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大国軍の建設――徴兵令から軍人勅諭へ、近代の陸軍ができるまで|菊池寛『大衆明治史』を読む 第7回

大国軍の建設――徴兵令から軍人勅諭へ、近代の陸軍ができるまで 日本の焚書
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※注:この記事は、菊池寛『大衆明治史 国民版』(汎洋社、昭和十七年=1942年)の第七章「大国軍の建設」を、今の読者に向けて現代語に訳したものです。この本は戦時中に書かれ、戦後にGHQ(連合国軍総司令部)の没収の対象とされた、いわゆる「焚書」の一冊です。本の記述は省かずに訳し、底本には、今日では差別的とされる言い方や、当時の国の立場に立った物の見方が、そのまま出てきます。書かれた時代の文章をありのままに伝えるため、本文の途中でいちいち断ることはせず、注は底本の事実の誤りと、言葉の意味や人物・年代など、読むのに要る補いだけにしました。どう読むかは、読む方に委ねます。とくにこの章は、太平洋戦争のさなかに、軍隊をたたえる立場で書かれています。

 

山県有朋の兵制改革

 

日本の陸軍をつくった恩人といえば、まず第一にあげられるのは、兵部大輔(ひょうぶたいふ)の大村益次郎(おおむら ますじろう)でしょう。「火吹きだるま」というあだ名で呼ばれた、その大きな頭からほとばしり出る戦略は、当時、天下に並ぶ者がいませんでした。あの勝海舟(かつ かいしゅう)でさえ、

「長州に村田蔵六(むらた ぞうろく:大村のこと)がゐては、長州征伐はとても勝てん」

と言って、さじを投げていたくらいです。江戸城の攻撃も、函館の戦いも、作戦の面から言えば、ほとんど彼の独り舞台でした。

大村は戦略家として天下第一だっただけでなく、軍の制度をつくる人としての腕前も、当時としては飛び抜けていました。兵部省の設置、陸軍と海軍の兵学校の創立、兵営の建設、兵器をつくる工場の設立、陸海軍の病院の設置などを堂々と主張し、その一部は実現しかけていたのです。けれども、古いやり方を守ろうとする人々の怒りを買い、明治二年(1869年)十一月、刺客の刃に倒れて、大阪で亡くなりました。

大村の死後、手のつけられない混乱に陥っていた兵部省に現れて、日本の軍の制度の土台を固め、国の軍隊づくりに取りかかったのが、山県有朋でした。

山県は戊辰戦争が終わると、自分から願い出て、外国を見る旅に出ました。明治二年三月のことで、一緒に行ったのは西郷従道(さいごう つぐみち)です。山県はパリに数日とどまったあと、ロンドンで冬を越し、ヨーロッパの国々をめぐって、国々が栄えたり滅びたりした跡をくわしく見て回り、その思いを和歌に詠んでいます。

(ウオトルロー=ワーテルローの古戦場に雪の降りければ)

ものゝふの火花ちらして戦ひし

草野は雪のふぶきなりけり

(武士たちが火花を散らして戦った草原は、今は雪の吹雪に包まれている)

(那破翁=ナポレオンを)

向ふ仇やぶらぬかたはなかりけり

世にもまれなる人にあるかな

(向かってくる敵で、打ち破らなかった相手はいなかった。世にもまれな人であることよ)

(独乙=ドイツ国境に入る)

つはものゝ姿ならぬはまれらなり

これやどいつの都なるらん

(兵士の姿でない者は、めったにいない。これがドイツの都なのだろうか。「どいつ」に「ドイツ」と「どこの」をかけた歌)

当時のドイツはまだ統一ができておらず、ベルリンなどはとてもパリの足もとにも及ばない田舎町でした。それでも山県はドイツに入ると、武を重んじる気風の盛んなことに深く感じ入ったのです。

