PR

荒尾精の生涯|日清戦争の裏舞台で活躍した豪傑

『荒尾精』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
記事内に広告が含まれています

 

明治十八年(1885年)ごろのことです。

陸軍卿(りくぐんきょう:のちの陸軍大臣にあたる役職)大山巌(おおやま いわお)のもとへ、一人の若い少尉が、何度も何度も面会を求めてやって来ました。

彼が説くのは、ただ一つのことでした。

「土地が広く、天然の資源に富んだ中国大陸こそ、日本の産業の発展に欠かすことのできない場所です。いまのうちに、あの大陸へ人を送らねばなりません」

一介の少尉が国家の大方針について陸軍の首脳に直言するのは、並のことではありません。しかし、彼の献策は「空想」として片づけられました。それでも彼は屈しませんでした。

彼の名は荒尾精(あらお せい)。世論に一歩先んじて中国大陸に目を向け、上海に日清貿易研究所を開き、日清戦争の裏面を作った男。舞台裏で生涯を燃やした、一人の陸軍軍人の歩みに迫ります。

 

※注:底本の『日本英雄伝』は昭和十一年(1936年)の刊行で、日清戦争や中国大陸への進出を「海外発展」「功績」として讃える立場で書かれています。日清戦争の戦場は清国と朝鮮の領土であり、荒尾の育てた青年たちの情報活動は、中国側から見れば自国内での諜報(ちょうほう:ひそかに敵の情報を探ること)活動でした。この記事では底本の記述をそのまま訳したうえで、「支那」を「中国」または「清国」と改め、当時の見方には注を添えています。

 

世論に一歩を先んず

 

舞台の表に立って華々しい役を演じた人は、いつまでも人々の記憶に残ります。けれども舞台の裏で働いた人は、とかく忘れられてしまうものです。荒尾精もまた、そうして世間から忘れ去られようとしていた、舞台裏の重要人物でした。今日に至る日本の経済発展の道のりで、荒尾の隠れた重みは、表舞台の花形たちに勝るとも劣らない——底本はそう評しています。

では、荒尾が生きたのはどんな時代だったのでしょうか。

明治二十一年(1888年)ごろ、三宅雪嶺(みやけ せつれい:本名は雄二郎)・志賀重昂(しが しげたか)・杉浦重剛(すぎうら じゅうごう)・井上円了(いのうえ えんりょう)・島地黙雷(しまじ もくらい)らが政教社(せいきょうしゃ)という結社を作りました。機関誌『日本人』で、さかんに「国威発揚」「軍備拡張」を唱え始めます。その主張は、三宅雪嶺の『真善美日本人』にある一節に尽きていました。富を増やせば軍備を広げられる、だから毅然として海外の強国に当たれる、というのです。日本の産業を育てるには、資源を国外に求めなければならない。できあがった商品を売る市場も国外に持たなければならない。そのためには、強国に対抗できる軍備がいる。海外への発展と軍備の拡張は表裏一体で、当時の人々にとっては何より大事なことだったのです。

そのころ「海外発展」の相手と考えられていたのは、朝鮮半島でした。明治初年に西郷隆盛(さいごう たかもり)らが唱えた「征韓論」が、そのまま発展したものです。中国大陸への発展など、まだ誰も思いついていませんでした。むしろ当時の日本人の目に映る清国は、世界の強国であり、朝鮮半島で油断のならない競争相手だったのです。

 

※注:底本は征韓論を「明治七年」と記していますが、征韓論をめぐる政変は明治六年(1873年)の出来事です。

 

そんな中で、荒尾精はただ一人、中国大陸に目をつけていました。もちろん彼も、当時の世論と同じく「国威発揚」「海外発展」を唱えていました。しかし目のつけどころで、一歩、世論の先を行っていたのです。

荒尾精は安政六年(1859年)、尾張の琵琶島(びわじま:現在の愛知県清須市の一帯)に生まれました。父は禄百石の名古屋藩士でしたが、維新のあと東京へ出て、麹町(こうじまち)で荒物屋(あらものや:ざるや箒など日用の雑貨を売る店)を始めます。ところが商売は思うようにいかず、一家はたいへん苦しかったようです。そこで明治六年(1873年)、十五歳のとき、警部の菅井誠美(すがい せいび)に引き取られて苦学し、麹町元園町(もとぞのちょう)の漢学・英学・数学の塾に通うことになりました。明治十二年(1879年)に父を、十三年(1880年)に母を亡くしています。

少年荒尾の勉強ぶりは、ふつうの子どもとはまるで違っていました。塾から帰ると、一晩じゅう正座したまま机に向かいます。菅井夫婦がいくら寝るように勧めても、聞きません。

「身体に悪いから、もうお休み!」

「はい、ええです。私は身体は丈夫ですで」

名古屋なまりでそれだけ答えると、また黙々と勉強を続けます。眠くなれば机にもたれて眠り、目を覚ませばすぐ本を開く。布団に入って寝ることなど、ほとんどありませんでした。

実際、身体は頑丈でした。菅井家に集まってくる若者の誰を相手にしても、相撲で負けたことがなかったほどです。

 

