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井伊直弼の生涯|安政の大獄と桜田門外の変に散った孤独な大老

井伊直弼の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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安政五年(1858年)六月二十四日。江戸城。

尾張の徳川慶恕(よしくみ)、水戸の徳川斉昭(なりあき)とその子・慶篤(よしあつ)、続いて越前の松平慶永(よしなが:春嶽)が、定められた日でもないのに、急いで登城してきました。前日の通商条約の調印を問いただすためです。

大老は「ただいま密談中」として、なかなか会おうとしません。正午を過ぎ、目付役の一人が「お待ちの四侯に昼食を差し上げましょうか」と伺うと、大老は語気を強めて言い放ちました。

「お召しもないのに登城されたのだから、弁当の御用意はあろう。心配いたすには及ばん」

彼が腹心の老中を従えて現れたのは、今の時間で午後三時。尾張侯も水戸の父子も、さぞ腹を減らしきっていたことでしょう。

彼の名は井伊直弼(いい なおすけ)。三十五年の「埋もれ木」の暮らしから彦根三十五万石の主となり、大老として独断で開国に踏み切り、安政の大獄を断行し、そして桜田門外の雪の中に倒れた男。その生涯に迫ります。

 

※注:底本の『日本英雄伝』は昭和十一年(1936年)の刊行で、井伊直弼を「文明日本の建設のために独往邁進した偉人」として讃える立場で書かれています。直弼の評価は、開国を決断した政治家とみるか、反対派を弾圧した独裁者とみるかで、今も分かれています。この記事では底本の記述をそのまま訳したうえで、当時の見方については各所で注を添えています。

 

底の心を汲む人ぞなき

 

にぎわう横浜港を見下ろす掃部山(かもんやま)公園に、掃部頭(かもんのかみ)井伊直弼の銅像が建っています。横浜の——いや、日本全体の繁栄と開化を、彼は今日、どんな思いで眺めているでしょうか。

彼はかつて、こう詠みました。

春あさみ 野中の清水 氷りゐて 底の心を くむ人ぞなき

自分はこうして祖国の発展のために昼も夜も心を砕いているのに、とかく誤解されがちなのは、まことに残念だ——孤独な思いを漏らした歌です。

世をあげての非難と反撃を浴びながら、崩れかけた幕政をひたすら守り、文明日本を築くために一人進み、鉄血の政策を押し通して信念を曲げなかった大老・井伊直弼もまた、偉人と言わなければなりません。

 

※注:「鉄血」は、十九世紀ドイツの宰相ビスマルクの演説に由来する言葉で、武力と断固たる政策によって国を導くことを指します。底本が直弼を讃えるために用いた言葉です。掃部山公園の銅像は明治四十二年(1909年)、開港五十年を記念して旧彦根藩士たちが建てたものです。

 

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埋れ木の生活三十余年

 

井伊直弼は、彦根城主・正四位上左近衛権中納言掃部頭直中(なおなか)の十四男です。文化十二年(1815年)十月二十九日、彦根城に生まれ、幼名を鉄之助、のちに鉄三郎と改めました。

 

※注:底本は誕生日を「十二月二十九日」と記していますが、一般には十月二十九日とされています。

 

権勢のある家に生まれた直弼は、生まれながらに幸せなはずでした。ところが、そうではなかったのです。

井伊家には厳しい家風がありました。跡継ぎ以外の子は、他家を継がせるか、家臣に養わせる。他家へも行かず、家臣にもならない者には、米三百俵だけを与えて、きわめて質素に暮らさせる。そういう決まりです。ですから十四男の直弼は、殿さまの子でありながら、城内の狭くむさくるしい一室に住み、召使いは女一人と男一人。寒々とした書生同然の暮らしを強いられました。

しかし直弼は、その住まいを自分で「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけ、不平も言わず、歌を詠んで暮らします。嘉永三年(1850年)、兄・直亮(なおあき)の跡を継いで掃部頭となるまで、三十五年間、風や月を友とする「埋もれ木」の暮らしが続いたのです。

 

※注:直弼が埋木舎に移ったのは十七歳のときで、そこでの暮らしは兄の世子となる三十二歳までの十五年ほどでした。「三十五年」は、生まれてから家督を継ぐまでの年数です。この間に直弼は国学・和歌・茶道・禅・居合を深く学び、国学者の長野主膳(ながの しゅぜん)と出会っています。

 

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けれども、この三十五年の孤独な暮らしのなかで、のちに大老として幕府の中枢に立ち、難題だらけの国難を背負うだけの力が養われていました。彼は決して、雪や月や花だけを友にして、国のことに目をつむり、風流にふけっていたのではありません。むしろ、あふれ出そうな器量と才知を、自分で抑えていたのだ——そう見るべきでしょう。

こうして直弼は埋木舎を出て、家督を継ぎ、掃部頭となりました。

 

 

