底の心を汲む人ぞなき
繁栄する横浜港を見下ろす掃部山(かもんやま)公園に、掃部頭(かもんのかみ)・井伊直弼(いい なおすけ)の銅像が建っている。横浜――いや、日本全国の繁栄と文明開化を、彼は今日、どういう心で眺めているだろうか。彼はかつて、次のように詠んだ。
『春あさみ野中の清水氷りゐて 底の心をくむ人ぞなき』
(春はまだ浅く、野中の湧き水は表面が凍っていて、その底を流れる澄んだ水=私の本当の心 を汲み取ってくれる人は誰もいない)
自分はこのように、我が祖国の発展と開発のために日夜心を砕いているのに、とかく誤解されがちなのは誠に残念なことだ、と孤独な思いを漏らしたのである。
世の中の人々から一斉に非難(指弾:しだん)と反撃を受けながらも、一意専心、崩壊に瀕した幕政を死守して、文明日本の建設のためにただ一人我が道を突き進み(独往邁進:どくおうまいしん)、血と鉄の政策を押し進めて自分の信念(所信)を曲げなかった大老・井伊直弼もまた、偉人と呼ぶべきであろう。

埋もれ木の生活三十余年
井伊直弼は、彦根城主・正四位上左近衛権中将掃部頭・井伊直中(いい なおなか)の十四男である。文化12年(1815年)12月29日に彦根城で生まれ、幼名を鉄之助、のちに鉄三郎と改めた。権力を持つ名門(権門)に生を受けた直弼は、生まれながらにして幸福であるべきはずだったが、彼は不幸にしてそうではなかった。
井伊家には、「跡継ぎ(嗣子)を除く以外の男子は、他家へ養子に出すか、家臣の家を継がせるか」という厳重な家風があった。そして、他家へも行かず家臣にも列しない者は、わずかに米三百俵を支給されて、極めて質素な生活を送らせるしきたりになっていた。
それゆえ、十四男として生まれた直弼は、大名の息子(公子)の身分でありながら、城内の狭くてむさ苦しい一室に住み、一人の下女と一人の下男だけを置き、まるで貧しい書生のような生活を余儀なくされたのである。だが直弼は、自らの住まいを「埋木舎(うもれぎのや)」と名付け、不平不満もなく、風月(自然の美しさ)を友にして和歌を詠んで暮らした。
嘉永3年(1850年)、兄の直亮(なおあき)の後を継いで藩主(掃部頭:かもんのかみ)となるまでには、実に三十五年間もの「埋もれ木」の生活が続いたのである。しかし、この三十五年の孤独な生活の間に、大老となって幕府の首脳陣(幕閣)に加わり、事件が山積み(多事多端:たじたたん)の国難を背負って立つだけの実力が養われていたのだ。
彼は決して、雪月花のみを友として国事に目をつぶり、風流三昧に溺れていたわけではない。「風流にかこつけて、ほとばしるような器量や才智を自制していたのだ」と見るべきであろう。――そして直弼は、ついに埋木舎を出て、領地(封)を継ぎ、掃部頭となった。

風雲は直弼を呼ぶ
当時の天下の情勢は、「尊王(天皇を尊ぶ)」「佐幕(幕府を補佐する)」「攘夷(外国を打ち払う)」「開港」と、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎであった。幕府の老中たちは青ざめ(色を失い)、ただ慌てふためく(周章狼狽:しゅうしょうろうばい)ばかりである。国論はますます沸騰する。幕府の威厳や命令(威令)は地に堕ちて、朝に出した命令を夕方には変える(朝令暮改:ちょうれいぼかい)有様であった。
事件が山積みの国難に直面して、何もできずに傍観している(袖手傍観:しゅうしゅぼうかん)わけにはいかない。時代は、もつれた麻糸を快刀で断ち切るような(快刀乱麻を断つが如き:かいとうらんま)、英雄的な政治家の出現を望んでいた。直弼が幕府の要求に応じて大老の職に就き、幕府のトップに立ったのが、安政5年(1858年)4月である。