ちょうど一行がニューヨークに着いたとき、プロイセンとフランスの戦争(普仏戦争)が始まったという知らせが届きました。西郷も山県も、どちらが勝つかで、列車の中で大激論になります。西郷はフランスに長くいて、その盛んな文化を見てきたので、断然フランスが勝つと言いました。けれども山県は、ドイツで一冬を過ごして、その戦いの備えがあなどれないのを見ていたので、

「独逸(ドイツ)の必勝は予断出来ぬが、驕傲(きょうごう:おごり高ぶること)なる仏蘭西(フランス)は、或ひは敗れるかもしれぬ」

と説きました。

二人が日本に帰ってほどなく、ドイツ軍がパリを包囲したと聞いて、山県は得意げに鼻をうごめかすと同時に、今さらながらドイツの軍の制度と備えの整っていることに感心したのです。山県のドイツびいきは、一生変わりませんでした。

明治三年八月、山県は兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)に、西郷従道は兵部大丞(ひょうぶだいじょう)になりました。山県が軍の制度をまとめる第一の仕事として手をつけたのは、御親兵(ごしんぺい)の組織です。まず、薩摩藩の歩兵四大隊と砲兵四隊、長州藩の歩兵三大隊、土佐藩の歩兵二大隊・騎兵二小隊・砲兵二隊をもって御親兵とし、御所の門を守る役に当て、兵部省に受け持たせることにしました。これがのちの近衛兵です。

この三つの藩が兵を差し出すことが決まったとき、土佐藩知事の山内豊範(やまうち とよのり)は、致道館に隊長たちを呼び、「今回軍隊の大改革を行ひ、御親兵として朝廷へ差上らるることになつたから、神妙(しんみょう)に奉順(ほうじゅん:つつしんで従うこと)すべし」と命じました。さらに係の者から、

「兵部省の御主意に従ひ兵卒は小銃と銃剣の外、決して刀を帯ぶべからず」

(兵部省のお考えにより、兵は小銃と銃剣のほかに、決して刀を差してはならない)

と注意を与えました。

この「刀を捨てよ」という考えには、士官や兵の中に異議を唱える者がいましたが、そういう者はためらいなく職を解き、純粋な洋式の部隊として兵部省へ差し向けたのです。

ところが、ここに渡辺三郎という兵がいて、戊辰戦争で奥州の敵を何人も刀で倒したと言い、突然、刀を捨てることに反対して、がんとして聞きません。兵たちの中にも、その態度を勇ましいとほめる者もいれば、憎む者もいて、大騒ぎになり、隊長たちもその処分に困ってしまいました。このときの藩の役所の処置が面白い、と底本は書いています。

「刀を以て戦ふのは、古の戦法である。今や小銃の利は万人の等しく認める所である。且(か)つ銃頭には鋭利な剣が附けてある。この利器を以ても猶(なお)戦ふことが出来ぬと云ふのは、これは臆病者である。腰抜けである。かやうな腰抜け侍には旧罰(きゅうばつ:昔の罰)を引用し、秩禄帯刀(ちつろくたいとう:給料と刀)を召放(めしはな)し、追放の刑に処すべきである」

こう言って、隊が整列した前に引き出し、処分を言い渡したのです。

御親兵はできましたが、それぞれの藩の兵は、どうしても封建の世の対立する気分が抜けません。二、三百石取りの武士もいれば、二人扶持(ににんぶち)の足軽も混じっているので、まとめるのにはなみなみならぬ苦労がいりました。兵でも百石・二百石取りの者がいれば、士官でも五人扶持で十四、五石の者もいます。それなのに、給料や扱いは、士官から上はとても重く、下士官から下は、封建の時代の足軽よりも軽いのです。兵たちの不満が絶えないのも当然でした。

こんな状態だったので、山県は最初の近衛都督(このえととく)になりましたが、うまく治まらず、数か月で辞めました。そのあと西郷隆盛が陸軍元帥になって、近衛都督を命じられました。西郷の人望で近衛兵を押さえ、その改革をやり通そうとしたもので、山県のうまい作戦がうかがえる、と底本は書いています。

