満身これ事業熱
1894年(明治27年)、世間を大きく騒がせた「鉄管事件」という汚職事件がありました。当時、東京市に初めて水道が引かれることになり、その工事を請け負ったのが「東京鋳鉄会社」でした。しかし、この会社が工事に不正な鉄管を使っていたことが発覚し、社員や結託していた市の役人たちが多数逮捕されたのです。
明治の日本の産業を牽引した大実業家・雨宮敬次郎(あめみや けいじろう)は、この会社の社長であったため、彼自身も鍛冶橋監獄(刑務所)に繋がれることになってしまいました。
彼は随分と長く獄中にいましたが、幸いにも嫌疑が晴れて無罪となり、釈放されることになりました。その際、彼は獄中で書きためた帳面を持ち帰ってきました。そこには、
「天命をよく知る年に獄を知り これも天命これも天命」
といった、あまり上手とは言えない「獄中での詩」がたくさん書かれていました。
この「鉄管事件」は大きな事件でしたが、それ以上に世間が注目したのは、「あの雨宮敬次郎が関わっている」ということでした。なぜなら彼は「明治の実業家」の典型のような人物であり、彼の一挙手一投足が常にビジネス界に大きな波紋を呼んでいたからです。彼がここで破滅するのかどうかが、世間の大きな注目の的となっていました。
当時はちょうど日清戦争の頃でした。まだ東京にも電車がなく、日本中に鉄道もあまり敷かれていない時代で、「文明事業」をどんどん興さなければならない時期でした。日本の資本主義がようやく勃興しかけた頃で、日本中の中小の事業家たちが「大事業をやって巨万の富を掴んでやる!」と血眼になって走り回っていたのです。
その中でも、雨宮敬次郎は群を抜いていました。事業に対する情熱、目の付けどころ、計画の大胆さ、そしてそれを実行する手腕と腹の太さにおいて、誰一人として彼に敵う者はいませんでした。
こんなエピソードがあります。
彼が鉄管事件で無罪となり出獄したその日、親しいビジネス仲間であるイギリス人(サミュール商会の東洋支店長・ミッチェル)が彼を訪問しました。ミッチェルは、長い獄中生活で苦しんだ友人・敬次郎を大いに慰め、励ましてやろうと思っていました。
ところが応接室に通されると、敬次郎はその日の新聞を手に持って現れ、座るやいなや「新聞に発表されている日清戦争の『軍事公債(国債)』は絶対に儲かるから、ぜひ一千万でも一億でも買い占めるべきだ!」と、凄まじい勢いでミッチェルに力説し始めたのです。
いざ彼が釈放されてみると、その獄中生活の疲れも見せずに、さっそく次の大事業を生き生きと切り回し始めたのです。これにはミッチェルをはじめ周囲もすっかり圧倒されてしまい、出獄のお祝いや慰めの言葉すらかける隙がなかったと言われています。

明治の事業家気質を代表する人物
このように、雨宮敬次郎は商売というものに対して異常なほどの情熱を燃やした「実業家気質(ビジネスマン魂)」の塊のような人物でした。彼には「事業(ビジネス)」以外には、何一つの楽しみも趣味もありませんでした。
彼の生活は驚くほど質素で、いつも粗末な服を着て、簡単な食事しかとりませんでした。それはケチだったからではなく、洋服や食事などに全く無頓着だったからです。美味しいものを食べて美女と遊ぶようなぜいたくな暮らしをしている人を見ると、「吐き気がする!」と激しくののしるほどでした。
その一方で、友人や後輩にはいつも無造作に巨額の金を貸し出したり、「事業のために必要だ」と言えば、ポンと大金を投げ出したりしていました。そのため競争相手からは随分と憎まれましたが、彼に救われた人々からは絶大な信頼を寄せられていました。
あの鉄管事件の時、警察が彼の持ち物を調べました。彼はいつも、丈夫なヒモで懐中時計を帯にぶら下げていたのですが、それは鉄道の車掌さんが使うような安い「白銅(ニッケル)」の時計でした。しかし警察は、大金持ちの彼がそんな安い時計を持っているはずがないと思い込み、書類に「超高級なプラチナ製の時計」と勘違いして書き込んでしまったのです。