『荒尾精』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

中国へ出発するまで

 

※注:底本の小見出しは「支那へ出発するまで」「支那における活動」です。「支那」は現在ではあまり使われない呼び方なので、「中国」に改めました。

 

その後、彼は外国語学校に入ってフランス語を学び、芳野金陵(よしの きんりょう:幕末・明治の儒学者)という人に漢学を教わりました。

ちょうど征韓論などがやかましくなってきた時代です。それが血気盛んな少年の胸を強く打ち、彼も時代の風に乗って、海外への発展を夢見るようになりました。フランス語などをやっていてはまだるっこしい。そう考えた彼は、菅井誠美に中国研究の決心を打ち明け、明治十一年(1878年)の夏、陸軍教導団(きょうどうだん:下士官を養成する陸軍の学校)に入ります。

教導団から陸軍士官学校へ進んで卒業し、明治十五年(1882年)に少尉となりました。十八年(1885年)までは参謀本部の中国担当の課に勤めます。そのあいだに彼の確信は、いよいよ深まっていきました。土地が広く、天然資源に富んだ中国こそ、日本の産業の発展に欠かせない場所だ、と。

ついに意を決した彼は、たびたび陸軍卿・大山巌に面会を求め、中国への進出の必要をしきりに説きました。

当時の陸軍は今日ほど大きくなく、将校の数もきわめて少なかったので、今日の少尉が陸軍大臣に会う場合とは事情が違います。それにしても、一少尉の身で国の大方針を陸軍の首脳に直言したという一事だけでも、彼の燃えるような覇気(はき:やり遂げようとする強い意気込み)は想像できるでしょう。

けれども当時は、清国を恐るべき強国と考える者こそいなかったものの、彼のようにはっきりした信念で大陸政策を考える者はいませんでした。献策は空想と見なされ、当局は取り上げません。それでも彼は屈せず、何度も上申を続けました。そのうちにようやく当局も動かされ、彼は長年の志を果たします。「自分は大陸政策の捨て石になる」という覚悟で、周りに集まった後輩の青年二十人あまりを率いて、中国に入ることを許されたのです。明治十九年(1886年)のことでした。

 

※注:荒尾はこのとき漢口(かんこう:現在の湖北省武漢市)に楽善堂(らくぜんどう)という薬店を構え、そこを拠点に各地の調査を行いました。楽善堂は、のちに登場する岸田吟香の店の支店という形をとったものです。

 

 

『荒尾精』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

日清戦争当時の国情

 

徳川幕府を倒した明治の新政府は、産業の開発に最大の力を注がなければなりませんでした。ところが新政府の首脳部は薩摩や長州の武士出身の人たちで固められ、藩閥(はんばつ:特定の藩の出身者が権力を独占すること)の色を抜けきれていません。ですから、幕府のもとで三百年続いた封建的な慣習を根本から改めることは望めませんでした。たとえば農村では、領主が地主に入れ替わっただけで、小作の仕組みはほとんど変わっていません。そうした弱さを抱えたまま、日本は、商品の売り先を求めてインド・南洋・中国・朝鮮、そして日本へと手を伸ばしてきたヨーロッパの先進資本主義国に対抗しなければなりませんでした。だから政府みずからが立ち上がり、まだ幼く足腰の弱い日本の資本主義を無理にでも立たせ、育てていく必要があったのです。

 

※注:この章の「封建的な慣習」「日本資本主義」といった説明は、昭和十一年当時の書き手の歴史の見方によるものです。

 

こうして新政府の保護のもとで、明治初年から日清戦争までの二十年あまりのあいだに、産業は大きく伸びました。明治五年(1872年)に初めて敷かれた鉄道は、二十七年(1894年)には二千マイルに。二万六千トンだった船舶は十七万トンに。九十万トンの鉄は五百万トンに、五十六万トンの石炭は四百万トンに。そして四千二百万円だった貿易額は、二億三千六百万円に達していたのです。

 

※注:底本は最初の鉄道を「五マイルばかり」と記していますが、明治五年に開業した新橋―横浜間は約十八マイル(約二十九キロ)です。ほかの数字は底本のまま訳しています。

 

しかし同時に、その産業で働く十万の鉱夫、四十万の職工、あわせて百五十万にのぼる人々が、初めて日本の歴史の上に姿を現しました。そして同じころ、国外の原料と商品の売り先が切実に必要になり、まず朝鮮に目が向けられます。ところが朝鮮半島は当時、清国が政治的に押さえていて、属国だとさえ言われていました。日本と清国は、そこで正面からぶつからざるを得なくなったのです。それが日清戦争でした。

 

※注:日清戦争(1894〜95年)の主な戦場は朝鮮と中国の領土でした。底本はこれを日本の産業の発展の必然として説明していますが、当時の見方です。

 

『荒尾精』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

中国における活動

 

明治十九年(1886年)、青年二十人あまりを率いて中国に渡った荒尾は、まず現地の国情を調べることに多くの時間を費やしました。その結果、現地の事情に通じた行動力のある青年を育てることが必要だ、と考えるようになります。そこで独力で資金を集め、上海に「日清貿易研究所」を開き、百人あまりの青年を集めて育てることに力を注ぎました。