徴兵令布かる

 

明治五年二月二十七日、兵部省が陸軍省と海軍省の二つに分かれたので、山県は兵部大輔から陸軍大輔になり、西郷従道は陸軍少輔、川村純義(かわむら すみよし)は海軍少輔になりました。同じ年の十一月、山県の徴兵の考えが政府の会議で採り上げられ、ここに画期的な、全国から兵を集めるという詔(みことのり)が出されることになりました。

 

※注:原本には「河村純義」と印刷されていますが、「川村純義」が正しい表記です。この章のあとの部分も同じで、この章の最初の見出しは原本では「山形有朋の兵制改革」と印刷されていますが、「山県」の誤植です。

 

徴兵令の制定、地方自治の制度の制定、教育勅語を出すのを助けた功績は、山県有朋の三大功績といわれます。そのうち徴兵制度を打ち立てたことは、のちに彼が総理大臣として何度も内閣をつくったときの仕事より、はるかに大きい功績だといわれるほどです。その功績は、憲法をつくった伊藤博文の功績に匹敵するものだろう、と底本は書いています。

徴兵制について、大久保利通は大いに疑い、心配していました。西郷隆盛も口が重いので、はっきりとは言いませんが、不満でした。とくに桐野利秋などは、

「土百姓(どびゃくしょう:いなかの百姓)を集めて人形を作り、何に使ふ気か」

と、おおっぴらに山県のやり方をののしるありさまです。谷干城(たに たてき)のような先見の明のある人でさえ、国民みなが兵になるべきだと建議しながら、身分の区別なく兵を集める徴兵制度はよくないとして、まず士族の若者を取ってすべて兵に当て、それから平民に及ぼすべきだと言っていました。百姓や町人に鉄砲を持たせて何ができるか、というのが、当時の士族のふつうの気持ちだったのです。

それに逆らって、きっぱりと徴兵令を実行したのですから、山県には、心の中によほど期するところがあったに違いありません。

大村益次郎にしても、山県有朋にしても、徴兵制をあくまで主張したわけは、まったく同じ経験から出ているといわれます。二人とも奇兵隊の隊長として、幕府の長州攻め(四境戦争)に臨み、戊辰戦争を戦い抜いた経験があるのです。奇兵隊をつくった高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、こう述べていました。

「砲火による戦闘は、団体の訓練が主で、一個人の格闘力の如きは問題ではない。ところが個人的格闘力を誇りとすべき筈の門閥武士は、太平の久しい優柔の風に慣れて堕落し、活発な元気と強健な体躯は、却(かえ)つて下士、足軽百姓町人の階級に見るやうになつてゐる。是等(これら)の者の精鋭を選び、軽快な武装と銃器を与へ、団体的な訓練を施せば、よく洋夷にも対抗出来やう」

(鉄砲や大砲で戦う戦は、集団としての訓練が中心で、一人ひとりの腕っぷしなどは問題ではない。ところが、腕っぷしを誇りにしているはずの家柄の武士は、長い太平の世のやわらかな風に慣れて堕落し、生き生きとした元気と丈夫な体は、かえって身分の低い武士や足軽、百姓・町人の中に見られるようになっている。こうした者のなかから優れた者を選び、身軽な装備と銃を与えて、集団の訓練をすれば、西洋の国々にも立ち向かえるだろう)

こうして身分を問わず、広く人々から集めたのが、有名な奇兵隊です。これが四境戦争で、幕府の兵を相手にどれほど目ざましい働きをしたかは、大村も山県も、その隊長として十分に見届けていました。奇兵隊は、いわば徴兵制のりっぱな見本を見せたわけです。

この奇兵隊での実際の経験と、西洋で自分の目で見てきた実績が、山県に徴兵令を出す決意を固めさせた大きなきっかけだったことは、山県自身が語っています。また、士族だけでは、新しい日本が必要とする兵をすべて出すことはできませんし、一生兵として仕える士族の全員に給料を出す費用は、当時の財政ではとてもまかなえるものではありません。結局、徴兵制によるほかはないと信じたのです。