これを知った敬次郎は大笑いし、「お金の威光があれば、ただの白銅がプラチナになり、悪党も善人になるんだな」と皮肉な歌を作りました。彼は誰よりもお金儲けに熱中していましたが、心の底では「お金そのもの」や「お金の力にひれ伏す人々」を軽蔑していたのです。
彼が死ぬ間際、子どもたちにこんな遺言を残しました。
「お前たちに財産は残さないぞ。ただ、家と土地だけは残してやるから、もし貧乏になったらこれを売って食べなさい。俺は、お金をあの世へ背負っていくつもりはなかったからな!」
事実、彼が稼いだ巨万の富は、すべて事業への投資に回されていました。彼にとっては「事業」だけが命だったのです。

極端な浮沈の波を乗切った生涯
敬次郎は1846年(弘化3年)、ペリーの黒船が来る少し前に、山梨県の山奥にある貧しい農家(牛奥村)に生まれました。
村に隠れ住んでいたお侍さんから武術や学問を教わり、16歳で近所の村の塾に住み込みで勉強するようになりました。しかし、家が貧しくて働き手が必要だったため、実家に呼び戻され、ムシロや草鞋(わらじ)を作る貧しい生活に戻ってしまいました。
ある日、実家の窮状に発奮した彼は、家中の小銭をかき集めて近所の村で「鶏の卵」を買い集め、それを甲府の町まで持っていき、お茶屋や旅館に売り歩きました。これが彼の実業家としての記念すべき第一歩であり、ここから彼の「事業熱」が目覚めたのです。
その後、彼はブドウや絹の原料などを江戸に運んで売り、さらに江戸の品物を地元に持ち帰って売る商売を始めます。しかし、少しお金が貯まったので調子に乗って、信州(長野県)から東北地方までをまたにかけた大きな商売に手を出したところ、見事に大失敗してしまいました。
数千両という莫大な借金を背負い込んだ彼は絶望し、川に飛び込んで自殺しようとしました。着物の袖に重り代わりの石まで詰め込んで、いざ飛び込もうとしたその瞬間、
「いや、待て!」
と思いとどまったのです。この時の経験が、その後の彼にどんな困難にも負けない不屈のパワーを与えました。
24歳の時、横浜へ出て「洋銀(外国のお金)」の相場で勝負に出ます。一気に30万もの大金を儲けたかと思えば、次は60万の大損をして逃げ帰るなど、何度となく浮き沈みを繰り返しました。
さらに、大量の蚕(カイコ)の卵を持ってアメリカからヨーロッパまで世界中を売り歩きましたが、全く売れずに一文無しになって逃げ帰ってきました。おまけに、帰ってきたら実家は火事で全焼しており、奥さんは重病で死にかけているという悲惨な状況でした。
またある時は、資金が完全に底をついて困り果てていたにも関わらず、ある銀行の開業祝いの宴会に出席しました。そこで彼は突然立ち上がり、「この銀行の素晴らしい前途を祝して、開業式の今日この場からさっそく取引が始まるのは大変縁起が良い!私が一番乗りで、自分の家と土地を担保にして2200円の借金契約をしよう!」と言い出し、満場の大喝采を浴びてまんまと資金を借りることに成功しました。しかし実は、彼が担保にした家というのは「借家(賃貸)」であり、後から慌てて大家さんに頭を下げて許可をもらいに行ったという、とんでもない裏話も残っています。
しかし、彼はどんな絶望的な状況でも絶対に諦めませんでした。転んでは起き上がり、失敗しては新しい事業に挑み続けた結果、最後には「北海道炭礦汽船」や「東京電気鉄道」をはじめとする無数の大企業の社長へと上り詰めました。鉄道、海運、貿易、電気、製鉄など、明治の「文明的商工業」のほとんどすべての基礎を築き上げた先覚者となったのです。
1911年(明治44年)に彼がこの世を去ったとき、その盛大な葬儀には、伊藤博文や松方正義といった国のトップ(元老)たちも参列しました。どん底から這い上がり、日本の近代産業を力強く推し進めた、まさに「極端な浮沈の波を乗切った生涯」でした。


