天稟の文才
仰げば秀峰・南部富士(岩手山)が巍然(ぎぜん)として雲表(雲の上)をかすめ、望めば清流・北上川がうねうねと帯のように走る。盛岡から北へ四、五里(約16~20キロ)、樹間に閑古鳥が鳴くところ、ここの渋民村(しぶたみむら)が石川啄木(いしかわ たくぼく)の出生地である。
明治19年(1886年)2月20日、彼は村の貧乏寺・宝徳寺の長男(子)として生まれた。本名は一(はじめ)。
「大形の 被布の模様の 赤き花 今も目に見ゆ 六歳の日の恋」
彼自身、幼い時を回想してこう歌っているが、これは実に生き生きとした自己表現で、彼は生まれながらにして血潮のほとばしるような熱情家であった。盛岡中学(現在の岩手県立盛岡第一高等学校)に在学中から、非凡な文才は彼をしきりに駆り立て、ますます純情多感な夢想家たらしめた。
その頃、中学にはある文学団体が出来ていたが、啄木はその団体に加わっていて、よく仲間と喧嘩をした。彼のほとばしるような負けん気と不屈な態度が仲間の憎悪を買い、いつの場合もそれが原因であった。だが、仲間たちはそれでいて啄木を除け者扱いにはしなかった。啄木の持つ天才の閃きに一種の魅力を感じ、圧倒されていたからである。
明治35年(1902年)の秋、その頃すでに雑誌『明星』に歌が載り始めていた啄木は、田舎の中学にじっとしていることがこらえきれなくなり、ついに野望を抱いて上京した。ロマンチシズム全盛の時代で、啄木はまだ中学五年、わずかに17歳の少年であった。すると姉崎嘲風(あねざき ちょうふう)、上田敏(うえだ びん)、与謝野鉄幹(よさの てっかん)などを始め、当時の若い歌人、詩人と交際しだし、早くも文壇に向かって颯爽(さっそう)たるスタートを切った。まさに驚嘆すべき天才と称すべきであろう。
またその頃、彼はワグナーの『白鳥の騎士』の英訳本を辞書と首っ引きで読んでいたが、彼が高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)の所論に傾倒したのもその頃である。
だが、憧れた都会の生活も、生活難と病魔のため思うに任せず、彼は間もなく故郷へ帰らなければならなかった。明治36年(1903年)、上京した翌年である。

村を愛し村に反く
明治37年(1904年)の秋、北海道に旅行の後、再び都門の人(上京)となり、翌年20歳、彼の処女詩集『あこがれ』は成った。だが生活の道に窮し、再び渋民村へ帰って行った。そしてその年の六月、年来の恋人・堀合節子(ほりあい せつこ)と結婚し、盛岡に出てささやかな家庭を営んだ。現象的に見れば、この時が啄木の生涯における最も幸福な時代であったろう。それもわずか半年あまりで、翌年の三月には、まだ深い雪を分けて彼はまた渋民村へ引き揚げざるを得なかった。
渋民村へ帰ると村の小学校に代用教員として奉職したが、そこにも彼は長く落ち着くことが出来なかった。彼の性格が異常で、その才能があまりにも非凡であったがため、沈滞した伝統の悪習や平凡人の圧迫が、どこへ行っても彼を迫害するのである。その反面にはまた、啄木の金銭に対する無関心さや、性格の尊大さが、常識の世界を悩ましたのであることも事実であろう。
村の事情に絡んで小学児童のストライキが起こり、啄木は校長と衝突し、無理解な村民の反感を買った。そしてついに村を愛しながら村に反(そむ)き、村を去らなければならなかった。
「石をもて追はるる如く ふるさとを出でしかなしみ 消ゆる時なし」
これはその当時を歌ったものであろう。
一家離散。両親、妻子ちりぢりになって、悲惨な流浪の生活がここに始まった。教員を辞めたのが明治40年(1907年)の四月。五月には北海道に渡っていた。函館、小樽、釧路、札幌などの小さな新聞社を、彼は貧苦と闘いながら転々流浪して歩いた。函館では商業会議所の雇いとなったり、小学校の代用教員もやった。
「はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし) 楽にならざり ぢっと手を見る」
啄木の行く所、貧乏は生涯ついて回った。
釧路では二十三歳の若さで新聞の編集長をやったりしたが、当時巻き起こった自然主義運動にいち早く共鳴すると、彼は矢も盾もたまらなくなってたちまち上京してしまった。
このようにして流浪の地・北海道を去って来た彼は、その頃から思想的にも非常に深められ、その歌も炎のように燃えて行った。彼は芸術の上で、もうあの外面的な粉飾も、往年の感傷主義もかなぐり捨てていた。数編の小説を書き上げたが思うように買ってもらえなかったし、盛岡の老父母や妻子には飢えが迫っている、そして自分も飢えと闘っている。このような現実が、非凡な彼の才能と激しやすい感情を、必然的に深刻な思想へ向かわせたのであろう。
「たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」
「こころよく我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なんと思ふ」
故郷の父母や妻子の上に激情を走らせ、己れの貧苦をかこちながら、彼はしかし果敢に現実と闘い抜いて行った。