大村は、軍の制度をつくるにあたって、たいへん少しずつ進める考えでした。というのも、彼が目指したのは国内の反乱をしずめるための軍備であって、外国の敵に対する軍備ではなかったからです。少なくとも、外国の敵への考えは、ごく軽いものでした。

これに対して、山県が目標にしたのは、おもに外国に対する軍備でした。外に対して押しがきけば、国内のことは心配いらない、という考え方です。明治維新の目的が、内には天皇の政治を取り戻すこと、外には外国と対等になることにある以上、軍備もこの二つの大きな目標を中心に充実させなければならない、というのです。

山県はのちに、明治二十八年四月に天皇に差し出した意見書の中で、こう書いています。

「明治の初年、臣乏しきを陸軍の長官に承り、聖旨を奉じて始めて、徴兵の制を建つるや、帝国を分つて、六軍管区となし、各管区に一鎮台を置き、各鎮台に一軍団を備へんことを期したり。蓋(けだ)し一軍団は即ち二師団にしてその兵員凡(およ)そ三万五千人なり。即ち六軍団は十二師団にして、若し之に加ふるに予備兵と後備兵を以てすれば、国家有事の日に際し、立所(たちどころ)に三十余万の兵力を挙ぐることを得るなり」

(明治のはじめ、私は力不足ながら陸軍の長官をつとめ、天皇のお考えを受けて初めて徴兵の制度をつくったとき、国を六つの軍管区に分け、それぞれに鎮台を一つずつ置き、それぞれの鎮台に軍団を一つずつ備えようと考えた。一つの軍団は二つの師団で、兵の数はおよそ三万五千人である。つまり六つの軍団は十二の師団で、これに予備兵と後備兵を加えれば、国に一大事が起きたとき、すぐに三十万あまりの兵力をそろえることができる)

その遠大な計画がしのばれる、と底本は書いています。もっとも、山県が理想とした十二個師団の編成が実現したのは、日清戦争が終わった翌年、明治二十九年からのことですから、皮肉と言えなくもありません。

それはさておき、明治六年一月九日、全国を東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本の六つの軍管区に分け、その年の四月には、第一回の徴兵の兵が入営しています。この人たちは寅年の生まれだったので、一般に「虎兵(とらへい)」と呼ばれました。虎兵をはじめ、徴兵された兵たちが実際の戦いでどれほど活躍したかは、明治十年の西南戦争が証明しています。

軍人勅諭出さる

 

明治六年に徴兵令が実施されてから、日本の軍隊は確かに見違えるように変わりました。けれども、どれほど兵が増え、軍艦が増えても、兵の質が悪くては何にもなりません。とくに、廃藩で社会が大きく変わったあとの日本の実情では、士族・百姓・町人の出身を問わず、兵たちに新しい心のきたえ方と訓練を与えることが、ぜひとも必要でした。

もちろん、軍人勅諭が出される前でも、軍人の心がひどくすたれていたわけではありません。山県有朋ものちに、明治六、七年ごろの軍の規律にふれて、こう言っています。

「斯(か)くの如く秩序確立せざる間にも、軍隊は武士道を以て充たされ、上下相信頼し、駸々(しんしん)として進歩の実を挙げ、軍規、風紀を厳密に維持したり」

(このように秩序がまだ固まっていないあいだにも、軍隊は武士道に満ち、上の者と下の者が信頼し合い、どんどん進歩して、軍の規律と風紀を厳しく保っていた)

このあいだに、竹橋騒擾事件(たけばしそうじょうじけん)のような不祥事も少しはありましたが、だいたいにおいて、封建の時代からの武士としての教養のいちばんよい部分は、軍隊の中に組織として残っていて、しっかりと育ちつつあった、と底本は書いています。

 

※注:竹橋騒擾事件(竹橋事件)は、明治十一年(1878年)、西南戦争の恩賞への不満などから、近衛砲兵の兵たちが反乱を起こした事件です。五十人あまりが死刑になりました。

