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池田光政の生涯|民を愛し幕府にも筋を通した備前岡山の名君

池田光政の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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米の生る木をまだ知らぬ

 

天下を二つに分けた関ヶ原の戦いが決着すると、徳川に頭が上がる者はなくなり、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代は完全にその最後の幕を閉じた。

歴史の必然的な成り行きから言っても、乱世の後には平和的な政治家が出現するし、また出現しなければならない。徳川治世三百年の泰平(たいへい)は、そうした名君(諸侯)たちの力によるものである。

池田光政(いけだ みつまさ)はその中でも傑出した一人で、小早川秀秋の死後に領地を受け継ぎ、備前(岡山)三十二万石を領し、それより池田氏は歴代の名君によって連綿と明治まで続いた。

「わたしや備前の岡山育ち、米の生(な)る木をまだ知らぬ」

という当時の民謡は、領民の事情に通じていないという意味ではなくて、「城下育ちの者は、米の生る木など知る必要を感じない(苦労を知らなくても暮らしていける)」ほど、世の中がよく治まっていることを謳歌(おうか:称賛)したものだという。

光政は、武将として名高かった池田輝政の孫で、家康の次女・督姫(とくひめ)は祖母に当たる。慶長14年(1609年)に生まれ、幼名を新太郎と称し、左近衛権少将(さこのえのごんのしょうしょう)に任ぜられたので「新太郎少将」と呼ばれた。

「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹(なかえ とうじゅ)を師としただけあって、学問を好んだことは言うまでもなく、また非常な節約家(節倹家)で、へりくだる心(謙譲の徳)が高かった。

 

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年少治国の法を悟る

 

慶長から元和、寛永にかけての時代は、やっと徳川の基礎ができたばかりで、機会を狙う虎視眈々(こしたんたん)とした豊臣の残党も少なくはなく、諸国はまだ十分に平和であるとは言えなかった。

十四、五歳になった光政は、すでにそこに考えを向けて、京都所司代(きょうとしょしだい)の板倉勝重(いたくら かつしげ)に「国を治める方法」を尋ねたことがあった。

勝重が謙遜(けんそん)して、

「自分は町人の間に起こった出来事を裁いているだけなので、国政に関しては一向に存じませぬ」

と答えると、光政は重ねて、

「京都所司代は大役じゃ。その種々な経験から生まれる考えには、きっと国政に有益なことも多いに違いないと思うゆえ、ぜひお聞かせくだされ」

と促してやまない。すると勝重は、

「たとえて申しますなら、民を治めるには、『四角な箱に味噌を入れて、丸い杓子(しゃくし)で取る』ような心得があればよろしいでしょう」

と答えた。
この例え話は少年の光政には理解できなかった。不審な顔つきで、

「それでは、隅々まで十分に行き届かぬであろうに……」

と反問すると、

「そこが大事なのです。政治は寛(ゆる)やかでなければ、正しく行くものではござらぬ」

政治の要諦(大切なポイント)をそんな風に説いた勝重も偉いが、「なるほど」と頷いた年少の光政も偉かった。その意味するところをよく飲み込んだとみえて、後年、すべてその調子で善政を敷いたのである。

 

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家臣の注文

 

家老には池田出羽、池田伊賀などがおり、しっかりした人物が揃っていた。ある時、一同で『孝経(こうきょう)』を読んだことがある。「争臣(そうしん:君主をいさめる家臣)」の章まで来ると、光政は顔を上げてずっと皆を見回した。

「大事なのはここである。君臣の隔(へだ)てはあっても、心は一つでなければならぬ。予にもしも間違いがあったら、遠慮なくいさめてくれるのがお前たちの務めである。お前たちもまた、人の忠告に耳を傾けるようにいたせ」

「はっ」と恐れ入る人々の中から、進んで身を乗り出したのは、中川権左衛門という者だった。

「まことにありがたいお言葉を承りますが……」

と言いかけて光政を見上げた。

名君ではあるが、光政は天然痘(痘瘡)に罹ったことがあり、そのあばた痕(あと)がひどく見苦しい。その上、目は鋭く人を射貫く(いぬく)ようで、機嫌の悪い時などは、とても二度と見られないような恐ろしい顔つき(形相)だった。
中川権左衛門は、さすがに言いにくいことではあったが、思い切ってそれを言い出した。

