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雲照律師の生涯|廃仏毀釈の嵐から仏教を復興させた戒律の体現者

雲照律師の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「持斎(じさい)はもともと二飯じゃ。正午を過ぎては食うべきものではない」

東海道草津の宿で、ようやく運ばれてきた膳に箸もつけず、老僧は勘定を払ってそのまま東へ向かいました。正午を過ぎたら形あるものを口にしない。それが仏の定めた戒だからです。雲照律師(うんしょう りっし)。廃仏毀釈で地に落ちた仏教を、二百五十戒を一つ一つ守り抜く生活そのものによって立て直した人です。

 

言行一致以上

「心というものは、近ごろ往来を乗って回る自転車のようなもので、乗りさえすればすぐに動くのじゃ」

その日、師は日ごろ敬慕する三浦梧楼(みうら ごろう)将軍に伴われて井上馨の邸宅に招聘され、「心」についての法話の最中でした。その姿勢は枯木寒巌のように冒しがたいところがあり、しかも温情に満ち満ちた言葉をもって、人間の心の動き方について話を進めていました。けれども、あまり説法の上手でない師のこと、ことに仏教の専門語を持ち出しての話です。説けば説くほど、一座の者には変転きわまりない心の正体がますます分からなくなってきます。この様子を見てとった師は、ひょいと自転車のたとえを持ち出したのでした。ところが乗ればすぐ動き出すという師の言葉に、また井上はじめ一同の人々の頭は混乱していきました。

「ご老師は自転車とは、読んで字のごとく、乗りさえすればすぐ動くと仰せられるが、あれは乗って足を動かさねば走りませぬが、実地にご覧になりましたか」

老師はまだ往来で実地に見たことがなかったのです。が、「ああ、そうか」と答えてそのまま平気なものでした。たまに外出しても、師は車中にあって瞑目したまま静かに経文を誦しているという有様で、道行く人馬の往来には一切が馬耳東風だったのです。このように他事を顧みず、一意専心仏道に励み、持戒堅固にして徳望を一世に高め、よく朝野の崇敬の的となり、しかも鋭意、鉄のような信念をもって仏法のために尽くしたのは、あたかも明治維新の廃仏毀釈のあとを受け、仏教の威力もまったく地に堕ちようとしていた時代でした。

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師の生涯

雲照律師は出雲国神門郡東園村の人。姓は渡辺氏で、文政十年(1827年)三月二十日に生まれました。十歳で得度して真言宗の僧侶となり、高野山に登って華厳、密教、天台などの仏法を修学し、のち各地を遍歴して高僧の門をたたき、大いに仏道の精進を深めました。あたかも明治維新の廃仏毀釈の運動が日本の各地に起こり、仏法のみじめな頽廃ぶりに接した師は、諸宗同盟会議なるものを開いてその対策を講じ、時の神祇官に向かっても大いに仏教復興の必要を説きました。また真言宗新古の合同を策してこれが実現のために東奔西走、席の暖まる暇なく、一方また宮中後七日(ごしちにち)の御修法(みしほ)の再興をはかり、明治十七年(1884年)には久邇宮朝彦親王を奉じて東西両京に十善会を起こし、十九年には東京に目白僧園を設立し、また婦人正法会を興し、『十善宝窟』なる機関誌を発行し、以来東都の教界に尽くす一方、三十年ごろから神仏儒三道一貫の徳教主義を唱道して全日本を巡り、四十二年(1909年)八十三歳で他界するまで、日本全国教化の及ばないところはほとんどないまでに活躍しました。

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持戒堅固の生活

ところで雲照律師が当時朝野の人々から崇敬の的とされたのは、師の学殖や事業によるものではなく、ひとえにその持戒堅固な信念の生活、仏法二百五十戒の厳粛な生活態度によるものでした。あるとき師が上京の途次、東海道草津の駅で、宿で食事を命じたことがありました。旅人の送り迎えに忙しいなかをようやくにして整え終わって、女中が師の前にお膳を出したときは、すでにもう正午もだいぶ過ぎていました。一歩足を進めるのにも錫杖(しゃくじょう)の音をもって地の虫けらを追いのけ、一椀の水をくむにも頭陀袋(ずだぶくろ)をもってこれを漉(こ)して生きものの命を奪わず、二食主義を提唱して、十一時過ぎには決して形あるものを口にせず、すべて仏教の正しい戒律の生活をしている師でした。

「持斎(非時食戒を厳守すること)はもともと二飯じゃ。正午を過ぎては食うべきものではない」

と勘定を払った師は、お膳に箸をつけず、そのまま宿を出て東に向かいました。万事がこの調子で、師の一日の生活というものは、まことに厳粛なものでした。

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一日の精進

朝は三時に起床し、鈴によって僧園の学徒を呼びさまし、ただちに大衆とともに勤行をはじめ、便所に入れば無益の殺生を避けるために虫よけの呪文を唱え、出ればまた菩薩水に向かって虫よけの呪文を唱えながら手を浄めます。暗いうちはあるいは殺生を犯すことを恐れて、朝食は陽の昇らないうちは絶対にとりませんでした。食前と食後には厳かな呪文がしばらく続きます。朝食後は十時まで朝の勤行をし、十一時に二度目の食事をとって、それから仏教の講義を四、五時間続けるという、徹底した精進ぶりだったのです。

