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阿部正弘の生涯|黒船来航の危機から日本を救った20代の若き老中首座

『阿部正弘』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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国難来

 

江戸時代の初めから長く続いた鎖国(さこく)の間、欧米の国々は何度も日本を訪れて国を開くよう求めてきましたが、すべて失敗に終わっていました。しかし、彼らは決してあきらめようとはしませんでした。中でも一番熱心だったのがアメリカです。アメリカが日本と貿易を始めたかった主な理由は、太平洋で活動する捕鯨船(クジラを獲る船)を保護する場所が欲しかったこと、東洋へ向かう船の石炭を補給する場所が必要だったこと、そして貿易で利益を得るためでした。

アメリカの第13代大統領ミラード・フィルモアの時代にいよいよその必要性が高まり、東洋艦隊の司令長官ペリーを日本へ派遣しました。「場合によっては武力を使ってでも目的を達成せよ」という厳しい命令を受けていたペリーは、香港にあった艦隊を沖縄へ移して拠点とし、自ら4隻の軍艦を率いて、1853年(嘉永6年)6月3日、戦闘態勢を整えて堂々と浦賀(神奈川県)にやって来ました。

長い間、平和な鎖国の夢に浸っていた日本国民は、突然現れたアメリカ艦隊(黒船)の威圧感に接して驚き怪しみ、大パニックに陥りました。「天皇を尊び、外国人を追い払え!(尊王攘夷)」という意見と、「いや、港を開くべきだ」という意見が激しくぶつかり合い、日本中がひっくり返ったような大騒ぎになりました。

しかし、当時の幕府にはこの国難に対処して国民の不安を静めるだけの実力がありませんでした。その隙を突いて幕府を倒そうとする志士たちが立ち上がり、世の中はますます混乱していきました。

幕府はペリーの来航と同時に、密かにいくつかの藩(大名)へ出兵の準備を命じましたが、どの藩も世間の意見の対立に迷い、戦う意欲を失って出兵をためらう有様でした。幕府はますますその威信を失い、江戸に住んでいた大名や武士たちの中には、慌てて荷物をまとめて自分の領地へ逃げ帰る者まで現れました。

浦賀に停泊していたペリーは、幕府の態度がいつまでもハッキリしないことに痺れを切らし、ついに艦隊を江戸湾の奥へと進め、大砲を撃って脅しをかけました。江戸の人々のパニックはいやが上にも高まりました。一方では「国難が来た!」とばかりに、陣笠(兜の代わりにかぶった平たい円錐形の笠のこと)や火事用の羽織で身を固め、銃や武器を品川へ運んで戦争の準備に走り回る血気盛んな若者たちも右往左往し、天下はハチの巣をつついたような大騒乱となりました。

 

阿部正弘

苦心惨憺

 

この時、国じゅうが大混乱する中で、幕府のトップ(老中首座)として日夜悩み苦しんでいたのが阿部正弘(あべ まさひろ)でした。

彼は備後国福山(広島県)11万石の藩主で、老中に大抜擢されたとき、まだわずか25歳の青年政治家でした。

1819年(文政12年)、阿部正弘は前の老中であった阿部正精の六男として江戸に生まれました。幼い頃から顔立ちも美しく非常に賢かったのですが、長男ではなかったため、本来ならよその家へ養子に出される身分でした。しかし、兄たちが若くして亡くなったり病気がちだったりしたため、彼が家を継ぐことになったのです。

20歳で幕府の仕事につき、水野忠邦が「天保の改革」に失敗して辞めさせられた後を受け継いで、一気にトップの老中へ引き上げられました。彼は水野の厳しすぎる政治をやめさせて人々の心をつかみましたが、ちょうどそこにペリーがやって来て、困難な外交交渉の矢面に立つことになったのです。

ペリーは日本に到着すると、過去の失敗から学んで最初から強気の態度に出ました。そして幕府の役人に向かって「すぐに江戸へ行って一番上の責任者と面会し、大統領からの手紙を渡したい。そちらの対応によっては戦争をしてでも条約を結ばせる。もし開戦後にそちらが降参したくなったら、この白旗を立てろ。そうすればすぐに攻撃をやめてやる」と言い放ち、白旗を2本突きつけてきました。

この時、幕府の役人は「手紙を受け取るだけで、交渉はしない」と約束を取り付けたため、ペリーは「来年の春にまた返事を聞きに来る」と言い残し、手紙の受取書をもらうと沖縄の拠点へと引き返していきました。

阿部正弘はアメリカ艦隊が帰ると、これまでの「幕府だけで決める」というルールを破り、広く全国の大名から意見を募集しました。しかし、大名たちの意見は「要求を拒否しろ」というものが多く、特に薩摩(鹿児島県)や長州(山口県)などの強い藩はほとんどが鎖国を続けるべきだと主張しました。正弘自身も最初は外国を追い払う「攘夷」の考えを持っており、各藩に対して「アメリカとの戦争は避けられないかもしれないので、防備を固めて協力してほしい」と伝えていました。

