで、幾日ほどかゝられる予定か」
「大凡、五十日」
「では、それが出来れば、大使派遣に御同意なさるか」
大久保はぐっと口をつぐんだまま、答えません。一座はさっと白けました。
副島が取りなすように言います。
「では、これを五十日と大略(たいりゃく:おおよそ)決めて、それから大使派遣と決められては如何で御座るか」
このとき西郷は大声を上げました。
「それはいかん、副島さん、さう延ばすわけにはいかん」
これでは話が進むはずもありません。会議は、明日あらためて開くことになりました。西郷にとっては、いちばん苦手な言い争いを、明日もまたしなければならないのです。
西郷、故郷へ帰る
翌日の会議も、結局は水かけ論で終わりました。西郷は、
「もう拙者の所論(しょろん:言うべきこと)は尽き申した」
と言って席を立ちます。大久保も参議を辞めたいと申し出ました。その間に立った三条は、心労のあまり倒れて、意識を失ってしまいます。岩倉は大久保に手紙を書き、こう励ましました。
「……不抜の一心必ず貫徹の覚悟、決して御懸念下さるまじく候」
(……揺るがぬ一心で必ずやり通す覚悟ですから、決してご心配くださいませんように)
その粘り強さと、大久保を励まし鞭打つ様子が目に見えるようだ、と底本は書いています。
そのうち問題は、天皇に申し上げる細かい手続きの話に移っていきました。こうなると、事務の面でも政治の駆け引きの面でも、征韓派は岩倉や大久保の敵ではありません。
こうして二十三日、岩倉は宮中に参り、朝鮮への使節派遣はよくないという意見書を天皇に差し出して、大勢は決しました。天皇は一日よくお考えになったうえで、岩倉の意見をお取り上げになったのです。
二十三日、西郷は参議・陸軍大将・近衛都督の職を辞めたいという願いを差し出し、翌日には板垣・副島・後藤・江藤の四人の参議もそれぞれ辞表を出しました。はじめ、五人の参議が名を連ねた辞表にしようという話もありましたが、西郷が強く反対しました。それでは仲間を組んで逆らっているようで、天皇に対して恐れ多い、というのです。この律儀さが、のちに江藤たちが佐賀で兵を挙げたとき、西郷が動かなかった理由の一つでしょう。
これにならって、陸軍少将の桐野利秋(きりの としあき)や篠原国幹(しのはら くにもと)も病気と称して辞表を出し、近衛の士官たちはそろって職を辞めてしまいました。少佐の池上四郎(いけがみ しろう)、別府晋介(べっぷ しんすけ)、大尉の辺見十郎太(へんみ じゅうろうた)らが次々と去り、兵営はほとんど空っぽになります。そこで陸軍卿の山県有朋(やまがた ありとも)は、新しく近衛兵を組み直しにかかりました。こうして今度は長州の人々が陸軍の中でしっかりした地位を占め、「長州の陸軍」と呼ばれるもとになったのです。
西郷は日本橋小網町(こあみちょう)の自宅を出ると、行き先を知らせないようにして、親しくしていた越後屋喜左衛門(えちごや きざえもん)の小梅(今の墨田区向島のあたり)の別荘に落ち着きました。そこで詩を作ったり、釣り糸を垂れたりして三日ほど過ごしましたが、黒田清隆(くろだ きよたか)に隠れ家をかぎつけられたのをきっかけに、いよいよ故郷へ帰ることにします。二十八日にはもう東京を出発し、翌月の十日には鹿児島に着いていました。
ほかの参議たちには東京を離れるなという命令が出ていましたが、西郷は何も知らないかのように、ひょうひょうと故郷の人となったのです。帰って一か月後の大みそかの夜に作った詩が残っています。
「百千の窮鬼(きゅうき)我れ何ぞ畏(おそ)れん 脱出す、人間(じんかん)虎豹(こひょう)の群」
(数えきれない貧乏神など、私は少しも恐れない。人の世の、虎や豹のような者たちの群れから抜け出してきたのだから)
いつも変わらず温かく西郷を抱いてくれる薩摩の故郷の山から見れば、東京の政界は、飢えた虎や豹の寄り集まりのように見えたのかもしれません。