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風雲は直弼を呼ぶ

 

そのころ天下は、尊王、佐幕、攘夷、開港——蜂の巣をつついたような騒ぎでした。幕府の閣老は顔色を失ってうろたえるばかり。国論はますます沸き立ち、幕府の権威は地に落ち、命令は朝出して夕方には変わる。難題だらけの国難を前に、ただ手をこまねいて、どうしてよいか分からずにいたのです。時代は、もつれた麻を一刀で断ち切るような、英傑型の政治家を待ち望んでいました。

安政五年(1858年)四月、直弼は幕府の求めに応じて大老となり、幕府の首班に座ります。風雲がついに、直弼の手腕を呼んだのです。

外を見れば、あのペリーが浦賀の海の門を叩いてしつこく通商を迫り、長崎にはロシアの軍艦でプチャーチンがやって来て脅威を与えていました。内を見れば、開港・鎖港・攘夷の論が入り乱れ、鼎(かなえ)が沸くような騒ぎです。

 

※注:ペリーの来航は嘉永六年(1853年)と翌年、プチャーチンの長崎来航も嘉永六年のことで、直弼の大老就任より四、五年前の出来事です。底本は時代の空気を描くために、これらを一続きに記しています。

 

大老の座に着くやいなや、直弼は天下の形勢を見、時代の流れを考えて、通商条約に調印するほかないと判断しました。そして勅許(ちょっきょ:天皇の許し)を待たずに、独断で条約に調印したのです。安政五年六月十九日のことでした。

 

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たちまち、この独断は世をあげての非難を浴びました。尊王・攘夷派の憤りをかき立て、天下はますます騒然となり、混乱に油を注ぐ結果になったのです。

では、なぜ直弼はそこまでしたのでしょうか。理由がありました。そのころ、イギリス・フランスの艦隊が清国に勝った勢いに乗じて、日本を襲い、条約の締結を強要するという噂が流れていました。そこへアメリカ総領事ハリスが、いま日米条約に調印すれば、イギリス・フランスの鋭い矛先に対して仲介してやろう、と調印を迫ったのです。直弼は清国の二の舞を恐れ、朝廷に勅許を仰ぐ暇もなく、調印を済ませたのでした。

 

※注:これは第二次アヘン戦争(アロー戦争)で、1858年六月に英仏が清国に天津条約を押しつけた直後のことです。なお、直弼自身は勅許を得るまで調印を延ばそうとし、現場の交渉役・井上清直と岩瀬忠震に「やむを得ない場合は調印してもよい」と含みを残したため、調印は現場の判断で行われた、という見方もあります。

 

もう一つの難題が、将軍の跡継ぎでした。将軍家定は病気がちで子がなく、跡継ぎをめぐって二つの派が生まれ、互いに反目していました。一方は水戸斉昭の子・慶喜を推し、もう一方は紀州の慶福(よしとみ)を推して譲りません。家定の病が重くなると、直弼はここでも独断に出ます。慶喜を立てようと画策していた、いわゆる一橋派の老中・堀田正睦(ほった まさよし)と松平忠固(まつだいら ただかた)を免職し、紀州の慶福を迎えて跡継ぎとしたのです。

ここに至って、世論はますます直弼に背きました。憎み、嫌い、非難する声が、世の中を覆い尽くしたのです。

 

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安政の大獄

 

将軍の跡継ぎが決まったという知らせが伝わると、尾張の慶恕、水戸の斉昭とその子・慶篤が、安政五年六月二十四日、急いで登城しました。定めの日ではない、不時登城です。直弼が眉をひそめる間もなく、続いて越前侯・松平慶永も登城してきました。

もともと大名が江戸城に出仕する日は決まっていて、それ以外の日に登城するには事前の届けが要ります。将軍家の一門とはいえ、決まりを無視した不時登城ですから、決断力があり意志の強い直弼は眉をひそめたのです。

案の定、彼は「ただいま密談中」として、なかなか会いません。正午を過ぎて目付役の一人が、お待ちの四侯に昼食を出すべきかと伺うと、直弼は語気を強めて言いました。

「お召しもないのに登城されたのだから、弁当の御用意はあろう。心配いたすには及ばん」

彼が久世大和守(くぜ やまとのかみ:久世広周)以下、腹心の老中を従えて現れたのは、今の時間で午後三時だったといいますから、尾張侯も水戸の斉昭父子も、さぞかし腹を減らしきっていたことでしょう。この一事だけでも、直弼の決意の固さがうかがえます。

この会談は激しい論戦が数刻にわたりました。しかし結局、四侯は直弼に言いくるめられます。勅命に背き権限を越えた罪を問うことも、跡継ぎの発表を引き延ばすことも失敗に終わり、すごすごと退出するほかありませんでした。