 

ただ当時、自由民権の思想がしだいに全国に広がると、それが軍人の社会に及ぶことは、政府と軍の当局がいちばん心配したことでした。軍人勅諭に先立って、明治十一年、山県有朋は「軍人訓誡(ぐんじんくんかい)」の中で、くり返しこれを戒め、

「稍(やや)もすれば時事に慷慨(こうがい)し、民権などを唱へ、本分ならざる事を以て自ら任じ、武官にして処士の横議と書生の狂態とを擬し、以て自ら誇張するは、固より有るべからざる事にして、深く戒むべき事たるは勿論なり」

(ともすれば世の中の出来事に憤り、民権などを唱え、自分の役目でないことを自分の役目と思いこみ、軍人でありながら、民間の論客の勝手な議論や学生のばかさわぎをまねて、自分を大きく見せようとするのは、もとよりあってはならないことで、深く戒めなければならないのは言うまでもない)

と強く説いているのも、そのためでした。

 

※注:原本では「自由民憲」「民憲運動」と印刷されていますが、「自由民権」のことです。

 

軍人勅諭は、日本の軍隊をつくる大きな筋道を明らかにし、軍人の向かうべきところ、大切にすべきことを示して、軍人としてほんとうに守らなければならない道徳をお諭しになったものです。明治十五年一月四日、年のはじめの政治の始まりの日に、陸軍卿の大山巌(おおやま いわお)と海軍卿の川村純義をお召しになり、直接お授けになりました。

この勅諭は、天皇が大元帥として、手足とも頼まれる軍人を自らお諭しになったものなので、ほかの詔勅と違って、太政大臣を通さず、おそれ多くも直接、陸軍卿と海軍卿を宮中にお召しになってお授けになったのです。その勅諭の中心は、忠節・礼儀・武勇・信義・質素を、軍人がかたときもおろそかにしてはならないこととし、これを行うには、ひとつの誠の心で貫くことにあります。

東郷平八郎(とうごう へいはちろう)元帥が、

「私は日本の軍隊のやうに、崇高(すうこう:気高い)なる精神を以て統一されてゐるものは、恐らく世界に復(また)とあるまいと存じます」

と言われたのは、このことを言われたのです。国の軍隊の心の支えは、はっきりとした目標のもとに、このとき打ち込まれたのだ、と底本は書いています。

 

※注:軍人勅諭は、敗戦後の昭和二十三年(1948年)、国会の決議によって、教育勅語とともに効力を失ったことが確認されています。

 

桂太郎と川上操六

 

明治十六年から後、山県が渡したバトンを引き継いで、軍の運営全体にわたって大改革を行ったのは、桂太郎(かつら たろう)です。

桂が山県に認められたのは、彼がドイツ留学から帰って、大尉に任じられたその日のことでした。山県はすでに陸軍の大立者で、その威光に並ぶ者はいませんでした。その前に進み出た、まだ若い一人の大尉は、帰国の感想を聞かれると、こう答えました。

「日本の陸軍で、見るべきものは一つもない。たゞ徴兵令を発布されたと云ふことは、将来の陸軍に希望が持てる、これがたゞ一つの拠りどころです」

これを聞いて、山県は喜びました。

「徴兵令の発布を以て、陸軍の基礎を定めたと言つたのは足下(そっか:あなた)一人である。予は固より、その覚悟を以て徴兵令を発布した。ところが賛成者は一人もない。独り足下あるのみだ」

明治六年一月のことで、徴兵令を出した直後、その成果もまだ分からないときでしたから、山県にとっては自分を分かってくれる者の言葉として、ずいぶんうれしかったのでしょう。こうして二人は意気投合し、それからは離れられない間柄になったのです。