しかし彼の心の中では、「江戸時代から続く鎖国のルールは破れない」という国内の事情と、「外国と戦争をしても絶対に勝ち目はない」という現実的な判断が激しくぶつかり合い、深い苦しみと悩みになっていました。

 

阿部正弘

 

条約締結

 

一度引き返したペリーの艦隊は、沖縄の役人を脅してそこを完全に自分たちの基地にしてしまい、石炭の倉庫を作り、小笠原諸島を占領するなどして、再び日本へ行く準備を整えていました。幕府は「前の将軍が亡くなったばかりなので、もう少し来るのを待ってほしい」と頼みましたが、ペリーは「本国からの命令だから予定は変えられない」と拒否し、もし日本が要求に応じなかったときのための兵士を沖縄に残して、急いで江戸へ向かって出発しました。

1854年(安政元年)、ペリー率いる艦隊は伊豆の海に姿を現し、9隻の黒船が次々と江戸湾の奥深く(神奈川沖)まで入り込んでいかりを下ろしました。

幕府は林大学頭(はやし だいがくのかみ)ら4人の役人を交渉役として派遣しました。国内のパニックと混乱は前回の何倍にも膨れ上がっていました。正弘の家来の中からも「外国を追い払え!」と主張する者が出てきて、彼の弱腰に見える態度を激しく責め立てました。

正弘が信頼する大久保忠寛という人物に家来たちの説得を頼んだところ、大久保は逆に彼らの主君を思う真っ直ぐな忠誠心に感動して帰ってきてしまうほどでした。

さらに、正弘の家来であった山岡八十郎という若者は、正弘が開国へと心が傾いているのを心配するあまり、なんとアメリカの軍艦に飛び込んでペリーを暗殺しようと計画しました。友人に止められて失敗すると、今度は正弘に「どうか外国を打ち払ってください」と激しい嘆願書を提出しました。しかし正弘に「気持ちは嬉しいが、その意見は採用できない」と却下されると、山岡は悲しみと怒りのあまり切腹して命を絶ってしまいました。

藩の幹部たちは「主君の命令もないのに勝手に自殺するのは狂人のやることだ」として山岡の家を取り潰そうとしましたが、正弘はそれを許さず、山岡の子どもにしっかりと家を継がせました。正弘もまた、彼らの「国を守りたい」という熱い志を理解していたため、むやみに罰することができなかったのです。

一方で、世間には正弘が外国に対して弱腰になっているという噂が広まり、彼をバカにするような落書きの歌がたくさん流行しました。

「日本をお茶にして来た蒸気船(黒船)、たった四はい(4杯/4隻)で夜も眠れず」

正弘はそんな激しい悪口の嵐の中にいましたが、それでも覚悟を決め、下田(静岡県)と函館(北海道)の2つの港を開き、水や食料を提供し、アメリカ人の上陸を許可するという「日米和親条約(神奈川条約)」に調印したのです。

この時ペリーは、「もし他の国が日本を攻めてきたら、アメリカが助けて撃退してやる。その証拠にこれをやろう」と言ってアメリカの国旗を渡してきました。それは、日本を自分たちの「家来の国」のように扱う屈辱的な態度でした。

最初は幕府の伝統である鎖国を守ろうとしていた正弘でしたが、実際にペリーたちと交渉してみて、「このまま鎖国にこだわって戦争になれば、日本という国そのものが滅んでしまう。開国して貿易をするのは、もはや逆らえない世界全体の流れなのだ」と悟ったのです。

そして、断固として条約を結びました。しかし、この決断を下すまでの彼の苦しみは想像を絶するものでした。条約調印の翌日、彼が仲間の大名に宛てた手紙には「本当に大変な時代になりました。人々の意見もバラバラで、私のような未熟者は毎日悩み苦しんでおります」と弱音がこぼれています。

正弘は、崩れゆく江戸幕府のトップという重圧を背負いながら、欧米の強い国々から日本が「植民地」にされてしまうという最大の危機に立ち向かいました。世間からどれだけ悪口を言われようとも身を挺して、日本の進むべき道を間違えないように必死に舵取りをしたのです。

1856年(安政3年)には、外交の仕事を堀田正睦(ほった まさよし)に任せて自分は国内の政治に専念しようとしましたが、翌年の春頃から胸の痛みを訴え、39歳という若さで亡くなりました。

のちにその開国の大きな功績が認められ、大正時代に入ってから国から高い位(従三位)が贈られました。

 

『阿部正弘』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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