直弼は、ためらって時機を失うことを恐れました。翌二十五日、慶福すなわち家茂(いえもち)が将軍になることを天下に布告します。続いて七月五日、将軍家定が亡くなる直前に、先に不時登城して幕府の外交を責めた斉昭に謹慎を、尾張侯・越前侯に隠居と謹慎を命じ、水戸藩主慶篤と一橋慶喜の登城を止めました。

ここで水戸藩士と一橋派の志士たちは、井伊直弼を退けて崩れかけた形勢を立て直そうと試みます。幕府の外交を不満とする尊攘の勤王家たちも、東西で呼応して朝廷を動かし、ついに天皇の内々の意向が斉昭に下されるに至りました。

 

※注:これが「戊午(ぼご)の密勅」で、安政五年八月八日、朝廷から水戸藩に直接下されました。幕府を通さずに勅書が大名に下されたのは前例のないことで、直弼はこれを幕府の権威への重大な挑戦とみなしました。

 

この形勢に直弼は驚き、反幕派の志士や勤王家に一斉に弾圧を加えました。数百人を捕らえ、あるいは牢に下し、あるいは小塚原の刑場に引き出して斬ったのです。世にいう、安政の大獄です。

 

※注:安政の大獄では、橋本左内・吉田松陰・頼三樹三郎らが処刑され、梅田雲浜は獄中で病没しました。処罰を受けた人は百人以上にのぼるとされています。底本の「数百人」は誇張とみられますが、そのまま訳しました。

 

しかし、これほどの弾圧をもってしても、時代の流れは変えられませんでした。直弼を呪う怨嗟(えんさ:うらみ嘆くこと)の声は、巷(ちまた)に満ちていたのです。

 

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桜田異変

 

万延元年(1860年)三月三日、雪の朝。大老・井伊直弼は、将軍に上巳(じょうし:三月三日)の節句の祝いを申し上げるため、外桜田の屋敷を出ました。

直弼は駕籠に乗り、警固の供は五十数名。みな笠をかぶり合羽を羽織り、刀には柄袋(つかぶくろ:柄を雪や雨から守る袋)をかぶせて、行列は降りしきる雪のなかを静かに進みます。

一方、愛宕山に集まった水戸藩の浪士は、佐野竹之介(さの たけのすけ)以下十六名。これに薩摩藩の浪士・有村次左衛門(ありむら じざえもん)が加わって十七名。彼らは三手に分かれて行列の先回りをし、桜田門の外の雪の中で待ち構えていました。

 

※注:底本は水戸浪士を「十六名」としていますが、一般には水戸の十七名に薩摩の有村次左衛門を加えた十八名とされています。底本は「有村治左衛門」と記していますが、次左衛門が正しい表記です。

 

ある一群は、大老の登城を見物する田舎武士のふりをして立っています。別の数名は雪の上に土下座して、何か訴えるふりをしていました。行列の先頭が近づき、供頭(ともがしら)と供目付(ともめつけ)の二人の武士がこれを見てつかつかと近寄り、声をかけようとした瞬間——がばと躍り上がった浪士が、抜き打ちに二人に斬りつけたのです。

 

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それより早く、別の一隊は駕籠の先の槍持ちを襲って槍を奪おうとし、駕籠脇の徒士(かち)の一隊と斬り合いになりました。彦根側は刀を抜き合わせる暇もありません。笠を脱ぎ、合羽を捨て、柄袋をかぶせたままの刀を鞘ごと抜いて防ぎましたが、血気の浪士の真剣にかなうはずもありません。純白の雪を朱に染めて、斬りまくられました。

直弼にとっては、よくよく運の尽きた日でした。銃声が一発。これが合図です。後ろに控えていた第三陣がどっと駕籠をめがけて突っ込み、防戦に大わらわの供目付・河西忠左衛門(かさい ちゅうざえもん)を斬り捨て、簾越しに駕籠の中を三度、四度と突き貫きました。

 

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十分な手応えを確かめてから戸をはねて引き出すと、大老・井伊直弼はすでに、鮮血に染まって息絶えていました。享年四十六歳。遺骸は世田谷の豪徳寺に葬られました。
幕府の中枢に入ってから十年に満たずして凶刃に倒れ、幕末の夜はまだ深く、文明開化の夜明けの光も見ずに死んでいった直弼は、不幸でした。その胸には、これから大いに成すべきことへの覚悟と見通しがあったでしょう。しかし乱世の激しい揺れは、彼に多くの時間を貸してはくれなかったのです。

 

※注:直弼の首は有村次左衛門が挙げましたが、有村自身も重傷を負い、まもなく自刃しました。彦根藩は直弼の死を公表せず、しばらくは「負傷」として扱い、閏三月末に死去を届け出ています。事件の記述は事実の経過として訳しました。
底本は「十年に足らず」と記していますが、直弼が大老に就任してから桜田門外の変までは二年に満たない期間です。家督を継いでからは十年で、そちらを指したものかもしれません。

 

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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