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十四年の政変――大隈重信が一夜で政府を追われた日|菊池寛『大衆明治史』を読む 第5回

十四年の政変――大隈重信が一夜で政府を追われた日 日本の焚書
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※注:この記事は、菊池寛『大衆明治史 国民版』(汎洋社、昭和十七年=1942年)の第五章「十四年の政変」を、今の読者に向けて現代語に訳したものです。この本は戦時中に書かれ、戦後にGHQ(連合国軍総司令部)の没収の対象とされた、いわゆる「焚書」の一冊です。本の記述は省かずに訳し、当時の見方にあたる点や、今の研究と違う点には注を添えました。

 

大隈、伊藤の登場

 

明治十年の西南戦争は、明治の歴史の上で、いろいろな意味でひとつの時代を区切るものでした。近代国家としての日本が初めて立ち上がった、というのがいちばん大きな意味でしょう。それから、西郷・木戸・大久保という維新の三傑が、まるで申し合わせでもしたかのように、次々とこの世を去っていきます。これもまた、時代が大きく変わったことを物語っている、と底本は書いています。

木戸孝允(きど たかよし)は、明治十年五月、大本営の仮の宿舎で、肝臓肥大症(かんぞうひだいしょう)のために亡くなりました。病気で意識がもうろうとするなかで、

「西郷、もういゝ加減にしてよさないか」

と何度も叫んだといいます。三人のなかでいちばん若く、四十五歳でした。

その西郷も、同じ年の九月、城山で「晋どん、もう此の処でよからう」と言って、別府晋介(べっぷ しんすけ)の介錯で首を渡しています。五十一歳でした。

そして最後に、大久保利通(おおくぼ としみち)が、翌明治十一年五月、東京の紀尾井坂で、石川県の島田一郎(しまだ いちろう)ほか五人の刺客の手にかかり、実にあっけなく殺されてしまいます。ロンドンの『タイムズ』は、はるかイギリスから社説でこう弔いました。

「大久保氏は一八七三年欧洲に来れり、その豪邁(ごうまい)正直にして度量の大なる、見識の高き、今日に到るまで、その風采(ふうさい)を追想せざるものなし。氏の不幸は日本全国の不幸と謂(い)ふべし」

(大久保氏は一八七三年にヨーロッパを訪れた。その気性の大きさと正直さ、心の広さ、見識の高さは、今に至るまで、その姿を思い出さない者はいないほどである。氏の不幸は、日本全体の不幸と言うべきである)

大久保は四十九歳でした。わずか一年足らずのあいだに、維新の三傑はそれぞれ悲劇的な最期を遂げたのです。彼らは、なすべきことをすべてやり終えた、という感じがします。新しい時代は、もっと若く、もっと新しい政治家を求めていたのです。

大久保が亡くなったとき、彼の役目は参議で内務卿でしたが、実際には首相の役をつとめていました。だから彼が刺客に倒れると、すぐに問題になったのは、誰が大久保の代わりに政府の実権を握るか、ということでした。大隈重信か、伊藤博文か。世間の目は自然と、この大久保門下の二人の秀才に集まったのです。

五月十四日、紀尾井坂の事件の日、伊藤博文は霊南坂の官舎でこの悲しい知らせを聞きました。ちょうど雨が降りそうな暗い日で、その書斎の扉は一日じゅう固く閉ざされていました。ところが夕方になって、突然、安場保和(やすば やすかず)が、ひどく元気のよい顔で扉を開けたのです。

「何だ、いやに不景気な顔をしてゐるぢやないか」

いきなり安場がこう浴びせかけると、伊藤は不機嫌な顔で言いました。

「貴様まだ知らんのか」

「知つとる、知つとる……」

安場は目をすえて、

「知つとるから言ふんぢや、……伊藤しつかりしろ。これから、貴様の天下ぢやぞ」

と、じっと伊藤の顔をのぞきこみました。

「何を云ふか。今そんな暢気(のんき)なことを言つてゐる場合ぢやない。俺はかうして、今朝から大久保の後任を誰にしたらよいか、そればかり考へて居るんぢや」

「後任、とぼけるな。貴様の外に、誰にあの大役が勤まると思ふんだ。だから、確かりしろと言つてるんだ」

伊藤はまだ苦りきっていましたが、安場は勝手に女中に言いつけて、祝いの酒の用意をさせたといいます。本能寺の変の知らせを受けたとき、軍師の黒田如水(くろだ じょすい)が、

「御運の開けさせ給ふ時ぞ、よくさせ給へ」

(ご運が開ける時でございます。しっかりなさいませ)

と言って、秀吉の膝をつついたという話と、よく似た場面でした。

はたして翌日、政府の大きな顔ぶれの入れ替えがあり、伊藤博文は大久保のあとを継いで、参議兼内務卿になりました。大隈重信は、これまでどおり参議兼大蔵卿です。伊藤にとっては出世で、内務卿は重い役に違いありません。けれども、大隈は参議としては筆頭で、先輩でもあります。経歴や腕前からすれば、大隈こそ首相格でなければならないところです。とくに明治六年から大蔵省の実権を握っている大隈は、その財政の力でほかの省を圧していました。

大隈は佐賀の出身で、薩摩・長州の藩閥から見れば、よそ者です。大久保のように心が広く、人を包みこめる政治家なら、大隈をうまく自分の側に取りこむこともできたでしょう。けれども大久保がいなくなった今、大隈は知らず知らずのうちに藩閥の外に立ち、藩閥の政治家にとって大きな敵のような存在になっていったのです。