桂はさらに明治八年、ドイツ公使館づきの武官として、ふたたびベルリンへ行くことになりました。目的は、ドイツの軍の運営を研究することです。桂は出発にあたって、「如何なる事故が日本に起つても、この研究が終るまでは中途で帰朝を命ぜられることのない様に」と願い、山県陸軍卿の承知を得て出発しました。

西南戦争の知らせを、桂はベルリンの宿舎で受けましたが、こつこつと研究を続けています。けれども翌明治十一年五月、大久保利通が刺客に襲われたと聞くと、目先のきく桂は、時の流れが変わることを感じて、いち早く井上馨(いのうえ かおる)とともに帰国しました。

帰国したあと、桂は参謀局の諜報提理(ちょうほうていり)に任じられました。当時は行政の改革の気運が高まっていたので、新しい知識を持つ彼は、あちこちから引っぱりだこでした。参謀局を広げて参謀本部にしたのも、桂の働きです。

桂はまた、次のような意見を当局に申し出ました。

「軍隊の膨脹と共に、将校の指揮能力はます〳〵高められなければならぬ。現在陸軍の状況は、古参将校には学理上の知識を欠き、青年将校は実戦の研究に乏しい。この際、これ等新旧の将校を指揮するため、優秀な人物を欧洲に派遣して、大部隊の演習等を実地に視察せしめねばならぬ」

(軍隊が大きくなるにつれて、将校の指揮する力はますます高めなければならない。今の陸軍は、古参の将校は理論の知識に欠け、若い将校は実戦の研究が足りない。このさい、これら新旧の将校を導くために、すぐれた人物をヨーロッパに送り、大きな部隊の演習などを実際に見てこさせなければならない)

この意見が採り上げられて、日本の陸軍の歴史で画期的な、ヨーロッパ視察団ができあがったのです。これは、政治を学ぶことを目的とした明治四年の岩倉使節団と同じ意味を持つものでした。一行は陸軍卿の大山巌が自ら率い、三浦梧楼(みうら ごろう)中将、野津道貫(のづ みちつら)少将、川上操六(かわかみ そうろく)大佐、桂太郎大佐など十五人で、いずれも陸軍の各部局の選りすぐりばかりでした。

もっとも、そのなかでずば抜けて光っていたのは、川上操六と桂太郎だったことはもちろんです。川上はもともと実戦派の将校で、桂は反対に軍の制度の専門家です。二人の意見は、ともすればぶつかりました。二人ともまだ大佐にすぎませんでしたが、識者はみな、将来の帝国陸軍の首脳はこの二人のほかにないと見ていました。大山陸軍卿は、

「陸軍の将来は、この二人の双肩(そうけん:両肩)にある。この両人を放任して置けば、その衝突は帝国陸軍の不幸となる。この外遊を機会に、二人の交情を温め、協力戮力(きょうりょくりくりょく:力を合わせること)、倶(とも)に帝国陸軍のために貢献せしめなければならん」

と考えて、この二人をとくに視察団に加えたといいます。二人もまた、たがいの長所と短所を知って、親しく付き合うようになりました。桂は川上に、船の中でこう告げました。

「君は軍事を担当せよ、俺は軍政を担当する」

二人はこう約束したのです。こうして二人は、帰国するまでの一年間、いつも船室を共にし、宿舎も同じにして、たがいに研究を重ね、十分な視察と研究を終えて帰国しました。明治十八年一月二十五日のことでした。

同じ年の五月、桂は陸軍少将に任じられ、翌年二月には陸軍次官になりました。大山陸軍大臣をいただき、参謀本部次長の川上操六とコンビを組んで、帝国陸軍の「第二の維新」ともいうべき軍の運営の改革が、こうして桂の緻密な頭から割り出され、次々とやり遂げられていったのです。

メッケル少佐

 

陸軍大学校に招かれた教師、ドイツの参謀少佐メッケルは、明治十八年五月のはじめから、陸軍大学校の第三期の学生に授業を始めました。戦術の講義というから、決まりきった戦術の講義かと思って見ていると、メッケルは教壇に大きなドイツの地図をかかげます。前もって印刷して学生に配った紙には、こう書かれていました。

