「お菓子あげるよ。もう泣くんじゃない」
まだ小学校に入る前、六つか七つのころのことです。有島武郎(ありしま たけお)の家では、きょうだいの教育を西洋人の家庭教師にまかせていました。ある日、妹がいたずらをして先生に叱られ、みんながもらうごちそうももらえずに、物置のような小さな暗い部屋に閉じこめられました。しゃくりあげながら、しくしく泣く声が、かすかに聞こえてきます。
武郎は、それがかわいそうでかわいそうでなりませんでした。身を切られるような思いがして、自分が代わってやりたいくらいです。せめて自分のお菓子を分けてやりたい。けれども、それが知れたら、先生に叱られるに決まっています。子どもの知恵をせいいっぱいしぼって考えついたのが、口の中に隠して持っていくことでした。
口移しの菓子
先生に気づかれないようにそっと忍んでいき、「お菓子あげるよ。もう泣くんじゃない」と、口移しに、妹の小さな口いっぱいに入れてやりました。大人になったその妹は、あのことだけはいつまでも忘れないと言って、折にふれて人に語ったといいます。人道主義の作家・有島武郎は、すでにこのときに芽生えていたのです。
有島武郎は、明治十一年(1878年)三月四日、東京に生まれました。学習院の中等科を経て、札幌農学校(さっぽろのうがっこう:現在の北海道大学のもと)に学びます。有島家の長男で、北海道に広い農場を持っていた父が、そこで仕事をさせるつもりだったのです。在学中、武郎を教えた新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、「有島は深山の大木のような青年だ」と、よく言っていました。
二十六歳でアメリカに渡り、その後ヨーロッパの国々を回って帰国すると、札幌の農科大学で教壇に立ちましたが、まもなく作家として世に立つことになります。

人道主義と感心屋
当時、思想の世界を風のようになびかせていた自然主義のなかにも、またその衰えに乗じても、広い意味での人道主義(じんどうしゅぎ:人間一人ひとりの尊さを何より重んじる考え方)が盛り上がり、日露戦争のときには、良心からの非戦論というかたちにもなりました。その中心にいた木下尚江(きのした なおえ)や徳富蘆花(とくとみ ろか)のうち、蘆花が戦争のあとに遠くロシアへトルストイを訪ね、その思想と暮らしぶりを伝えたのをきっかけに、トルストイの研究が流行します。やがてその熱が下火になると、宗教の色を抜いた、より進んだ人道主義が思想界の主流になっていました。
農学校のころからキリスト教の信仰に浸っていた有島は、のちに思想が成長して、その信仰は捨てました。けれども、それだけにいっそう深い、本物の人道主義に固まっていったのです。
教養のせいもあったのでしょうが、有島はどこまでも謙虚な性質で、どんな人に対しても、地位や年齢で区別せず、相手のすぐれた点を見つけて心から尊敬することを忘れませんでした。人の美点をあげては感心ばかりしているので、「感心屋(かんしんや)」というあだ名がついたほどです。そんなところからイギリス紳士のような常識家に思われもしましたが、ほんとうは理想家で、激しい情熱の持ち主でした。
アメリカに留学する直前、有島は同じ学校の友人を訪ねて、「今度あちらから帰ってきたら、僕は命を打ちこんで、ひとつ学校を興してみたいと夢見ている」と語ったといいます。それほど大きな志を抱いた青年でした。作品にもその理想家ぶりは見えますが、理想家としての本心をいちばんあからさまに見せたのが、大正十一年(1922年)の農場解放です。