大久保の手腕
政府は二十五日、反対派を中心にして顔ぶれを改めました。大久保が内務卿になるのは予定どおりですが、幕臣だった勝海舟(かつ かいしゅう)を海軍卿にするなど、それまでの慣わしにとらわれない新しい色を見せています。島津久光(しまづ ひさみつ)を左大臣、内閣顧問にしていますが、これなどは、故郷へ帰った西郷を抑える策として、いちばん効き目のあるものだったと言えるでしょう。明治十年の西南戦争まで西郷が動けなかったのは、この久光の押さえが大きく働いていたからでもあるのです。古風な人情家の西郷を抑えるには、これがいちばんでした。こんなところにも、大久保の頭のよい、しかし冷たいやり方がうかがえます。
岩倉が帰国するまでは西郷を避けて身を隠し、岩倉が会議に出るとこれと力を合わせて征韓論をつぶし、去っていく西郷を無理に追わずに逃げ道を与え、すぐに新しい政府を組んで、西郷たちにぐうの音も出させない。そのすきのない手口は、こわばった表情とあいまって、ただ者ではない印象を与えます。
大久保はさらに自分の考えを押し進めます。内務省を作るとともに、産業を勧める役所と、警察の役所を強くしました。産業を盛んにすることと、反対する者を取り締まることに、いよいよ本腰を入れたのです。品川弥二郎(しながわ やじろう)、前島密(まえじま ひそか)、松方正義(まつかた まさよし)、船越衛(ふなこし まもる)など、西郷の言う「濡鼠の如き俗吏ども」(濡れねずみのような小役人ども)を集めて、まず国内を整える政策へまっしぐらに進んでいきました。
勝海舟を起用したのと同じやり方で、幕臣だった榎本武揚(えのもと たけあき)をロシアへの使節として送り、長年の懸案だった樺太の問題の解決に取り組みます。さらに思い切って、華族や士族が受け取っていた家禄(給料)にまで税をかけました。
明治七年(1874年)二月、征韓論の人々が政府に反撃する最初の声として、大規模な「佐賀の乱」が起こりました。江藤新平や島義勇(しま よしたけ)らが兵を挙げたのです。大久保は前から予想していたかのように、すぐに熊本・広島・大阪の三つの鎮台の兵を動かし、同時に久光を鹿児島へ帰らせて西郷を抑える一方、自ら急いで兵を進めて、三月一日には佐賀城に入りました。文官である大久保にとっては、一世一代の武勲と言ってよいでしょう。
江藤は後に捕らえられ、もっとも重い刑ともいえる「梟首(きょうしゅ)」――首をさらす刑に処されました。かつての同僚、参議だった江藤新平の首をさらしても動じない大久保の不敵な面構えは、いよいよ凄みを増してきた、と底本は書いています。
そのうえ、征韓論を退けてから二年もたたないうちに、大久保は台湾への出兵を行いました。これは国内の士族の不満を海外に向けさせるための仕事で、征韓論に反対した言い分はどこへいったのかと言われてもしかたがないでしょう。神経衰弱で少し気の弱くなっていた木戸などは、「切に希(こいねが)はくは、治要(ちよう)の本末を明かにせよ」(政治で何が本で何が末かを、どうかはっきりさせてほしい)という悲しい言葉を残して、政府を去りました。
けれども大久保はきっぱりとこの出兵をやり遂げ、しかも戦いのあとの交渉には自ら清国に乗り込みました。李鴻章(り こうしょう)と大いに打ち解け、五十万両の償い金と、「台湾への出兵は正しい行いだった」という清国側の保証まで得て帰ってきたのです。昭和の外交官も顔負けだ、と底本は書いています。国内でも外交でも力を見せた大久保の政府での地位は、このとき、ほかの誰も及ばない、ひとりで物事を決められるほどのものになったのです。
竹馬の友は、こうして別々の道を歩き始めました。片方は東京で国を動かし、片方は薩摩の山で釣り糸を垂れる。その二つの道が、四年後、ふたたびぶつかることになります。次の回では、征韓論の争いのかげで日本が初めて国際裁判に臨んだ「マリア・ルーズ号事件」を読みます。