時代のうねりは、ついに直弼の手腕を求めたのである。外には、あのアメリカのペリーが浦賀の海にやって来て、しつこく通商を迫っている。長崎にはロシアの軍艦・プチャーチンが渡来して脅威を与えている。内には開国、鎖国、攘夷の議論が沸き起こり、鼎(かなえ)の湯が沸き立つような騒ぎ(騒擾:そうじょう)である。
直弼は幕府のトップに就くや否や、天下の形勢を見極め、時代の移り変わりを考えて、「通商条約に調印するのもやむを得ない」と思い、天皇の許可(勅許:ちょっきょ)を待たずに、自分の独断(専断)をもって日米修好通商条約に調印した。安政5年6月19日である。
突然の直弼のこの独断は、世間(一世)の非難を浴び、尊王派や攘夷派の激しい怒り(憤激)を刺激して、天下の情勢はますます騒然となり、混乱を煽る(あおる)結果になった。
だが、直弼のこの独断専行には、次のような理由があったのである。
その頃、イギリス・フランスの連合艦隊が清国(中国)との戦争(アロー戦争)に勝利し、その余勢を駆って我が国を襲い、条約締結を強要するという噂があった。その時、アメリカの総領事ハリスが「もし日米条約に調印するならば、英仏の鋭い攻撃に対して仲介しよう」と言って、調印を幕府に迫ったのである。直弼は、清国と同じ失敗を繰り返す(覆轍を踏む:ふくてつをふむ)ことを心配し、天皇の許可(勅許)を朝廷に仰ぐ暇もなく調印を済ませたのであった。
一方、13代将軍・家定は病気がちで跡継ぎ(嗣子:しし)がなく、この後継者問題を巡って二つの派閥が生まれ、両派が互いに反目して対立(軋轢:あつれき)を重ねていた。一方は水戸の徳川斉昭(とくがわ なりあき)の子である慶喜(よしのぶ)を推し、もう一方は紀州の藩主(宰相)慶福(よしとみ:後の家茂)を推して、互いに譲らなかった。この時、将軍・家定の病状が重くなるや、直弼はこれまた独断をもって、慶喜を擁立しようと画策していたいわゆる「一橋派」の老中・堀田正睦(ほった まさよし)、松平忠固(まつだいら ただかた)をクビにし(免職し)、紀伊の慶福を迎えて跡継ぎとした。
事ここに至って、世論はますます直弼に背を向け、彼を憎み、嫌悪し、非難する声が世の中を覆い尽くした(一世を風靡した)。

安政の大獄
将軍の跡継ぎ決定の知らせが伝えられるや、尾張の徳川慶勝(よしかつ)、水戸の徳川斉昭、その子・慶篤(よしあつ)が、安政5年6月24日、急遽アポなしで登城した。直弼が不審に思って眉をひそめる間もなく、続いて越前藩主・松平慶永(まつだいら よしなが:春嶽)の登城である。元来、諸大名が江戸城(柳営)に出仕するには一定の期日があり、定められた日以外のアポなし登城には、予告を必要とする規定があった。これを、たとえ将軍家の親戚とはいえ、規定を無視してのアポなし登城だったため、決断力に富む(果断剛毅:かだんごうき)直弼が眉をひそめたのである。
案の定、彼は「ただいま密談中である」として容易に面会しなかった。正午を過ぎて、監視役の目付の一人が「お待ちの四人の大名(四侯)に昼食をお出しすべきでしょうか」と伺うと、直弼は厳しい表情と言葉(辞色)で、「お召しもないのに登城されたのだから、弁当のご用意はあるだろう。心配するには及ばない」と言った。
彼が、久世大和守(くぜ やまとのかみ)以下の腹心の老中を従えて現れたのが、今の時間でいうと午後3時というから、尾張侯も水戸斉昭父子も、さぞかし腹を空かせていたであろう。
