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石川丈山の生涯|大坂夏の陣の勇士から詩仙堂の隠遁者へ

石川丈山の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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自適詩仙の境

 

「武士の道は日夜忘れ候わで、何する人の後になり候わぬよう、猛々しき心掛け、また万事につけて欲するなく、清廉を心に持ち申すべき事――」

(武士の道は日夜忘れず、誰にも遅れをとらないような勇猛果敢な心掛けを持ちなさい。その一方で、何事にも私欲を持たず、清廉潔白な心を保つべきである)

これは石川丈山(いしかわ じょうざん)が親族の某に与えた『接旧』という七箇条中の言葉である。丈山は、この一見甚だしい矛盾にさえ聞こえる言葉の内容通り、その生涯を送った人であった。

その生涯の後半を、比叡山麓の一乗寺村で過ごしたが、妻も娶(めと)らず下男とただ二人住まいで、悠々自適(ゆうゆうじてき)、詩作に耽(ふけ)って暮らした。

彼はこの自適生活のうちに『朝鮮筆語』などの書を著したほど博学であり、名声世に鳴り響いた詩人であり、また豪気千軍を恐れぬ武人であった。

感ずるところあって比叡山麓に世を避けて卜居(ぼっきょ:住まいを定めること)したのであったが、世間は彼の意図がいかなるものかを斟酌(しんしゃく:相手の事情や心情をくみ取り、それに合わせて配慮や手加減をすること)せず、各方面から仕官の慫慂(しょうよう:勧誘)が絶え間なかった。武人としての彼に仕官を求める者もあり、学者として彼を招かんとする者もあり、また人間としての彼を欲する者もあり、それぞれ高禄をもって迎えようというのであった。

しかし彼は、そのいずれをも固辞して受けなかった。就職条件を問題にしたためではもちろんなく、いかなる高禄も、いかなる名誉も、地位も栄華も、彼としては悠々自適の生活、詩仙の境(境地)には代え難かったのである。

恐れ多くも後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が前後四回にわたって彼を召し出そうとされたが、彼はそれすらも固辞し奉って、最後には、

「渡らじな 瀬見の小川は 浅くとも 老の波そふ 影もはずかし」

(鴨川の浅瀬は、水が浅くてたやすく渡れるとしても、私はもう渡るつもりはありません。なぜなら、水面に映るすっかり年老いてシワ(波)の増えた自分の姿を、いまさら世間にさらすのは恥ずかしいからです)

という歌を捧げた。瀬見の小川とは京都の鴨川のことである。ここに於いて天皇は、その志操の高さとして、

「恬退(てんたい:名利を求まず退き静かにしていること)かくの如し、朕(ちん)あに奪うべけんや(私がどうしてその志を奪うことができようか)」と仰せられた。以後、再び召し出されることがなかったという。

丈山は、京都(洛中)には入るまい、足一歩も一乗寺村を踏み出すまいと誓ったのである。彼がそこにいることを伝え聞いて、その庵を訪れる人も次第に数を増したが、彼は高位高官の人々には面会を謝絶して絶対に会わなかった。わずかに交渉のあったのは、林羅山(はやし らざん)、堀杏庵(ほり きょうあん)、僧元政(そう げんせい)、陳元贇(ちん げんぴん)ら、年来の親友のみであった。

世を捨てたと言えば言い得るかもしれない。否、詩人的気骨と清廉の現れと見なすべきであろう。

 

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軍規紊乱(びんらん)の勇士

 

天正11年(1583年)といえば、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦があった年で、日本全土にはまだ戦国時代の血生臭い風が吹き荒んでいた。しかも三河は戦禍の中心地帯である。この戦雲渦巻く三河の国に、石川丈山はその年の十月に産声をあげた。

家は代々徳川家の家臣で、なかでも武勇の誉れ赫々(かくかく)たる家柄であった。彼の祖父は長久手の戦いで戦死しているが、父・信定もまた祖父に劣らぬ勇名ある武人であった。従って、かかる家柄に生まれた丈山は、あっぱれ父祖の名を辱しめぬ勇士たるべきを目標に教育された。通称を嘉右衛門(かえもん)と言った。

少年時代、早くも家康の近侍として召し出され、度々の戦において同輩をしのいで武功を建てた。だが、その数々の武功も甲斐なく、彼はやがて家康から譴責(けんせき:過ちや不正な行為を厳しくとがめ、責任を追及すること)処分に付されなければならなかった。

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣の血生臭いさなかである。丈山、年は32歳の働き盛り、堂々、家康の旗本に従って出陣した。そして一方の勇将として勇猛果敢な振る舞いを味方の間に轟かせていた。元来彼は忠実に軍規を固守して戦うことをせず、常に独断的に軍を進める癖があった。しかも勝利を得たのも、その武勇に任せて猪突した場合が多かった。

その時も丈山は軍の真っ先に立って進んで行った。味方は非常な苦戦であった。だが丈山は持ち前の気性から、ものともせず一人先へ先へと進んだ。大胆極まる振る舞いと言おうか、誰一人彼の後に続いて進む者もなかった。ついに彼は味方の軍から離れ、たった一人、敵の真っ只中に跳り(おどり)込んでしまったのである。

敵は彼の傍若無人な態度に圧倒され、さっと行く手を開いた。だが、この名高い勇将を討ち取って功名を建てねばならぬと反省したとき、彼らは多勢を頼んで丈山へ迫って来た。丈山は寸分の隙も見せず一刀を構えた。悠々たるその態度、そこには、彼は微笑しながら闘っているのではないかと思わせるものがあった。

