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朱楽菅江の生涯|江戸の狂歌を大流行させた狂歌師の生涯

『朱楽菅江』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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江戸の発達と江戸っ子の文学

 

徳川時代の狂歌師(きょうかし:面白おかしい短歌を作る人)である朱楽菅江(あけらかんこう)は、大都市である江戸の生活が生み出した詩人です。

江戸が、他とは違う独自の特色を持った大都市として発展し始めたのは、大阪に比べてずっと遅く、文化・文政(ぶんか・ぶんせい:一八〇〇年代前半)の頃になってからです。それまでの江戸は、全国各地から流れ込み集まってきた田舎者たちが街を開き、塀をめぐらせて、陰気臭く寄り集まって暮らしているような、野暮(やぼ)で野蛮な町でした。

これに対して大阪は、ずっと昔から港町であり、すでに都市としての形を作っていました。徳川時代になると幕府が直接管理する「自由都市」として、さらに発展していきました。大名の屋敷も少なく、旗本(はたもと:将軍直属の家臣)もいない、まさに「町人の天下」でした。
そして大阪の町人たちは幕府から比較的多くの自由を与えられ、日本全国を相手にして幅広く商業を営み、問屋や両替屋、そして金・銀・米の取引所など、大きな商業組織を独自に発展させていきました。そのため、徳川時代の初期にはすでに日本国内の経済力を握り、堂々と幕府や大名、武士に対抗して、一つの実際の社会的な勢力となっていました。
その結果、そこに元気で勢いがあり、自由奔放で豪快、そして生き生きとした「元禄文化(げんろくぶんか)」が生まれ、井原西鶴(いはらさいかく)や近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)といった偉大な作家たちが次々と現れることになったのです。

しかし江戸は、大阪とは反対の性質を持つ「消費の都会」として次第に発達していきました。参勤交代(さんきんこうたい)の制度が敷かれ、全国の大名が江戸に屋敷を構え、大勢の家来を連れて毎年上京してくるため、大名や武士などの「消費する階級」を相手にした経済が発達してきたのです。
大阪の「問屋」に対して、江戸では「小売店」が異常に発展しました。土木工事が盛んだったので職人が非常に多くなりました。吉原などの遊び場も賑わいました。そして天明(てんめい)時代には、町人の人口だけで百三十万人を数えるほどの大都会になりました。

そうなると、今まで旗本や田舎侍に頭を押さえつけられ、道を歩くにも小さくなって歩いていた町人たちが、そろそろ勢いをつけてきました。第一に「札差(ふださし)」といって、旗本が幕府から給料として受け取るお米を代わりに受け取り、それを担保(質)にしてお金を旗本たちに貸し出す者たちがたくさん現れました。
この人たちは非常に大きな財産を築き上げ、一方で旗本たちはその人たちに頭を下げてお金を借りなければ生活できなくなったため、武士と町人の立場は全くあべこべになってしまいました。さらに、幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)のような「町奴(まちやっこ:町人の味方をする無法者)」も現れて、武士の勢力に一矢報いました。こうして、ここに「江戸っ子の文学」が発達する土台ができたのです。

町人の生活は豊かになりました。しかも彼らは武士のように政治的な悩みもなく、世間体や礼儀、規律に縛られることもなく、経済的な悩みもないため、自由な遊びを思う存分楽しみました。そこで、吉原や深川などの遊び場は繁盛し、劇場はこれまでにないほどの賑わいを見せ、音楽が発達し、浮世絵などの新しい美術が盛んになりました。
そしてそれまでは大阪や京都の「上方文学(かみがたぶんがく)」の真似をしていた文学も、ここで独自の発達を遂げるようになり、山東京伝(さんとうきょうでん)、曲亭馬琴(きょくていばきん)、式亭三馬(しきていさんば)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)、為永春水(ためながしゅんすい)といった六人の作家たちが次々と現れるようになりました。

これは、「元禄文化(上方)」に対する、いわゆる「化政文化(江戸)」です。
当時「十八大通(じゅうはちだいつう:江戸の粋な遊び人十八人)」に数えられていた村田春海(むらたはるみ)、大和屋文魚(やまとやぶんぎょ)、大口屋暁翁(おおぐちやぎょうおう)などの人々は、江戸の文化人の代表者であり、一晩の遊びに大金を投げ打つような豪遊をして莫大な財産を使い果たしながらも、一面では芸術の保護者として文芸の発達を大いに助けました。

彼らを代表とする「江戸っ子」は、上方の「雅(みやび:上品さ)」に対して「粋(いき)」を重んじ、上方の「華美(派手さ)」に対して「渋味」を重んじました。彼らが誇りとしたのは、男気、さっぱりした性格(淡白)、お金に執着しないこと(廉潔)、そして軽快さです。彼らが最も好むものは冗談(諧謔:かいぎゃく)と笑いであり、また絶えず自分たちを圧迫していた幕府の政治に対する反抗的な「風刺(ふうし:皮肉を込めて批判すること)」「皮肉」「あざ笑い(嘲笑)」でした。

したがって、江戸の文学は当然、そうした江戸っ子気質(かたぎ)の特色を受け継ぎ、洒落本(しゃれぼん)、黄表紙(きびょうし)、川柳(せんりゅう)、そして狂歌(きょうか)において独創的な発達を遂げました。中でも狂歌は、これまでにないほどの大流行を見せました。

朱楽菅江は、その狂歌における代表者の一人であり、彼の作風は世の中を席巻する(一世を風靡する)ものでした。

 

朱楽菅江

 

狂歌詩人としての彼の位置

 