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御修法再興のこと

仏法興隆のために尽くした師一代のなかでも、もっとも大きな功績は、宮中における御修法の再興に大いに与って力があったことです。この「後七日の御修法」というのは真言宗の開祖弘法大師のときに始まるもので、当時伝教大師が比叡山に天台宗を開き、天台宗をもって鎮護国家の使命を果たそうとしていたのに対し、弘法大師が真言宗独自の加持祈祷によって国家平安、玉体安穏を祈りたてまつる儀式を興したのがこれでした。ところが歴代執り行われてきたこの聖儀も、明治初年の廃仏毀釈の余波を受け、明治四年以来廃止されていました。護法の信念堅い師はこの事実にいたく慨嘆し、政府ならびに要路の人々に建白書を提出し、また檄を飛ばし、実に艱難な折衝を経てようやくにして、御修法再興の御沙汰を賜ることを得たのです。この運動半ばのこと、師は井上外務卿を霞が関に訪れましたが、きらびやかに着飾った要路の重臣や外国の使臣らの居並ぶ広間にあって、これはまた、実に質素な破れ衣に破れ履きの師の姿でした。一秘書が師の前に至ってその建白書を受け取ろうとしたとき、師は「待った、待った」と厳かな口調で、まずその建白書を押しいただき、呪文を誦み、印を結び、瞑目祈祷ややしばらくしてようやく渡したといいます。

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十善会と婦人教化

明治十七年、師は久邇宮朝彦親王を奉じて東西両京に十善会を設立し、教化運動を起こしましたが、十九年に目白僧園に居を定めると同時に機関誌『十善宝窟』を出して同運動の徹底をはかり、夜は一時過ぎまで筆を執ることも往々でした。日ごろ師を崇敬する三浦梧楼、青木貞三、田中舎身、沢柳政太郎らはこの運動を熱心に後援しました。一方また師は婦人正法会なるものを起こして婦人の教化に尽くし、そのため井上、大隈、三浦らの夫人は常に師に接近して修養を励んでいました。厳格な師の戒律の生活の一面にも、またすこぶる暖かい婦人教化の努力も忘れられていなかったのです。当時発行された『十善宝窟』なるものの内容は主に古今の高僧の説法をもって埋められていましたが、この機関誌の発送がまたふるっていました。まずその帯封を師の目白僧園に持って来させ、師自らこれに厳粛な祈祷呪文を与え、それから発送を許すというのでした。自分の出す雑誌に対し、限りない自信と愛着とを持っていたのでしょう。

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臨終の遺誡

明治の政治的変革に伴う廃仏毀釈のあとを受けて、まだその社会的基礎を失っていなかった仏教は、ふたたび仏法興隆の一大気運を生み、幾多の名僧を輩出させました。学徳兼備の福田行誡、豪僧原坦山、桜木谷慈薫(さくらぎだに じくん)、それに洒々落々の禅坊主渡辺南隠、さらに学僧南条文雄などなど。そのあいだにあって、わが雲照律師は、その堅固な持戒の宗教生活と確然たる信念の生活をもって、あたかも白雪の富嶽のごとくそびえ立っていたのです。まことにこれらを八十年の生涯を通じて自らの生活態度のうちに実践躬行したところに、その不屈の気迫と努力とが光り輝いています。

したがって、またこの戒律に終始した師は、豪放な原坦山らからは時々手もなくからかわれたものでした。たとえばある日、坦山に酒を勧められた師は、もちろん日ごろ厳守している五戒の一つである不飲酒戒を破るべくもなく、至極不機嫌の様子。雲照のしかめ面を見た坦山は、呵々大笑して言いました。

「いやか。酒を飲まぬ奴は人間ではない」

この言葉にさすがの雲照もたまりかね、仏法は戒律を生命とすることを滔々と力説した末、

「酒を飲まぬからといって、なぜ人間でないなどと馬鹿にする」

と、むきになって怒り出しました。

「酒を飲まなければ、それこそ本当の仏さまだよ」

この坦山の返答には雲照もまったく気抜けの体で、返す言葉もなかったといいます。雲照の峻厳な持戒堅固の生活も、ひとえに仏法興隆への熱烈な求道心からでした。師は精進に精進、一瞬たりとも自ら仏法に違背しないことを日夜つとめ、常に自らの完からざることを深く反省し続けました。晩年に弟子たちに遺誡した言葉は、まさに彼の心情を深く物語るものでしょう。神田は駿河台の薩摩治兵衛の奥座敷で病を得て養生をしていた師は、いよいよその臨終というとき、弟子たちに遺誡して言いました。

「お前たち、わしがこんな俗僧になったことを、わしの本心じゃと思ったら大間違いだよ。まったく世の中が世の中じゃから、こんな市のなかで俗僧のまねもせんければならぬのだ」

これが、八十年の生涯を戒律の生活に徹した師の、臨終における真剣な告白でした。

自転車を見たことがなく、正午を過ぎた膳に箸をつけず、雑誌の帯封にまで呪文を唱えた人。その融通のきかなさが、廃仏毀釈で崩れかけた仏教を支える柱になりました。最後に「俗僧のまねをしていただけだ」と言ったこの人の、本心の僧の姿は、誰も見たことがないのかもしれません。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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