丈山は激しい斬り合いの中で、敵兵を容易に討ち取ろうとはしなかった。いかにしても避け難い場合だけ、さっと刀を躍らせて血煙を浴びた。しかし敵地の真っ只中である。見る見るあちこちから現れた敵兵の矢継ぎ早の攻撃のために、さすがの丈山も危うしと見えた。これを見た丈山は緊張した。

突如、彼が声高く叫ぶと見るや、彼の眼前には敵兵三、四人がものの見事にのけ反っていた。その腕の冴え、瞬間、彼の血しぶきを浴びた勇姿は、とっとと味方の陣地へ引き揚げて行ったのである。

この戦争において、徳川家は特に厳しく軍令を守ることを諸将に命じていた。従って、石川嘉右衛門の行動は、たとえ彼がいかに目覚ましい武功を建てたとしても、また彼がいかに惜しむべき勇者であったとしても、それは厳罰に値した。一方の将たる身として、あまりにも軽率な振る舞いと見なさなければならなかったからである。

だが丈山は、己れの犯した罪を謝そうとはしなかった。そのまま徳川家を見棄てて浪人してしまったのである。

 

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かねての理想

 

家代々の武勇の血を受け、勇者たることを目標に教育されているだけに、一度戦塵を浴びれば猛虎の勇を振るう丈山であった。だがまた一面においては、幼時から血生臭い戦場を往来して来ているだけに、戦争の惨虐は、生々しい実感となって彼の胸にこたえていた。

彼は敵を倒すよりも、むしろ自分が敵に倒されることを望む瞬間さえあった。だが、いざとなるとつい猛虎の勇に駆られて敵を倒してしまう。そうした自分がまた、彼には浅ましく感じられるのであった。

「武士を辞めよう、そうしたらこの心中の苦悶も消え去るであろう、そして悠々自適の生活を送るのだ」

いつの頃からか彼の胸にはこうした理想が描かれていた。

だが、彼の理想はすぐには実現されなかった。彼は老母を不自由な生活に陥れたくないため、どこかに仕官しなければならなかった。結局、縁故のある芸州浅野侯に迎えられ、そこの客分として仕えることになった。

彼の老母が死んだのは、それから十年ほど後であった。それと同時に丈山は浅野侯のもとを辞した。いかに引き留めても彼は辞意を翻さなかった。そして、かねての理想を実現させるべく、比叡山麓へ移り住んだのであった。

それから幾年かが過ぎ去った。その間に彼の手になった詩に、

「枕頭 三尺の剣 瓶裏 一枝の梅
腰間 無印の綬 胸裏 三軍を揮う(ふるう)」

(枕元には、いつでも戦えるよう三尺(約90cm)の見事な名刀が置いてある。 部屋の花瓶には、ひっそりと一枝の美しい梅の花が活けてある。腰には、出世や官職を示すような派手な飾りなど一切つけていない。 しかし私の胸の内では、今でも大軍を自由自在に指揮して戦うだけの、強い気概と戦略が渦巻いているのだ。)

というのがある。この丈山の生活を見て人々は噂した。「あんな隠遁的な生活をしていても、この詩に寄せている意味が彼の本音なのだろう」。彼ほどの武人に対しては、世間がそう推察するのも当然であった。

だが丈山は、彼に会った人が戦争のことに話を向けると、

「衰老 記憶なし、前事 皆 茫然(老い衰えて記憶がない、昔の事はみな忘れてしまった)」

ととぼけて、すぐに話題を転じてしまうのであった。

彼の詩の傑作も、それから多くの著書も、この一乗寺村に来てからなされたものである。それから彼は書にも堪能であった。彼の書はその詩にも劣らぬ優れたもので、当時人々は争って揮毫(きごう:毛筆で文字や絵を書くこと)を求めたものであるが、現在ではなお一層人々の珍重するところとなっている。

 

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詩仙堂

 

丈山は一乗寺村を永住の地に定めると、その庵を理想的なものにするため、親友・林羅山と相談し、大いに論議を戦わせながら、漢晋から唐宋に至るまでの詩人三十六人を選んで、その画像を狩野探幽(かのう たんゆう。※原文では狩野守信)に描かせ、彼らの詩の代表作を自ら筆を揮(ふる)って書き、それを壁間に掲げた。

これが「詩仙堂(しせんどう)」と称され、現在なお京都の一名所となっている。

彼はこの詩仙堂で悠々自適、ただ詩と書を友とし、清貧を楽しんでその生涯を終えた。時に寛文12年(1672年)5月23日、90歳の老齢であった。一乗寺村の金福寺(こんぷくじ)の後山に葬られた。

一見世を捨てた隠遁者のごとき後半生であったが、しかし彼の詩に表れた気骨は、なお彼の中に隆々たるものを偲ぶことができるであろう。

「仙客 来遊す 雲外の巓(いただき) 
神竜 栖(す)む 老洞の淵
雪は綰(わん)の如く 煙は平(へい)の如し
白扇 倒(さかしま)に懸かる 東海の天」

(※富士山を詠んだ有名な詩)

この詩は丈山の作中でも、最も世に知られた詩である。彼の同時代人で最も見識の高かった荻生徂徠(おぎゅう そらい)も、彼を唐代の大詩人たちに比較している。また朝鮮の詩人たちも彼を称賛して、日本の李白、杜甫だと評した。

しかし現在では、彼の詩よりも、むしろ彼の人間そのものに、より高い評価が集まっていると言えよう。       

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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