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九代目 市川団十郎の生涯|天覧歌舞伎を成功させた明治の大スター

九代目 市川団十郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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明治劇壇の第一人者

 

絢爛(けんらん)豪華な大歌舞伎劇は、我が国が持つ世界的な誇りの一つである。この栄誉ある歌舞伎の伝統を、遠く江戸時代から明治末期に至る二百年間にわたって維持し、大成せしめたものは、市川家九代に相伝わる修業努力の賜物(たまもの)である。特に明治初年から明治の末期にかけて、華やかな歌舞伎時代を出現させた功労者は、一代の名優・九代目団十郎である。彼は時代物を尊重し、歴史的人物の活写に意を注ぎ、いわゆる「活歴(かつれき)」の芸風を建て、歌舞伎劇の精神的・内容的向上に専心の努力を傾倒(けいとう)したが、その豪放な演技と天才的な芸風は、天下の観客を魅了せずにはおかなかった。

一日の出演料が千円といわれ、明治31年(1898年)の春、大坂の歌舞伎座へ乗り込んだ時などは、五万円の給金(現在の価値に直すと約400万〜500万円か)をとって、世上の物議を醸したほどであったという。まるで天下の人気を一人で総浚(ざら)いにした観があった。上は伊藤博文、井上馨、大隈重信などという顕官(高官)から、下は床屋のおやじ、八百屋の小僧に至るまで、彼のファンでない者はなかった。ともあれ、彼は明治劇壇の第一人者として、その名を不朽に残した名優であった。彼の舞台姿は現在銅像に建設され、浅草公園にあって、演劇の街を睥睨(へいげい)している。(※銅像はのちに戦時中の金属供出などで失われましたが、再建等の歴史があります)

 

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修業時代

 

彼の先祖は、元禄時代に一代の名優として名高かった初代市川団十郎。実父は文政天保の頃に同じく江戸の劇壇に雄飛した七代目団十郎である。元は甲州武田家の家来で、堀越十郎という武士である。

七代目は、わずか十歳にして団十郎を襲名し、文化文政年間、一流の名優として崇め(あがめ)られたが、四十二歳の時、人気の絶頂において団十郎の名前を実子の八代目に譲って、自らは幼名・海老蔵(えびぞう)を名乗った。この時、八代目は十歳であった。この八代目は三十二歳で自殺したから真の技量を発揮するに至らなかったが、ほとんど古今に稀な人気役者であった。

七代目は甚だしき一夫多妻主義の実行者であって、九代目はその妾腹に生まれている。母をお為と言った。彼女は七代目に囲われてから、足かけ四年目の天保6年に一人の子を挙げた。これが九代目と同腹の兄たる猿蔵であった。それから中を二年置いて、天保9年(1838年)に九代目団十郎の誕生を見ている。しかし彼は生まれてから十二日目に、河原崎座の太夫元(たゆうもと:興行主)である河原崎権之助の養子となって、三十間堀の自宅へ引き取られた。

とにかく、彼は一代の幸運児であった。実家は役者の総本家と言われる「市川家」、父は当時の役者の総元締めの観ある七代目、兄の八代目は当時江戸第一の人気役者、養家は金力と権力において俳優社会に江戸随一の勢力を張った河原崎座の太夫元(たゆうもと:演劇や芸能における興行の最高責任者)であった。だから、彼は生まれながらにして芝居王国の貴公子であった。

養父は彼を愛すると共にひどく望みを嘱し(しょくし:託し)、天晴れな役者にしようとして、俳優に必要な教育を残らず課した。その第一は踊りであった。踊りはやや物心ついた頃から、名人として聞こえの高かった西川扇蔵の許へ通わせて教授を受けさせた。その外にも、まだ色々な稽古事をいくつも仕込まれた。朝起きて飯を食うと寺子屋へ行き、それから踊りの稽古、三味線の稽古。これを終わって家へ帰ると、また踊りと三味線のおさらいをさせられる。その外に花の稽古、お茶の稽古と、ほとんど身体一つでは足りない程の課程であった。だから頑是ない(がんぜない:幼い)彼は、寝るのと用便に行く外は稽古事のみに追われて、いつも気が詰まると雪隠(せついん:トイレ)へ遊びに行ったという話がある。用を足しに行くふりをして雪隠で遊んだのであるが、いかに彼の教育が厳格であったかが分かるであろう。

団十郎が踊りに長けていたのは、この幼時の薫陶(くんとう)が与(あずか)って力があった。もう一つには、彼の体質であった。彼の手は俗に言う「弓手(ゆんで)」で、肘(ひじ)の関節を外へも曲げることが出来る。それだから『対面』の五郎となって腕を伸ばした時に形が崩れない。またすべて荒事をするのに、自然に肘が外へ張るので、彼のふっくりした格好が付くのだそうである。

とにかく、彼はかくのごとき厳格な家庭教育を受けると共に、一方舞台を勤め、諸芸の稽古に余念がなかった。彼の初舞台は五歳の時、訥升(とっしょう)の『渡辺亘』に、八代目が『盛遠』をして、そのとき『升平』という奴(やっこ)に出たのが初めだと言われている。

 

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九代目襲名

 