蜀山人(しょくさんじん:太田南畝(おおたなんぽ))の『寝惚(ねぼけ)先生初稿』の序文に、「馬鹿不孤必有隣(馬鹿は孤ならず必ず隣あり)」とあります。これは言うまでもなく『論語』の言葉をもじったものですが、江戸の狂歌は一人の天才が現れてそれを大流行させたというわけではなく、なんとなく気の合う者同士のグループ(社交的なグループ)から、自然発生的に生まれ出たものなのです。

狂歌を歴史的に見るならば、『古今和歌集』にまで、さらにそれ以前の『万葉集』にまでもさかのぼることができます。しかし、専門的な「狂歌詩人」が現れたのは、元禄の頃に大阪に現れた油煙斎(ゆえんさい)を最初とします。彼の歌は非常に低俗なものでしたが、それだけに一般の人々に大ウケして、京都・大阪において一時期非常に流行しました。それよりずっと遅れて、江戸の狂歌は明和時代から始まりました。いわゆる「天明調(てんめいちょう)」です。

当時、牛込の加賀屋敷に内山伝蔵という旗本が住んでいました。この人は日本の学問と中国の学問に精通した非常に優れた学者でした。加賀藩の屋敷に住んでいたことから、「賀邸(かてい)」と号していました。この人の弟子である小島源之助、太田直次郎、山崎藤助、立松東蒙などが時々集まって「和歌の研究会」を開いていました。
しかし、皆いずれも一癖も二癖もある連中だったため、昔の歌人のようなすました感傷的な歌などを真面目に研究するのがやがて馬鹿らしくなり、しまいには風刺や皮肉を好む江戸っ子気質をむき出しにして、その会はついに「古今の名歌をからかう(茶化す・ヤジる)会」になってしまいました。たとえば、

「天の原 月すむ秋を 見れば 仲麿(なかまろ)」

(※本来は「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」)

「山里に 尻ごみしつつ 入りしより 浮世の事は 屁とも思わず」

「山川に 風のかけ声 それならで 夏のしがらみ なにもなし」

「日の影は 小春もまじる 朝の霜 どちらが冬と 踏み分けて見ん」

などといった具合です。

そして、この人々、すなわち山崎藤助は「朱楽菅江(あけらかんこう)」、太田直次郎は「四方赤良(よものあから=蜀山人)」、小島源之助は「唐衣橘洲(からころもきっしゅう)」、立松東蒙は「平秩東作(へづつとうさく)」と名乗って、いずれも「江戸狂歌の祖」となったのです。

それから狂歌は猛烈な勢いで流行し始めました。少しでも文字を知る江戸の市民は、こぞって狂歌に夢中になり、滑ったと言っては狂歌を詠み、転んだと言っては狂歌を詠むようになりました。そしてやがて、宿屋飯盛(やどやのめしもり)とか浜辺黒人(はまべのくろひと)といった名人も出てきました。

小説家では曲亭馬琴、山東京伝、十返舎一九、式亭三馬、恋川春町など。画家では喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、歌川豊春(うたがわとよはる)、勝川春章(かつかわしゅんしょう)なども狂歌熱にかかり、また平賀源内(ひらがげんない=風来山人)のような大学者も盛んにこれを作ったものです。
そして天明三年には『狂歌若葉集』『万載狂歌集』が出版され、同五年には『徳和歌後万載集』、同七年には『狂歌才蔵集』が出版されました。いずれも狂歌の傑作を集めたものでした。

朱楽菅江は、元文三年(一七三八)に生まれ、寛政十二年(一八〇〇)まで生きました。本当の名字は山崎景貫(やまざきかげつら)と言い、牛込二十騎町に住む、幕府の下級役人(手先与力)でした。準南堂(じゅんなんどう)、芬陀利華庵(ふんだりかあん)などの別名(別号)もあり、狂歌の他にも戯文(おどけ書き)や小説の作品もあります。彼の狂歌で最も有名なのは、

「ほととぎす 密かに鳴いて すぐる夜は あとに残れる 月影もなし」

という歌です。著書には『大抵御覧狂歌大体』『狂歌題林鈔』などがあります。

当時の江戸市民の生活には、「武士」も「町人」もありませんでした。いや、江戸の武士たちは武士であることを何となく照れ臭く思い、その私生活は完全に町人化し、町人の間に交じって暮らしていました。特に世の中を茶化して暮らした狂歌詩人たちの間では、こうした階級の違いなどは全くありませんでした。
たとえば、平秩東作は田舎侍の成り上がりで、朱楽菅江は天下の幕臣(直参)であり、蜀山人は身分の高い旗本でしたが、その学問で出世すること(身を立てること)も好まず、放浪の末に小さな煙草屋の主人として一生を終えたような人物でした。
また宿屋飯盛は全くのただの町人(宿屋の主人)であり、浅草庵市人(せんそうあんいちんど)は狂歌詩人であるとともに大工でした。このように、旗本も武士も町人も職人も関係ありませんでした。彼らは気が合うままに集まり、酒盛りを開いて歌を詠み、文章を作り、世の中を茶化して暮らしたのです。

だから朱楽菅江の生涯には、取り立てて記すべきような出来事もありません。ただ彼は時には

「世の中に 顔ほどうるさき ものはなし 夜も寝られず」

などと幕府を風刺した蜀山人や、社会に対する不満を狂歌に託してついに発狂して死んだ平賀源内(風来山人)らとは違い、あくまで自分の歌の主張の通りに世の中を「上品に」、そして「俗にならずに」一生を終えた人物であり、狂歌の正統派・穏健派の大御所であったことが、狂歌の歴史における彼の一つの特異性なのです。

 

朱楽菅江

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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