PR

尼子経久の生涯|城を追われた落ち武者から中国地方の覇者へ這い上がった戦国武将を解説

『尼子経久』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
記事内に広告が含まれています

奇計を以て富田城を奪う

 

室町幕府の力が衰え、全国の武将たちがそれぞれの領地で勢力を争う「戦国時代」がやって来ました。関東では北条氏、北陸では上杉氏、甲斐(山梨県)では武田氏などが立ち上がっていましたが、中国地方(山陰地方)で力を持つようになったのが、尼子経久(あまご つねひさ)です。

彼は出雲国(島根県)のわずか1万石の小さな領主から身を起こし、あっという間に出雲、因幡、伯耆、隠岐の4つの国を平定して、周囲にその力を見せつけました。彼もまた、戦国時代を代表する英雄の一人なのです。

もともと出雲の国は、近江(滋賀県)を拠点とする佐々木氏(六角氏)の領地であり、経久のおじいさんの代から「守護代(現地の副知事のような役職)」としてこの地を治め、税金を集めて近江に送っていました。

しかし、経久がまだ若い頃、彼は近江からの命令を無視して富田(とだ)という土地を自分のものにし、さらに幕府側の役人たちを攻撃して従わせようとしました。これに激怒した近江の殿様は、現地の武将たちに命じて経久を攻撃させ、彼から役職を取り上げて富田城から追い出してしまいました。そして経久の代わりに、塩冶掃部助(えんや かもんのすけ)という人物を新しい城主に据えたのです。

城を追い出され、野望を打ち砕かれた経久は、悔し涙を飲みながら各地を放浪する「落ち武者」となりました。しまいにはその日の食べ物にも困り、山奥のお寺で下働きをして飢えをしのぐような、どん底の悲惨な生活に転落してしまったのです。

頼みにしていた家来たちの多くも、生活のためにバラバラになってしまい、見切りをつけて近江の殿様に仕える者も出ました。経久がどんなに焦っても打つ手はなく、山寺の雑用係としてそのまま年老いていくかのように見えました。しかし、出雲の国にはまだ、経久への昔の恩を忘れていない「山中(やまなか)」という一族だけが残っていました。

経久は意を決して出雲へこっそり潜入し、山中一族の隠れ家を訪ねました。経久の「もう一度城を取り戻す」という熱い志を知った山中一族は、すぐに親戚17人を集めて味方になってくれました。

とはいえ、相手は今をときめく正式な城主であり、兵士もたくさんいます。まともに戦っては、わずかな人数で富田城を取り戻すことなど不可能です。そこで経久たちは作戦を練り、地元で力を持っていた「賀麻(がま)」という顔役を味方に引き入れることにしました。

経久から声をかけられた賀麻は、大いに感激して平伏し、「数いる武士たちを差し置いて、私のような者をお頼みくださるとは光栄の極みです。たとえこの身が粉々にされようとも、決して後悔はいたしません。どこまでもお力になります!」と協力を誓いました。

経久は賀麻に、秘密の作戦を授けました。

「では、毎年お正月の元日に、富田城で行われる『万歳(まんざい:お祝いの舞)』の出し物を頼む。暗いうちから城で万歳を始めれば、城の連中が見物するために本丸から出てくるだろう。その隙に、我々が裏口から忍び込んで城のあちこちに火をつける。それを合図に、お前たちは表門から斬り込んでくれ。前後から挟み撃ちにすれば、塩冶をはじめとする城の連中はパニックになる。そこを一気に突き伏せて城を乗っ取るのだ」

賀麻は「それは必ず勝てる素晴らしい作戦だ」と感心し、喜んで引き受けました。

こうして計画は整い、大晦日の夜中、経久を筆頭とする山中一族17人と、昔の縁を頼って集まった56人の仲間たちが富田城へ忍び寄りました。もともと自分のお城ですから、内部の構造は知り尽くしています。塀を乗り越え、暗闇の中で息を潜めて合図を待ちました。

夜が明けて、元日の朝を迎えました。賀麻たち70人あまりの一座が、鎧(よろい)の上からお祝いの衣装を着込み、城の内外で太鼓をドンドンと叩いて賑やかに万歳を始めました。

すると、城の中にいた人々は「今年はいつもより早く万歳が来たな。縁起が良いことだ、早く見に行こう!」と、急いで中庭へ走り出て、夢中になって見物し始めました。

その瞬間、隠れていた経久たちが城のあちこちに火を放ち、「火事だ!火事だ!」と騒ぎ立てました。城の兵士たちが驚き慌てて、武器を手に取る暇もないところへ、万歳を踊っていた賀麻たちがバッと衣装を脱ぎ捨て、隠し持っていた刀を抜いて表門からドッと攻めかかりました。