この一つの出来事をとっても、いかに直弼の決意が固かったかが推察されるのである。この時の面談は、非難と激論が数時間(数刻)にわたったが、ついに四侯は直弼に言い負かされ、天皇の命令に背いて権限を越えた罪を問い詰めることも、将軍の跡継ぎ発表を遅らせる策も失敗に終わり、すごすごと退出せざるを得なかったのである。
直弼は、このままためらい時機を失することを恐れ、翌25日に慶福、すなわち「家茂(いえもち)」が将軍になることを天下に布告し、次いで将軍・家定が亡くなる前の7月5日には、先のアポなし登城で幕府の外交措置を非難した斉昭に謹慎、尾州侯・越前侯に隠居と謹慎を命じ、水戸藩主の慶篤および一橋慶喜の登城を禁止した。
ここに至って、これまで直弼の反対党でしかなかった者たちも、ついに反逆の旗を鮮明にしたのである。幕府の横暴な振る舞いを怒り、外交措置に不満を持つ「尊王攘夷」の勤王家は、これと東西で呼応して朝廷を動かし、ついに天皇からの秘密の命令(内旨:戊午の密勅)を水戸の斉昭に下賜させようとするに至った。
直弼はこの形勢に驚いて、反幕府派の志士や勤王家に対して一斉弾圧を下し、数百人を検挙し、あるいは牢獄に入れ、あるいは小塚原の刑場に引き出して、これを斬首した。
世に言う『安政の大獄』である。だが、直弼のこのような弾圧や抑圧にもかかわらず、時勢の移り変わりはどうすることもできないものであった。直弼を呪う恨みの声(怨嗟の声:えんさのこえ)は、世間に満ちていた。
桜田異変
大老・井伊直弼が、将軍へ「上巳の節句(ひな祭り)」のお祝いを申し上げるため、外桜田の屋敷を出たのが、万延元年(1860年)3月3日の雪の朝であった。直弼は駕籠に乗り、護衛のお供は50名余り。誰もが笠を被り合羽を羽織り、刀には柄袋(柄を雪から守るカバー)を被せて、行列は降りしきる雪の中を静々と(粛々と)進んだ。
一方、愛宕山(あたごやま)に勢揃いした水戸藩の浪士は、佐野竹之介(さの たけのすけ)以下の16名、これに薩摩藩の浪士・有村次左衛門(ありむら じざえもん:原文の治左衛門)を交えて17名。彼らは三手に分かれて、行列の先回りをして桜田門外の雪の中で待ち構えていた。
第一陣の者は、大老の登城を見物する田舎武士の風を装って立ち、別に数名の者が雪の上に土下座して何かを訴える風を装っていた。
行列の先頭が近づいてきて、先頭の供目付(ともめつけ)の二人がこの様子を見て、「何事か」と声をかけようとした途端に、ガバッと躍り上がった浪士が抜き打ちに両名に斬りつけた。これより早く、他の一隊は駕籠(かご)の先頭にいる槍持ちを襲撃して槍を奪おうとし、駕籠の脇の徒歩の武士(徒士)の一隊と斬り合いになった。護衛の者たちは、刀を抜き合わせる暇もなかった。笠を脱ぎ、合羽を捨てて、柄袋を被せた刀を鞘ごと(鞘ぐるみ)抜いて防戦に努めたが、血気盛んな浪士の真剣には到底敵(かな)わなかった。純白の雪を真っ赤に染めて斬りまくられたのである。
直弼にとっては、いよいよ運の尽きる日であった。
続いて銃声が一発。これが合図だった。後方に残っていた第三陣の一隊が、どっとばかりに駕籠をめがけて突撃し、防戦で大わらわのお供・河西忠左衛門(かさい ちゅうざえもん)を斬り捨て、直ちに迫ってすだれ越しに、駕籠の内部を三度、四度と突き刺した。十分に手応えを覚えてから、戸を跳ね開けて引きずり出すと、大老・井伊直弼はすでに鮮血に染まって絶命していた。
享年46歳。遺骸は世田谷の豪徳寺に葬られた。幕府のトップに就いてわずか十年に満たずして凶刃に倒れたが、いまだ幕末の夜は深く、文明開化の夜明け(曙光:しょこう)も見ずに死んでいった直弼は不幸であった。彼の胸中には、将来大いになすべき覚悟と勝算があったであろう。だが、乱世の激しい動揺は、彼に多くの時間を貸してはくれなかったのである。


