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荒尾精の生涯|の生涯と名言!日清戦争の裏舞台で活躍した豪傑

『荒尾精』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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世論に一歩を先んず

 

舞台の表に立って華々しい役割を演じた人物はいつまでも人々の記憶に残っていますが、舞台の裏で活躍した人というのは、ともすれば忘れ去られてしまうものです。荒尾精(あらお せい)もまた、そうして世間から忘れ去られようとしている「舞台裏の重要人物」です。しかし、現在の日本の経済的発展の道のりにおける荒尾の隠れた重要性は、決して表舞台の花形役者たちに比べて勝るとも劣らないものがあります。

明治21年(1888年)の頃、三宅雪嶺(みやけ せつれい:※原文は雄二郎)、志賀重昂(しが しげたか)、杉浦重剛(すぎうら じゅうごう)、井上円了(いのうえ えんりょう)、島地黙雷(しまじ もくらい)などが「政教社」というグループを作り、機関誌『日本人』を通じて大いに「国威発揚(こくいはつよう:国の勢いを世界に示すこと)」や「軍備拡張」を声高く唱え始めたことがありました。

彼らの主張は、「もし十分な財産を増やせれば、軍備を拡大することができ、それによって堂々と海外の強い国々にも立ち向かうことができる」(三宅雪嶺著『真善美日本人』より)というものでした。日本の産業を発達させるためには、その資源を海外から手に入れなければならないし、それによって出来た商品の市場をしっかりと海外に確保しておかなければなりません。そして、そのためには強い国に対抗できる軍備が必要だったのです。つまり、「海外進出」と「軍備拡張」は切っても切れない関係にあり、何よりも大切なことだと考えられていました。

しかし、当時の「海外進出」の目標とされていたのは朝鮮半島でした。中国(当時の清国)大陸への進出などということは、西郷隆盛らが唱えた「征韓論」が発展したものであったため、まだ誰も思いついていませんでした。むしろ当時の日本人の目に映っていた清国の姿は、恐るべき大国であり、朝鮮半島をめぐる油断のならない強敵として考えられていたのです。

このような時代にあって、荒尾精ただ一人が中国大陸に目を向けていました。彼はもちろん世間の意見と同じく「国威発揚」「海外進出」を主張していましたが、その着眼点において、世間の意見よりも「一歩先」を進んでいたと言えます。

 

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中国へ出発するまで

 

(※原文の「支那」は、現代の表記に合わせて「中国(清国)」または「中国大陸」と訳します。)

荒尾精は、安政6年(1859年)、尾張国(愛知県)の枇杷島(びわじま)で生まれました。父は百石取りの名古屋藩士でしたが、のちに東京へ出てきて麹町で荒物屋(日用品の店)を始めました。しかし商売はうまくいかず、非常に困窮したようです。そのため明治6年(1873年)、15歳の時に警察官(警部)の菅井誠美に引き取られて苦学することになり、麹町元園町にある漢学・英語・数学の塾に通うことになりました。

12歳の時に父を亡くし、13歳で母を亡くしていますが、少年・荒尾の勉強ぶりは普通の子供とは全く違っていました。

塾から帰ってくると、一晩中正座したままで、菅井夫婦がいくら寝るように勧めても聞き入れませんでした。

「体に悪いから、もうお休み!」

「はい、ええです(大丈夫です)。私は体は丈夫ですから」

名古屋なまりでそれだけ答えると、また黙々と勉強を続けるのでした。そして眠くなると机にもたれてウトウトし、目を覚ますとすぐにまた本を読み始めました。ですから、布団に入って寝ることなどはほとんどありませんでした。実際、彼の体は、菅井家に集まってくる若い者たちの誰を相手に相撲をとっても負けたことがないほど頑丈でした。

その後、彼は外国語学校に入ってフランス語を学び、芳野金陵(よしの きんりょう)という人に漢学を教わっていましたが、ちょうどその頃「征韓論」などが世間で騒がしくなっており、それが血の気の多い少年の心を強く打ちました。彼もまた当時の風潮に乗って海外進出を夢見るようになりました。そこで、「フランス語などをやっていてはまどろっこしい」と考え、世話になった菅井誠美に「中国(清国)を研究する」という決心を打ち明け、明治11年(1878年)の夏に陸軍教導団に入りました。

教導団を経て陸軍士官学校を卒業し、明治15年(1882年)に少尉となり、明治18年まで参謀本部の「支那課(中国担当部署)」に勤務していました。その間、彼は「土地が広大でしかも天然資源に恵まれた中国こそ、日本の産業発展のために欠かすことのできない場所だ」という確信をますます深めていきました。

ついに決心した彼は、たびたび当時の陸軍トップである陸軍卿・大山巌(おおやま いわお)に面会を求め、しきりに中国進出の必要性を説きました。当時の陸軍は今(昭和初期)ほど大きくはなく、将校の数も極めて少なかったため、少尉が陸軍大臣に意見をするのは今とは全く状況が異なりますが、それにしても「一介の少尉の身分で、国家の大政策について陸軍のトップに直接意見を言った」というこの事実一つを見ても、彼の燃えるような野心(覇気)が想像できます。

しかし当時は、中国といえば恐るべき大国と考える者こそいましたが、まだ誰も彼のような確固たる信念を持って大陸政策を考える者はいなかったため、彼の提案は空想だと思われ、当局に取り上げられることはありませんでした。しかし、彼はそれに屈せず、何度も意見書を出し続けるうちに、ようやく当局も心を動かされるようになり、軍の籍を外して(除籍し)、彼は「大陸政策の捨て石になる」という覚悟のもと、周囲に集まってきた後輩の青年20名余りを率いて中国へ渡ることを許されたのです。時は明治19年(1886年)のことでした。