八代目が大坂で自殺を遂げたのは、安政元年(1854年)8月6日であった。その時、彼・九代目は17歳であった。その翌年には、彼と母を同じくする実兄・猿蔵が21歳で八代目の後を追ってあの世へ赴いている。彼が引き続いて二人の兄を喪ったのは不幸であったが、彼のためには飛躍の機会を作ることになった。八代目が自殺した安政元年11月に、彼は『忠臣蔵』の若狭之助を勤めた。これまで子役か、でなければ若立役の端役(はやく)であったのを、ここに至って初めて本役を振られたのである。

翌年『鏡山』に、彼は采女(うねめ)を勤め、中幕が坂東しうかの『女長兵衛』であったが、しうかは二、三日出たきりで病気になった。しうかの代わりに彼にお鉢が回って、彼は『幡随院長兵衛弟長吉』という役名でそれを勤めた。この時、彼は八代目の変死を悲しむ当て込みの台詞を舞台で言った。これが見物にワッと受けて大入りを取ったそうであるが、それからの彼の進境はめざましく、河原崎権十郎こそ未来の九代目団十郎だという評判が高かった。(彼は河原崎家にもらわれて河原崎長十郎と名付けられ、嘉永5年に将軍家に若君が生まれ「長吉郎」と名付けられたので、一般に「長」の字を憚って(はばかって)彼も「権十郎」と改めたのであった。)

彼が九代目団十郎を襲名したのが、明治7年(1874年)であった。養家との了解が成り立って、ようやく八代目が自殺してから実に二十一年目に、初めて市川家の名跡を継いだのである。その間、市川家の名誉ある名跡は絶えていた訳である。

 

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豪華の晩年

 

彼が九代目を襲名してからの活躍は、実にめざましかった。河原崎座を再興するために莫大な借財を背負い、また演技に新工夫を取り入れて歌舞伎劇に独創を加えんとして失敗し、種々な苦境にも沈んだが、しかし晩年にはその苦心が報いられ、彼は名優としての一代の声望(せいぼう)を担ったのである。

明治21年(1888年)4月26日、彼の演技は畏くも天覧(天皇陛下がご覧になること)の光栄に浴している。この頃が彼の人気の絶頂であった。また彼の三十年間にわたる演技が円熟期に入り、油の乗り切った絶頂でもあった。明治の功臣・井上馨伯爵が、鳥居坂の自邸の茶室開きとして聖上の御臨幸(ごりんこう)を仰ぎ、余興に芝居を御覧に入れることになって、彼がその光栄に浴したのである。これは彼の一門の光栄のみならず、当時の演劇社会にとっての無上の栄誉であった。その時の事情は『団十郎経歴談』に詳しいから、ここに抜いて見よう。

「……そのうちに日が経って、いよいよ明日は天覧となった。その前の日から、もはや飯も咽喉(のど)へ通らない、夜も寝られない、もしや斯(こ)んな面白くもないものをとの仰せがあって、中途でお立ちになられるようなことがあっては大変だと、心配でならなかった。さて当日になって、鳥居坂の御屋敷へ出る、やがて主上には御臨幸と相成って、君が代の奏楽につれて設けの御座へ着かせられた。奏楽の止まるのを合図に緞帳(どんちょう)を巻き上げる。一番初めに出るのが、高橋(初代市川左団次)の富樫だ。『斯様に候(そうろう)者は富樫の左衛門にて候』と言っているのを後で聴いていると、いつもの高島屋とまるで台詞の調子が違っているから、揚幕から覗いてみると、高島屋が俯向(うつむ)いてブルブル顫(ふる)えていた。それから福助の義経、その時分は病中であったから、なおさらガタガタ顫えていた。けれども私は舞台に出てから恐れ多い訳だが観念して、自分では頭を上げているつもりであった。のちに問答になってからはそうでもなかったが、勧進帳を読む間は実に苦しかった。」

と述懐している。聖上の御前で一代の名優たちが非常に恐懼(きょうく)している有様がうかがえて、興味がある。

翌27日には皇后陛下が行啓(ぎょうけい)せられ、28日には各国の公使が招待せられ、29日には皇太后の行啓となり、この四日間で首尾よく天覧芝居を終わった。芝居が済むと彼の眼は落ち凹んで身体が痩せて、体重を量ったら一貫五百匁(約5.6kg)ばかり減っていたそうである。そして畏き辺りからは、彼ら一同に包み物(金一封)を賜ったが、団十郎は内容の金を残らず一同の弟子に配って、上包の奉書だけを天覧の光栄の記念として子孫に遺し、今も大切に保存してあるということである。

天覧の光栄を賜った『勧進帳』は、引きつづき新富座の六月狂言として上演し、二ヶ月間の大当りを取り、彼の人気をいやが上にも煽ることになった。

彼は勤王愛国的な題目を好んで演じたが、それにはこういう烈々とした見識があった。

「たとい一口に狂言綺語(きご:作り話)と申すものの、巾着切りや盗賊よりは、国のためとか忠義のためとかいう高尚なことをやってみたいと私は心掛けました。もっともやって見ますと、巾着切りとか盗賊の狂言で評判を得ましたよりは、国のためとか忠義のためという実(み)のある方が、やっている私も心持ちが良う御座います。」(『芸人めぐり』)

これが彼の口癖であった。「どうせ芝居をして演るならやはり、国のために尽くすとか、君のために死ぬとかいうような芝居でなければいけない」

――そしてこれが、彼の一貫した芝居道の精神であったが、明治36年(1903年)9月13日、66歳をもって、五歳の初舞台以来その天才的演技を見せて来た華々しい生涯を終わった。

 

九代目 市川団十郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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