一般方略「東軍メツツを囲む、西軍ブリユイより来り之を救ふ、東軍因(よっ)て囲みを解きサンルヰに向つて退却す」

特別方略「西軍は八月卅一日の晩苦難なる行軍の後、メツツの北方凡そ二里なるマイツイールスに着し、九月一日の夜モーゼル河に架橋し、翌朝九時頃渡河を始む……」

(一般の状況:東軍がメッツを囲んでいる。西軍がブリエイから来てこれを救おうとし、東軍はそのために囲みを解いて、サン・ルイの方へ退く。特別の状況:西軍は八月三十一日の晩、苦しい行軍のあと、メッツの北およそ二里のマイツィールスに着き、九月一日の夜、モーゼル川に橋をかけ、翌朝九時ごろから川を渡り始める……)

地図を使って、戦術の原則の当てはめ方を教える、今日でいう「応用戦術」でした。当時としてはまったく珍しく、学生のあいだにセンセーションを巻き起こしました。この点で、メッケルが与えた第一回の想定(演習の設定)は、日本の戦術の世界の歴史的な想定だと言えます。舞台を日本にとらず、メッケルの母国ドイツにとったのは、当時の日本にはちょうどよい地図がなかったからでした。とにかく、ここにあげた方略や命令の形式は、今日行われているものと大差ないそうですから、当時としてどれほど進歩的なものだったかが分かるでしょう。

メッケルは当時、まだ一介の少佐でしたが、ドイツの軍事学の世界の新進として、本国では早くから重く見られていました。この逸材を日本に送るについては、ドイツ皇帝としても相当な決心がいったでしょうが、それはおもに桂の熱心な勧めによるものでした。メッケルと桂は古くからの友人だったのです。

ドイツ皇帝は、メッケルによって、長くフランス式の制度のもとにあった日本の陸軍をドイツ式にすることを望んだのでしょう。けれども桂は、メッケルによって、日本の陸軍の中身を国際的な水準まで高めることを期待していました。この点、伊藤博文がドイツの憲法をもとに、日本独自の憲法をつくろうとしたのと、やり方は違っても同じ考えだ、と底本は書いています。

メッケルはまた、日本で初めて参謀演習(地図や現地で作戦を練る演習)を行った人です。彼は、学生がどんなに大勢いても手帳などは一切持たず、入り組んだ戦いの状況と地形を、びしびしと学生の頭に刻みこんでいきました。藤井茂太(ふじい しげた)は、こう書いています。

「この演習実施は、我が国開闢(かいびゃく)以来、当時の兵学界に一大画期的時期を現出せしめた。即ち我が国に於て、創めて大兵団の統帥法、特に後方機関を具備したる兵団の運用を研究するの端緒を開いたもので、メツケル氏が我が兵学界に貢献せしことは、極めて大なるものがあつたのである」(『両戦役回顧談』)

(この演習が行われたことは、日本が始まって以来、当時の軍事学の世界に、大きな区切りとなる時代をもたらした。つまり日本で初めて、大きな部隊を率いる方法、とくに補給などの後方の組織を備えた部隊の動かし方を研究するきっかけを開いたもので、メッケル氏が日本の軍事学に貢献したことは、きわめて大きかった)

メッケルの厳しい訓練を受けた当時の陸軍大学校の学生は、児玉源太郎(こだま げんたろう)、川村景明(かわむら かげあき)、大島義昌(おおしま よしまさ)、山根信成(やまね のぶなり)など、陸軍の中のそうそうたる人物でした。補給の線を持つ、近代的な大部隊の動かし方を身につけた彼らが、次にくる日清戦争でどれほど華々しく活躍したかは、その輝かしい勝利が何よりもよく物語っている、と底本は書いています。

