文学と哲学への道
「私は信じている。第一に科学的なるもの『真』と、第二に道徳的なるもの『善』と、第三に芸術的なるもの『美』と。この三者は常に宗教的なるもの『聖』に統合されて、三位一体をなすべきことを」
これは生田長江(いくた ちょうこう)が昭和5年(1930年)に書いた『一の信條』の一節である。文芸思想家として世に現れ、後に社会思想家として活躍し、最後に宗教思想家として独自の領域を開拓した彼は、昭和11年(1936年)1月、惜しくも55歳で永遠の眠りについた。
明治15年(1882年)3月、鳥取県日野郡根雨町字貝原に産声を上げた。父は嘉平治、母はかつ。兄二人、姉一人の末っ子である。8歳の時、一里(約4km)ばかり離れた武庫簡易小学校へ入学したが、翌年1月に根雨簡易小学校へ転校すると、その4月には一学年飛び級して根雨尋常小学校の三年生に編入された。しかし高等小学校も卒業した14歳の時、将来の進路(方針)を決めかねて、一時百姓の真似事をしたり、延暦寺の松木大典和尚に参禅を学んだりしながら約一年半を過ごした。
明治29年(1896年)12月、次兄・貞次郎のあとを追って彼は大阪へ行き、数学を数理義塾で、英語を次兄に学びながら、中学への編入試験の準備をした。彼はそこで大阪桃山学院(後に桃山中学校と改称)の第二学年へ入学した。ユニヴァーサリスト教会で洗礼を受け、徳富蘇峰や内村鑑三の著書を読みふけった(耽読した)のは17歳の頃である。それから上京し、一学年飛び越して青山学院の五年級に転じ、中学を卒業すると、第一高等学校(一高)の文科に入った。この時彼は理科に進もうかと思って随分迷ったが、願書提出の締め切り間際になって、ようやく文科に行くことを決定したのである。そして9月、一高の寄宿舎に入り、一年間をそこで過ごした。
20歳になった翌年、同級生の森田草平、中村古峡、栗原古城、川下江村などと図って、回覧雑誌『夕日』『草雲雀(くさひばり)』を出すに至り、ここで「文学をもって身を立てよう」と決心した。その後、栗原古城に伴われて馬場孤蝶(ばば こちょう)を訪ね、森田草平の紹介で与謝野寛・晶子夫妻に知られ、雑誌『明星』に論文や随想を寄稿するようになった。当時は「星郊(せいこう)」というペンネームであった。大変な秀才で勉強家だったそうである。

文壇への登場と翻訳活動
一高を卒業し、東京帝国大学(現在の東京大学)文科の哲学科に籍を置くと、ケーベル博士や村上専精、森槐南、姉崎正治らの講義を聴いた。上田敏、馬場孤蝶らと共に雑誌『芸苑』の同人となったのはその頃である。坪内逍遥を紹介され、帰国した夏目漱石に面会したりして、前途がだんだんと明るくなってきた年に、次兄の貞次郎が急性肺炎で亡くなった。次兄は彼が20歳頃までの最良の指導者であり、最も親しい友人でもあったのだから、その精神的打撃はひどかったことと思われる。
しかし、悲しみの癒えぬ中で、翌明治39年(1906年)、四月号の『芸苑』に七、八十枚にも及ぶ『小栗風葉論』を発表した。当時は厳正な作家論がまだ現れなかった時期なので、この堂々たる長文の評論は大いに文壇の注目を惹いた。これ以来、上田敏が名付けた「長江(ちょうこう)」というペンネームを使用することになったのである。
同年7月に帝大を卒業し、明治40年(1907年)に26歳で結婚して与謝野夫妻の隣に新居を構えると、その秋、馬場孤蝶や与謝野晶子と共に「閨秀文学会(女性のための文学会)」を作った。聴講者の中に平塚らいてうや山川菊栄がいたのは興味深いことである。
年が明けて明治42年(1909年)5月、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の翻訳にかかった。8月に紀州新宮へ講演旅行に出かけて佐藤春夫を初めて知ったが、前後丸一年半もの間、その翻訳のみに没頭した。この難解な超人思想を日本語の文章に改めることは、なかなかの大事業であった。
それから大正2年(1913年)の1月には、ダヌンツィオの『死の勝利』を翻訳・出版し、自然主義思想によって息苦しくなっていた当時の青年たちから、芳醇(ほうじゅん)で華麗な絵姿として大いに歓迎されたのである。
大正3年には、森田草平と雑誌『反響』を出したが、後に彼一人の仕事にされてしまった。堺利彦、大杉栄などと親しくなったのはこの時代である。大正4年に『反響』が廃刊すると、今度は『ニーチェ全集』翻訳・出版の計画を立てた。一口に翻訳と言うが、我が国のような文化事情の特殊な社会では、翻訳の意義は極めて大きいものがある。しかも困難な仕事であるにもかかわらず、縁の下の力持ちに終わる場合が多いのである。彼はそれを遂行したが、単なるニーチェ思想の「紹介者」であるよりは、多分に「主張者」であった。