農場を農民に
アメリカ留学のあいだに、有島は無政府主義者(むせいふしゅぎしゃ:国家の権力を否定する思想の人)クロポトキンの本などに親しみ、物を私有するということに疑問を持つようになりました。
「生産のおおもとになる自然のもの、すなわち空気、水、土のたぐいは、人間全体で使うべきもので、その使った結果も人間全体の役に立つようにしなければならない。一個人の利益のためだけに、個人が私有してよいものではない」
有島家の農場は、蝦夷富士(えぞふじ)の名を持つ羊蹄山(ようていざん)を東にのぞむ、狩太(かりぶと:現在の北海道ニセコ町)一帯の四百五十町歩(ちょうぶ:約450ヘクタール)の土地でした。父が北海道庁から借り受けたころは、丈の高い熊笹と雑草の生い茂る、深い林です。食べ物はもちろん、あらゆる物を、遠い倶知安(くっちゃん)から馬の背で運んでこなければならない、交通の不便なところでした。小作の人たちは、この林をつらぬいて流れる川のほとりに掘っ立て小屋を建て、あらゆる苦労と戦ってそこを開拓し、ついに美しい農地にして、道庁から土地をただで払い下げてもらえるまでにしたのです。
開墾のはじめに草分けとして入った人は、もう一人も残っていませんでしたが、だんだん人がふえて、小作人は全部で七十戸近くになっていました。そこまでにするには、父の経営の苦心も並たいていではありませんでしたが、土地に投じたお金、その後の維持費、税金を全部合わせても、年々入ってくる小作料にくらべれば、わずかなものです。父はすでに世を去り、弟や妹もみな不自由のない暮らしをしていました。そして、手をこまねいているあいだにも、地価はひとりでに上がっていきます。それは社会が生み出してくれたもので、だれの手柄でもありません。
こう考えてくると、土地を私有する理由は、いよいよ立たなくなりました。これ以上、小作料を受け取るには忍びなかったのです。
「しかしながら、もし私がほかに何の仕事もできない人間で、みなさんに頼らなければ食べていけないようでしたら、今のような仕組みの世の中では、あるいはまちがいと知りながらも、みなさんに頼ってパンを食べる道を選んで生きようとしたかもしれません。ところが、私には一つの仕事があって、ほかの人がどう言おうと、私としてはこのうえなく楽しく思う仕事ですし、またその仕事から、ともかく親子四人が食べていくだけの収入は得られています。明日はどうなるか分かりませんが、今日は得られています。こういう保証を持ちながら、私が所有地の解放を思いきって行わなかったのは、私としてはなはだ怠慢だったのであって、みなさんに対し、ことさら面目のない次第です」
小作人たちにこうあいさつして、有島は、あれほどの大農場をただで譲ってしまいました。

その真面目さ
この歴史に残る出来事は、私有の欲に固まっている人々への大きな一撃でした。親しい友人でさえ「人道的な行い」と呼んだのを、有島は「ばかなことを言う」と苦笑しました。一時の気まぐれや見栄ではなく、確かな信念から出たことだったのです。大きな土地の持ち主である有島がこういうことをなしとげたのは、彼がどれほど真剣で良心的な態度を持った人だったかを示しています。並たいていでない真面目さと人格の大きさがなければ、できることではありません。
農場は、頭割りにするのではなく、小作人の共有の財産として与えられ、森本厚吉(もりもと こうきち)博士に託されて、産業組合法に準じて経営されました。底本の『日本英雄伝』が書かれた昭和十一年(1936年)当時は、狩太共生農団信用利用組合(かりぶときょうせいのうだんしんようりようくみあい)がそれにあたります。
この農場を手放したことを区切りに、有島の思想はひとつ大きく飛躍し、作家としての歩みも大胆にはっきりしました。ところが、まもなく思いがけないところから破綻がやってきます。
早くに妻を亡くした有島のまわりには、女性からの誘いが絶えませんでした。それをことごとく退けていた彼も、執拗に迫ってくる情熱の女性・波多野秋子(はたの あきこ)を、人間としての至情(しじょう:この上なくまことの心)として、拒みきれなかったのでしょう。ただ、まずいことに、秋子には夫がありました。

有島は、進んでいさぎよく罰を受けようとしました。けれども、秋子の夫は金を要求したのです。その金をこしらえるのは何でもありませんでしたが、こういう問題が金で解決されるとは、有島には考えられませんでした。彼のような性格を持つ人にとって、道は一つしかなかったのです。
命絶つ笞しあらば手に取りて
世の見る前に我を打たまし
――命を絶つむちがあるなら、それを手に取って、世の中の見ている前で自分を打ちたい、という歌です。こうして有島は、市民社会の道徳と自由との矛盾のなかに、大正十二年(1923年)六月、四十五歳で軽井沢にさびしく散りました。一陣の風に、惜しくも散ったのです。それは彼の本意ではなかったでしょう。

党派嫌い
作品には、『宣言』『或る女』『カインの末裔(まつえい)』『小さき者へ』などの創作のほか、愛の問題を論じた『惜みなく愛は奪ふ』がよく知られています。アメリカの民衆詩人ホイットマンの『草の葉』を訳した二巻の詩集も、詩の新しい精神を呼び起こした功績の大きいものです。その聖者のような人格からにじみ出た作風は、社会のあらゆる階層の人々に迎えられ、人気を一身に集めて、「有島宗(ありしましゅう)」とでもいうような空気さえ生まれました。
心にもないことを書かなければならない職業作家の暮らしに嫌気がさして、個人雑誌『泉』を出したのは、大正十一年(1922年)十月のことです。それは死までのおよそ一年のあいだ続きました。
有島が文壇に足を踏み入れたそもそものはじめから、彼の主張は「一家一流派」、つまり作家は一人ひとりが自分だけの流儀を持つべきだ、ということでした。彼は何によらず、党派というものを極端に嫌いました。ことに文壇にそんなものがあるのは、罪悪だとさえ考えていたのです。それにしても、読者の大きな支えがなくてできることではありません。作家としても、人間としても、太陽のように慕われた人でした。作家の里見弴(さとみ とん)、画家の有島生馬(ありしま いくま)は、その弟です。