メッケルも、日清戦争のときには本国で参謀本部の地理部長をしていましたが、彼の教えを受けた日本の若い士官たちが大きな手柄を立てたというので、ドイツ皇帝から勲章を授けられています(もっとも、帰国後のメッケルは、その輝かしい名声に比べて、晩年はあまりふるわず、少将で参謀本部の部長を最後に、現役を退いています)。

陸軍の官制の改革、日本式の兵制の確立、鎮台の廃止、参謀条例の改正など、桂次官の矢つぎばやの改革は、要するに日本の軍隊の近代化に拍車をかけました。これが当時の陸軍の拡張とあいまって、質の面でも、ほんとうに外国との戦いに役立つように育っていったのです。もちろんこれは桂一人の手柄ではありませんが、その中心が桂であったことは、誰も異論のないところです。

戊辰戦争・西南戦争の勇将で、フランス式の教育を受けた鳥尾小弥太(とりお こやた)・三浦梧楼・谷干城・曾我祐準(そが すけのり)の四将軍の保守的なグループに代わって、ドイツ式の近代的な軍事学に心酔した山県有朋・大山巌・桂太郎・川上操六のグループが全面的に進み出たことは、日本の陸軍の歴史に初めて科学的な組織の力を与えました。この上層部の入れ替えがなかったら、日清・日露の戦役で、あれほどの勝利をおさめることはできなかっただろうし、日本の国の運命もあれほど伸びることはなかっただろう、と底本は書いています。

 

※注:原本には「曾根祐準」と印刷されていますが、「曾我祐準」の誤りです。

 

これに対して、海軍の発達は陸軍より遅れていました。明治十九年、西郷従道は海軍卿として、第一期の海軍拡張案を閣議にはかりました。こうしてできあがったのが、厳島(いつくしま)・松島・橋立の、いわゆる三景艦でしたが、海軍としては、めざす拡張の目的はなかなか果たせませんでした。

というのも、西郷は陸軍の出身で、急に海軍のトップになったのですから、軍艦のことはほとんど知りませんでした。しかも、

「侯は無辺無涯にして何等の表現なく、その愚殆(ほとん)ど及ぶべからざるが如き間に、凡夫の忖度(そんたく)し難き神秘に包まれたり」

(侯は果てしなく大きくて、何も表に出さず、その愚かさはとても及ばないように見えながら、凡人にははかり知れない神秘に包まれていた)

と評されるほどの人物ですから、実際の仕事をするにあたって、これほど頼りにならない人はいなかったでしょう。

このほか、海軍をつくった時期の重鎮といわれる樺山資紀(かばやま すけのり)も、もとは陸軍少佐で、熊本鎮台の参謀長をしていたのを海軍に引き抜かれたのですから、生え抜きの海軍の軍人ではありません。「長州の陸軍、薩摩の海軍」と言われるほど、当時の海軍は薩摩の出身者で占められていました。海軍の先駆者ともいうべき勝海舟や榎本武揚(えのもと たけあき)も、一度は海軍卿として重要な地位につきましたが、薩摩の出身でないために、ほとんど何の仕事もできないうちに海軍を去るありさまでした。

人材が乏しかったことが、何といっても当時の海軍の不幸でした。これが世界的な海軍として、今日見るような堂々とした姿を整えはじめたのは、明治の中ごろ、山本権兵衛(やまもと ごんのひょうえ)がその不屈の面構えを、海軍省の一室に現してからのことです。

軍隊という柱が立ち、政党が生まれ、国会の開設が近づいてきました。次の回では、伊藤博文がドイツで学び、日本の国のかたちを定めた「憲法発布」を読みます。

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている 菊池寛『大衆明治史 国民版』(汎洋社・1942年) を、現代の読者に向けて現代語に訳したものです。

原本は戦時中に書かれ、戦後にGHQ(連合国軍総司令部)の没収の対象となった本です。原本の記述は省かずに訳し、原本の誤りや言葉の意味・人物・年代には注を添えています。当時の見方は、そのままの形で伝えています。
文章はAIが原本を読んで作成しました。アイキャッチ画像は、記事ごとに画像の中に出どころを記しています。

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