 

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日清戦争当時の国情

 

徳川幕府の支配を倒した明治新政府は、産業の発展に最大の努力を傾けなければなりませんでした。

もともと新政府のトップたちは、薩摩(鹿児島)や長州(山口)の武士出身の人たちで占められており、幕府の支配下で何百年も続いてきた古い習慣(封建的な考え)から完全には抜け出せていません。そのため、徹底的な改革を行うことは期待できず、例えば農村でも、領主が地主に入れ替わったくらいで、小作制度(農民が地主から土地を借りる制度)はほとんど変わりませんでした。

そのような弱さを抱えながらも、商品の売り先(市場)を求めてインド、南洋、中国、朝鮮、そして日本へと手を伸ばしてきたヨーロッパの先進資本主義国に対抗していくためには、政府が自ら立ち上がり、幼くて弱々しい日本の資本主義を無理にでも立ち上がらせ、育てていかなければなりませんでした。こうして、新政府の保護のもと、明治初年から日清戦争(1894年)に至るまでの20年間に、日本の産業は著しい発展を遂げたのです。

明治5年に初めてわずか5マイル敷かれた鉄道は、明治27年には2000マイルになっていました。2万6000トンの船の数は17万トンになり、90万トンの鉄の生産量は500万トンになり、56万トンの石炭は400万トンになり、そして2100万円の貿易額は1億3600万円に達していました。しかしそれと同時に、そうした産業で働く10万人の鉱山労働者、40万人の工場労働者など、合計150万人にのぼる人々が、初めて日本の歴史の上に登場してきたのでした。

それと同時に、海外における「生産原料の資源」と「商品の売り先(市場)」がどうしても必要になってきました。まず朝鮮に目が向けられ始めましたが、当時の朝鮮半島は、清国(中国)が政治的に支配しており「属国」であると言われていたほどだったため、たちまち日本と清国はそこで正面衝突をしなければならなくなりました。それが「日清戦争」へと発展したのです。

 

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中国における活動

 

明治19年、当時の世論より一歩先んじていち早く中国に着目し、大陸政策を掲げて20名余りの青年を率いて現地へ渡ると、彼はまず現地の様子(国情)を調べるために多くの時間を費やしました。その結果、どう見ても「現地の事情に詳しく、自分の目的に賛同して動いてくれる同志をたくさん育てること」が必要だと考えました。

そこで彼は自分の力だけで資金を集め、上海に『日清貿易研究所』を立ち上げ、100名余りの青年をそこに集めて教育に努めました。しかし、彼はそれらの青年たちに単に中国の事情や中国語を教えて、いわゆる「中国通」を作るだけで満足したわけではありませんでした。彼は青年たちに自分の「大陸政策」を吹き込み、その結果、名前こそ「貿易研究所」でしたが、日中貿易のためというよりも、直接的には「日清戦争」のために役立つことになったのです。

この研究所を卒業すると、青年たちは貿易の仕事には就かず、皆こぞって陸軍に入って通訳官となりました。したがって、彼らは日清戦争の前夜や戦争の最中において、中国の各方面に潜り込んで大いに活動し、情報を集め、清国の政治状況や軍勢などを調査して陸軍に大きく貢献しました。

そのため、彼らのうち清国の警察や軍隊(官憲)に捕まり、投獄され、死刑になった者も少なくありません。山崎羔三郎、鐘崎三郎、藤崎秀博、藤島武彦、大熊鵬、猪田正吉、楠内友次郎、福原林平、石川伍一、浦敬一、広岡安太、高見武夫などは、いずれもそうして犠牲となった若者たちです。

 

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岸田吟香と頭山満と宮崎滔天

 

明治29年(1896年)、見事な手柄を立てて凱旋した将軍たちの「活動の基礎」を作った荒尾精は、台湾を旅行中、不幸にもペストにかかって倒れ、亡くなりました。日清戦争の裏側における彼の功績により、大正4年には「従五位」という位が贈られました。

荒尾精の周りにいた人々の中に、明治の有名な実業家である岸田吟香(きしだ ぎんこう)がいました。荒尾は吟香と非常に仲が良く、吟香は自身の書いた本の中で「我が甥(おい)、荒尾精」と書いているほどで、二人は親戚のような固い絆(叔姪の誼:しゅくてつのよし)を結んでいました。荒尾が中国で活動していた頃、吟香はその事業に対して資金面で大いに援助していたのです。

また、「東洋的な豪傑」としての荒尾の素顔は、若い頃の頭山満(とうやま みつる:国家主義者)との交遊エピソードの中に表れています。明治27年頃、頭山と佐々友房、そして荒尾の三人が、ある日隅田川に舟を浮かべて宴会をしたことがありました。すっかり意気投合し、「義兄弟の約束をしよう」ということになりました。

その時、誰を一番上の兄貴にするかということで議論になりました。年齢から言えば、佐々、頭山、荒尾の順番になるはずでした。しかし、荒尾はそれを承知せず、こう言いました。

「佐々は300人の頭(リーダー)の一人に過ぎない。頭山は石炭掘りの親分だ。だが俺は、中国大陸を丸ごと飲み込んでしまおうというのだから、事業の大きさから言えば、俺が一番の兄貴になるんじゃ!」

これを聞いて、三人は手を叩いて大笑いしたといいます。

また彼と同じ時代に、やはり中国で活躍した人物に宮崎滔天(みやざき とうてん)がいます。彼もまた同じような「東洋的な豪傑」でしたが、中国の民衆を解放するための「中国革命の援助者」として活動していたため、国家の拡大を目指した荒尾とは進む道も違い、気も合わなかったと言われています。

 

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