城の中は「夜襲だ!敵だ!」と大パニックになり、上を下への大騒ぎとなりました。経久の見事な奇策に完全に騙された城主の塩冶は、為す術もなく首を討ち取られてしまいました。

経久は、自分を追い出した憎き塩冶の首を城の中に3日間さらし、見事に富田城を完全奪還することに成功したのです。

経久が城を取り戻したというニュースを聞くと、かつての家来たちが「今がチャンスだ」と続々と集まってきました。周囲の武将たちも経久の強さに降伏し、あっという間に出雲一国を平定してしまいました。さらに彼は勢いに乗って、石見、安芸、備前、備中などにも攻め入り、ついには中国地方の11カ国を支配する大勢力へと成長したのです。

 

尼子経久

 

衰運の端を開く

 

その頃、中国地方や関西で最も巨大な力を持っていたのが、大内義興(おおうち よしおき)でした。彼は将軍を助けて京都に上り、天下の政治を操るほどの権勢を誇っていました。中国地方の武将たちはほとんどが大内氏に従っていましたが、ただ一人、経久だけが自分の意志を貫き、大内氏に頭を下げませんでした。

やがて大内義興が亡くなり、息子の義隆(よしたか)が跡を継ぎます。しかし義隆は父親と違って戦いが嫌いで、毎日詩や音楽、宴会ばかりして遊んでいました。これを見た周囲の武将たちは、尼子経久に「今こそ大内を倒すチャンスです!」と持ちかけました。

しかし、経久は慎重でした。いきなり大内の本拠地である山口へ攻め込むのではなく、まずは周囲の安全を固めることを最優先としました。

経久は5万5000人の大軍を率いて、大内側の拠点である「三次城(みよしじょう)」へ攻め込みました。城を守るのは猛将として知られる三好備後入道で、兵はわずか3000人でしたが、川の向こうにある非常に守りの堅いお城でした。ちょうど梅雨の時期で川の水が増水しており、経久の大軍もなかなか川を渡って攻め込むことができず、ただお城を遠くから囲んでにらみ合う日々が続きました。

この時、安芸国(広島県)で力を伸ばし、経久と敵対していた毛利元就(もうり もとなり)が三次城のピンチを知り、3000人の騎兵を率いて急いで救援に駆けつけました。

元就は深い霧を利用してこっそりと川を渡り、長引く戦いですっかり疲れ切っていた経久の軍勢に奇襲をかけて大勝利を収めました。経久は「この地形では大軍の身動きが取れず不利だ」と判断すると、すぐに兵をまとめて出雲へ撤退しました。退き際を見極めるのも、名将の証です。

これをきっかけに、尼子氏と毛利氏の関係はますます悪化し、激しい戦いが続くことになります。

その後、経久は年老いて引退し、息子の政久が跡を継ぎましたが早くに亡くなってしまったため、孫の晴久(はるひさ)が当主となりました。

その頃、毛利元就が尼子側の城を次々と奪い始めました。これに激怒した孫の晴久は、6万9000人の大軍を率いて毛利の本拠地・吉田郡山城へ攻め込むことを決意します。おじいちゃんである経久は「毛利の城は守りが堅いからやめておけ」と忠告しましたが、血気盛んな晴久は耳を貸しませんでした。

晴久は半年間も毛利の城を囲みましたが、どうしても落とすことができませんでした。すると、毛利のSOSを受けた大内義隆が、1万人の援軍を派遣してきたのです。

ただでさえ毛利を攻めあぐねていたのに、背後から大内の軍勢に攻撃された晴久の軍は、前と後ろから挟み撃ちにあって大パニックに陥り、大敗北を喫してしまいました。

この時、経久は中風(脳卒中の後遺症)を患っており、手足が不自由な体で軍に同行していました。彼は孫の晴久に向かって、「元就ひとりを倒せないのに、大内の大軍まで相手にしたら全滅するのは火を見るよりも明らかだ。特に元就は稀に見る戦の天才だ。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』と言うだろう。すぐに撤退しろ!」と説き伏せ、大内の軍勢に完全に退路を断たれる前に、なんとか出雲へと逃げ帰りました。

本拠地の富田城へ帰り着くと、それからまもなくして、1541年(天文10年)11月に経久は84歳でこの世を去りました。

一代で中国地方11カ国を支配する大帝国を築き上げた英雄の死後、尼子家は孫の晴久、ひ孫の義久の代で毛利氏の猛攻を受け、次第に滅亡への道を突き進んでいくことになるのです。

 

尼子経久

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

タイトルとURLをコピーしました