縦横無尽の才能と社会運動
その後、彼の活動はようやく多方面にわたるようになった。大正5年には馬場孤蝶の代議士立候補に対して後援会を作り、応援演説をして歩いた。大正6年には妻の藤子が5歳の娘まり子を残して病没するという痛ましい出来事があったが、堺利彦の勧めで雑誌『中外』に戯曲『円光(三幕)』を載せ、さらに第二作『青い花(三幕)』を書いて文壇に衝撃を与えた。
大正7年3月には、社会運動の一手段として代議士候補に立った堺利彦を応援し、市内の数カ所で演説を行い、次の年には、今日の労働総同盟の前身である友愛会主催の社会問題講演会に招かれ、京阪地方を講演して回った。その間も絶えず、新聞や雑誌に評論の筆を振るっていたのである。
大正9年になると、彼は「大衆的な作品が、同時に十分芸術的であり得る」ことを実証する意気込みで小説『犯罪』(後に『環境』と改題、さらに『哀史』とした)を書き、『面白倶楽部』に連載した。大正10年には長編小説の第二作として『落花の如く』を書くなど、戯曲、小説、評論、社会運動と縦横無尽に奮闘し、そのいずれもが今日なお大きな意義を持っているのであった。

生命を賭した傑作「釈尊伝」
彼の最後の作品である小説『釈尊伝』は、大正11年に計画され、昭和3年から準備され、昭和5年にようやく第一部の『小公子』が脱稿されたのである。やがて『愛慾篇』『出家篇』を脱稿して単行本にまとめたのは昭和10年。実に十数年の歳月(星霜:せいそう)を経ている。
このために彼は生命を賭け、一家の生活費(生計)をも犠牲にして取り組んだ。しかもその準備には驚嘆すべきものがある。かねてから宿命的に病に蝕(むしば)まれる身を押して、難解極まる漢訳仏典の類(たぐい)は言うまでもなく、西洋の権威ある仏教研究者の文化史的・思想史的研究を読破し、インドに関する地理紀行書により、インドの気候、動植物、インド人の社会生活、文化状態をつぶさに調査した。
その上、パーリ語辞典をも備え、仏教の専門家でさえちょっと歯が立たない古代インドのパーリ語まで学び、インドの仏教原典を精読したのである。
そして『一の信條』――真、善、美を「聖」によって統合し、三位一体となすこと――を貫こうとしたのである。この精進ぶりには恐るべきものがある。

矛盾と温情の人、そしてその業績
彼の生涯を通じて、奇妙な矛盾があった。一方ではニーチェ流の超人思想、貴族主義を持ちながら、他方では人道主義者として、社会運動や労働運動に少なからぬ関心を持っていた。この矛盾が、次第に彼を宗教へと赴かせたのではなかったか。また、彼の文章はかなり辛辣(しんらつ)で闘争的であるが、日常生活の上では、温和で度量が広く(宏量)、非常に親切な人であったという。それだけにうっかり人を信じすぎて、後で大被害を受けたりしている。のちに狂死した島田清次郎を文壇に送り出したのも、彼の善良さの一例である。
彼は詩も作った。明星派の歌人としては当たり前のことであろうが、次の一篇は妻を失った娘に与えたものとして、悲しくも優しい父の気持ちがうかがえるではないか。彼の45歳の時の作である。
白躑躅(しろつつじ)
まり子よ、おんみが母は
おんみ五つの年六月九日
咲き残りし白躑躅の
音もなく夕闇に落つるがごとく
我らをあとにして果敢(はか)なくなりぬ
いとせめて、この悲しさを
いつまでも、いつまでも忘れたまふな
――母なき子として育つおんみはせめて
かの初夏の白き花に向かいて
不覚にも我が吐息つくことあらば
まり子よ、おんみもおんみの母の
かなしき、白き微笑を思い出したまへ
生田長江の業績は前述以外にもあるが、そのうち特記すべきものは、一言で言えば真の東洋的な生活精神復活の土台石を、我が文壇と思想界に築いたところにある。それは、『ニーチェ全集』の翻訳十巻、『超近代派宣言』の諸論文、『新貞操論』『釈尊伝』『ルシフェル論』等に最もよく示されている。
著作は以上のほか、現代の作家論を集めた『最近の小説家』をはじめ、論文集『最近の文芸及思潮』『徹底人道主義』『ブルジョアは幸福であるか』、戯曲集『円光以後』『簒奪者』、翻訳にダンテの『神曲』などがある。