生活派短歌の先駆者
かつての啄木は、単に浪漫派の詩人、あるいは情熱の歌人として、その非凡な文才を駆使していたに過ぎなかった。それが現実生活の苦境によって彼の目を外に向かって開かせた。啄木の思想的自覚は、芸術至上主義の殻を破って「人生本位」の態度に変化して行った。
国家、社会、生活などの問題から逃避して、むしろ自堕落な生き方をすることが文士の特権であり誇りでもあるかのごとくであった当時の周囲に対して、啄木の激情と気概は鋭く反発して行ったのである。
彼はかつての明星流の、ただ甘い絢爛(けんらん)そのものによって粉飾された歌風を排し、日常生活の現実をその歌の上にますます生き生きと歌うようになった。それが「生活派短歌」で、歌を三行に区切って書くことも彼の創始であった。
人生を風流視していた人々は、この啄木の態度を見てたちまち驚嘆した。いや、驚嘆でなく、それは非難であり排撃であり攻撃であった。啄木はその圧迫の中にあって、敢然として節を曲げなかった。信念を放棄しようとはしなかった。ほとばしる情熱と鋭い観察とをもって、ますます深く現実の中へ食い入って行った。
彼自身にとっては芸術的・思想的な大転換の過程であり、客観的には被圧迫者として最も苦難な時代であったろう。だが時代の波は、そうした状態のすぐ後に押し寄せて来ていた。民衆の意気(思い)を代弁したその歌を迎えて、続々と共鳴者が現れるに至ったのである。
この啄木が、逆境に苦闘しながら演じた役割が「明治の短歌革命」であった。彼のような非凡な天才にして初めてなし得た業績であり、そしてそれは明治文壇にとっての大きな貢献であった。

厳粛な一面
思想的にも生活的にも、彼ほど苦しんだ者は少ない。その苦しみが啄木をして、あれほどの「偉大な人間・啄木」に磨き上げたのだとも言えよう。
「わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く」
という歌は、けだしその真実を把握している。
「いくたびか 死なんとしては死なざりし わが来し方の おかしく悲し」
とも歌っている。何度か死を思い詰めたのも彼の真実であり、しかも死ねなかったのも彼の真実である。実に彼の一生は「嘘のない一生」であった。裸になって己れを見つめ、社会現象をじっと見つめている。彼は生涯を命がけで生き通した詩人である。
しかし彼は、野卑(やひ)でも放縦(わがまま勝手)でもなかった。
ある夏の日のこと、訪客を迎えた彼は、団扇(うちわ)を使いながら、しかもきちんと袷(あわせ:裏地のついた着物)を着ていた。単衣(ひとえ:夏用の薄い着物)がなかったのである。裸で訪客に接することは、夏のことであり許されたかも知れない。しかし彼はそれを欲しなかった。この一事にもうかがえるごとく、彼の生活態度には一面、非常に厳粛なものがあった。

晩年
明治42年(1909年)3月、彼は東京朝日新聞に校正係として入社し、いくらか生活上の落ち着きを得た。
朝日新聞に歌壇が出来て、その選をするようになったのは翌年9月で、11月に第一歌集『一握の砂(いちあくのすな)』を刊行した。明治43年の後半期頃から、歌壇の中心は、若山牧水(わかやま ぼくすい)、前田夕暮(まえだ ゆうぐれ)を離れて、啄木の時代に入ろうとしていた。彼の苦闘がようやく報われて来たのである。
だが惜しいかな、苦闘に疲れた啄木の体は、その全盛期を前にして肺病に襲われ、明治45年(1912年)4月13日、彼はあの激しい熱情で苦境の中を闘い抜いて来た27歳の生涯を終えた。
第二歌集『悲しき玩具(がんぐ)』は、死ぬ数日前(※実際は死後すぐ)に出版の話がまとまり、没後、友人たちの手で世に出た。
「高きより飛びおりるごとき心もて この一生を終るすべなきか」
この歌のごとく、彼の生涯は一本調子で非妥協的であった。27年の短い生涯であったが、その間に彼は一つの詩集、二つの歌集のほか、小説や評論を数多く遺し、『啄木全集』三巻をなしている。
故郷の思い出、故郷の風物、故郷への思慕を歌った歌の非常に多かった彼の記念として、南部富士を背に、北上川の清流を見下ろして碑が建てられた。
「やはらかに柳あをめる 北上の岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに」
これが碑に刻まれた思慕の歌である。