 

※注:日清貿易研究所は明治二十三年(1890年)に開かれました。荒尾はいったん帰国し、各地で資金を募って開所にこぎつけています。

 

ただし彼は、青年たちに中国の事情や中国語を教えて「中国通」を作るだけで満足したのではありません。自分の大陸政策を、彼らに吹き込んだのです。その結果、名前は「貿易研究所」でも、実際には日清貿易のためというより、日清戦争に直接役立つことになりました。研究所を出た青年たちは貿易には就かず、陸軍に入って通訳官になります。そして日清戦争の前夜と戦争のさなかに各地へ潜り込み、情報を集め、清国の政情や軍の様子を調べて、陸軍に貢献したのです。

それだけに、清国の官憲に捕らえられ、投獄され、死刑になった者も少なくありませんでした。山崎羔三郎(やまざき こうざぶろう)・鐘崎三郎(かねざき さぶろう)・藤崎秀博(ふじさき ひでひろ)・藤島武彦(ふじしま たけひこ)・大熊鵬(おおくま ほう)・猪田正吉(いだ しょうきち)・楠内友次郎(くすうち ともじろう)・福原林平(ふくはら りんぺい)・石川伍一(いしかわ ごいち)・浦敬一(うら けいいち)・広岡安太(ひろおか やすた)・高見武夫(たかみ たけお)——いずれも犠牲になった人たちです。

 

※注:底本の「藤崎秀博」は、一般には藤崎秀(ふじさき ひいず)として知られています。山崎・鐘崎・藤崎の三人は明治二十七年(1894年)に金州(現在の遼寧省大連市)で処刑され、「三崎」と呼ばれました。彼らの活動は、清国の側から見れば戦時の間諜(かんちょう:スパイ)行為でした。

 

その後、明治二十九年(1896年)。輝かしい武勲を挙げて凱旋した将軍たちの働きの、その土台を作った荒尾精は、台湾を旅行中にペストにかかって倒れました。日清戦争の裏面での功績により、大正四年(1915年)に従五位(じゅごい)を贈られています。

 

※注:荒尾は明治二十九年十月三十日、台北で亡くなりました。数えで三十八歳です。台湾は前年の下関条約で日本が清国から割譲を受けたばかりの土地でした。

 

『荒尾精』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

岸田吟香と頭山満と宮崎滔天

 

荒尾精をめぐる人々の中に、明治の実業家・岸田吟香(きしだ ぎんこう)がいました。二人はたいへん仲がよく、吟香は『通商総覧』第二編の跋文(ばつぶん:本の終わりに添える文)に「我が姪(てつ:おい)荒尾精」と書いているほどです。叔父と甥の間柄になろう、と約束を交わしていたのでした。荒尾が中国で活動していたころ、吟香はその事業に、お金の面で大きな援助をしています。

 

※注:底本の『通商総覧』は、日清貿易研究所が明治二十五年(1892年)に刊行した『清国通商綜覧』のことです。青年たちの調査をまとめた大部の書物でした。

 

「東洋的豪傑」としての荒尾の面目は、頭山満(とうやま みつる:福岡の玄洋社を率いた人物)との交遊の逸話によく表れています。明治二十七年(1894年)ごろ、頭山と佐々友房(さっさ ともふさ:熊本出身の政治家)と三人で、ある日、隅田川に舟を浮かべて痛飲したことがありました。意気投合して「兄弟の約束」を結ぼうということになり、誰を兄貴にするかで議論になります。年からいえば、佐々・頭山・荒尾の順のはずでした。

しかし荒尾は承知しません。

「佐々は三百人いる代議士のうちの一人だ。頭山は石炭掘りの親分だ。だが俺は支那を呑んでしまおうというのだから、事業の大きさからいって、俺が一番の兄貴になるんじゃ!」

三人は手をたたいて大笑いしたということです。

 

※注:底本の原文は「三百頭顱(とうろ)中の一人」で、当時の衆議院議員の定数が三百人だったことを踏まえた言い回しです。「支那を呑んでしまおう」は荒尾自身の言葉としてそのまま残しました。

 

同じ時代に、やはり中国で活躍した人に宮崎滔天(みやざき とうてん)がいます。滔天も同じような「東洋的豪傑」でしたが、中国の民衆を解放するために中国革命を助けた人で、荒尾とは道も違い、気も合わなかったといいます。

 

 

『荒尾精』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

井上円了の生涯|東洋大学を創設した「妖怪博士」の熱き信念
東洋大学の創設者であり、「妖怪博士」の異名を持つ哲学者・井上円了(いのうえ えんりょう)。欧米化に傾く明治時代にあって仏教や東洋哲学の重要性を説き、迷信打破のために妖怪を科学的に研究するなど、生涯をかけて「哲学の通俗化」に尽力した彼の熱き信念と獅子奮迅の生涯をわかりやすく解説。

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

タイトルとURLをコピーしました