「いさめ言(諫言:かんげん)をお許しくださるとは、まことのことでござりましょうか」

「予の頼みである」

「では、何よりも先に、お顔をお和らげ遊ばすことが肝要の儀と存じ上げます」

光政はできるだけ態度を優しくして、鷹揚(おうよう)に頷いた。

「そう言われると、なるほどと思う。よく申してくれた。礼を言うぞ」

何でもないようだが、この大きな心は凡人には持てない。昔の大名にしてはなおさらである。

 

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人を生かして用いる

 

参勤交代で江戸へ向かう途中、湊川(みなとがわ)に通りかかると、光政は馬から下りてその地を拝礼した。大忠臣である楠木正成(くすのき まさしげ)の戦死した場所を、馬に乗って通っては申し訳ないというのだった。

ところが、兵庫へ来て平清盛の墓のある寺の前を過ぎる時も下馬したので、怪しんだ侍臣(じしん)が、

「殿、この寺は平清盛の墓でござりますぞ」と注意した。

「それを知って下りたのである。お前たちは清盛の悪逆非道を言うのだろうが、そのために位を奪われたということをまだ聞かない。ともかくも、太政大臣までなって天下を治めた人ではないか。悪いこともあろうが、その功績を認めねばならない。ことにこのような高位高官にあった人であるから、尊敬するのが当然である。何も怪しむに足りまい」

と言ったので、その見識は今さらながら並み居る侍臣たちを感服させた。

国政に当たるや、産業を促進し、学校(※閑谷学校など)を設立して教化に力を入れるなどしたが、それは熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)の登用にあずかるものが甚だ(はなはだ)多かった。

家臣の中には、熊沢蕃山が重用されることに心のうちで不快に思う者もあった。ある時、光政に向かい、

「世間の評判というものは、必ずしも当てにはなりませぬ。蕃山は果たして評判ほどの人物でござりましょうか」と、鎌をかけて尋ねた。

相手の心を見抜いた光政は、ただ一言、こう言った。

「彼が予のそばに侍(はべ)っているのを見ると、態度が厳粛で、まだ決して怠けたことがなく、それだけでも畏敬の念を起こさせずにはいない」

人を見る目があったのはもちろんのことだが、それよりも「人を生かして用いた」ということに、光政が名君たる資格があった。

半分でやめた新堀工事

 

稲葉正則が老中の職にあった頃である。芝の新堀を掘ることになり、その工事を備前の池田光政と因幡の池田光仲の両家に命じられた。

幕府の指名にあずかったのだから、表面はありがたくお受けしたものの、その費用は決して小さなものではなく、藩の財政に赤字を出して、領民の生活を脅(おびや)かす結果とならざるを得ない。それは光政の断じてできないことだった。

「両家ともに目下困窮のありさまで、この土木工事(普請役)は相叶いませぬ」

とばかりに、どうにか半分だけ掘って、あとは断ってしまった。

幕府の命令を拒んだのだから問題である。すぐに評定所(ひょうじょうしょ)へ呼び出されることになった。一緒に断りを言うようにそそのかされた因幡の光仲の方は驚いた。これまで、評定所へ召し出された大名で、無事に済んだ例が少ないのを思うと、首筋がひやりとして心もとないといったらありゃしない。

「光政殿、いかが相成るでござろう」

と、彼にすがりつかんばかりの顔つきである。

「こう相成るは覚悟の上、それも我が身のためではござらぬ、皆、民を思ってのことでござる」

とはっきりしたものである。
いよいよ評定所で取り調べられるに当たって、光政は少しも恐れる様子はなく、弁明というよりも、幕府の命令が妥当だったかどうかについて、逆襲的に抗弁するのだった。

「新堀工事ということも大切には違いない。だから、それに反対するのではないが、なかなかの大工事で、備前・因幡の二藩には荷が勝ち過ぎる。そこを無理にやり遂げる場合、領民の苦痛(困苦)を招くのは必定であるとすれば、それこそ政治を誤るものではないか。領主の身に代えて断るより仕方がない」

と言うのである。

理路整然としており、一片の私心も含まないことが明らかなので、調べる方が顔負けしたのだろう。

これでは、幕府としても罪を科しようがなく、「叱りおく」程度で済まされ、家中を騒がせるまでもなくて終わった。因幡の池田光仲もお陰で助かったわけである。

領民から慈父のように敬い慕われ、天和2年(1682年)、74歳で亡くなった。

 

池田光政の生涯やエピソードを象徴するイラスト

   

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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