伊藤は、まさに藩閥政治家の新しい希望であり、チャンピオンでした。大隈とのあいだに、埋めようのない溝ができていったのは当然でしょう。大久保の死後、実際の政治の主導権をめぐって、征韓論のころから固い友情で結ばれていた大隈と伊藤のあいだに、言葉にしない争いがあったことは、確かな事実だろうと底本は書いています。

明治十一年四月、明治天皇は大隈の雉子橋(きじばし)の屋敷へお出ましになりました。このご予定を聞いた伊藤は、三条実美(さんじょう さねとみ)や岩倉具視(いわくら ともみ)に不満をもらしたことがあります。このころから伊藤は、大隈の下に立つのを好まなかったらしいのです。

十四年の政変とは何か

 

明治十四年十月十二日、参議の大隈重信が職を解かれ、農商務卿の河野敏鎌(こうの とがま)、駅逓総督の前島密(まえじま ひそか)、判事の北畠治房(きたばたけ はるふさ)らが次々と辞めさせられました。また、その仲間と見られた各省の奏任(そうにん)以上の役人たち、矢野文雄(やの ふみお)、犬養毅(いぬかい つよし)、尾崎行雄(おざき ゆきお)、中上川彦次郎(なかみがわ ひこじろう)、小野梓(おの あずさ)、島田三郎(しまだ さぶろう)なども、職を追われました。これを明治の歴史で「十四年の政変」と呼びます。一種のクーデターでした。

 

※注:前島密の役職は、記録では「駅逓総監」(郵便などを受け持つ役所の長)です。原本には「駅逓総督」と印刷されています。

 

これは、明治六年の征韓論の分裂のときの政変と並び称される大きな政変で、明治の歴史の大きな曲がり角となった事件でした。六年の政変では、国内の武力を重んじる人々と、まず国内を整えようとする人々が対立し、佐賀・萩・鹿児島の反乱になりました。十四年の政変では、大隈の一派で政党を唱える人々がすべて政府から追い出され、薩摩と長州の結びつきはいよいよ固くなり、その勢力はびくともしないほどになったのです。

けれども、政府を追われた大隈の一派は、政党の組織づくりを進めました。自由民権の声は全国をおおい、「藩閥政府を倒せ」の旗じるしのもとに、猛然と反撃に出たのです。藩閥と政党の争いは、この政変をきっかけに本格的になり、真剣みを増して、明治の歴史を通じての大きな課題となりました。

では、十四年の政変はいったいどうして起きたのでしょうか。原因は、北海道開拓使の官有物(国の財産)の払い下げ問題でした。

明治十四年、開拓長官の黒田清隆(くろだ きよたか)は、それまで千四百万円以上もかけてきた開拓使の事業のすべてを、わずか三十万円、しかも利息なしの三十年払いで、自分の部下や御用商人がつくった関西貿易商社に払い下げようとし、政府の会議に強く迫って、天皇のお許しを得ました。

 

※注:払い下げの値段は、原本にも「三十萬圓」と印刷されています。記録では、およそ三十八万七千円とされています。

 

ところが、これを聞いた役人や民間の人々は、こぞって黒田のやり方を非難し、政府を責める声がわき起こりました。その勢いは、明治政府が始まって以来の激しさでした。

この形勢を見た大隈は、この世論に乗って、

「議会が開けないから、かうした藩閥の私曲(しきょく:不正)が行はれるのだ」

と自由民権論者をあおり、三菱の財力を後ろ盾に、福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)の門下の三田派と手を結んで、一挙に薩摩・長州の勢力を追い払い、政府の権力を握ろうとした――。黒田や伊藤たちはこれを大隈の陰謀だとして、大隈を追い出そうとしました。三条や岩倉たちも、「薩長が滅びることは、明治政府が滅びることだ」と信じて黒田と伊藤を助け、一挙に大隈とその仲間を政府から追い出してしまった、というのです。

開拓使官有物払い下げ問題

 

けれども、開拓使の官有物の払い下げを、黒田や薩長の政治家の横暴や不正とばかり見るのは当たらない、と底本は書いています。この話が出たのは、開拓使の予定の期限が来たことと、政府の経済の方針が変わったことによるのです。

つまり、千四百万円も使いながら、開拓の事業はいっこうに見通しが立たないところへ、予定の期限がやってきました。政府の産業の方針も、国が営む「官営」から、民間に任せる「民営」へと変わりました。国が営んでもうからない事業でも、民営にすれば利益が上がることが多い。だから産業は民営を原則とすべきだ、というのです。これはむしろ大隈参議の発案だと言われるくらいでした。黒田にしてみれば、もちろんこの政府の方針の変更に従って、民営による新しい北海道開拓の発展をはかったのに違いありません。

政府と結びついた商人との関係も、今さら問題にするまでもない、と底本は言います。この問題をたたけば、誰だってほこりが出る時代だったからです。

けれども、世論は今回に限って、これをきっぱりと悪いと決めつけました。『東京日日新聞』は、こう論じて非難しました。

「開拓使は北海道十一ケ国、海陸水土の利を尽し、挙(こぞ)って之を関西貿易商社に与ふ。該(がい)商社の専有は、恰(あたか)も英国の東印度商会に同じきも、その専権更に甚しきものあり」

(開拓使は、北海道十一か国の海と陸、水と土の利益をすべて、そっくり関西貿易商社に与えようとしている。この商社がそれを独り占めにするのは、まるでイギリスの東インド会社と同じだが、その思うままの力はそれ以上にひどい)

福地源一郎(ふくち げんいちろう)や沼間守一(ぬま もりかず)などは、新富座で政府を責める大演説会を開いています。非難の声は民間からだけでなく、政府の内側からもわき起こりました。大蔵卿の佐野常民(さの つねたみ)、元老院副議長の佐々木高行(ささき たかゆき)、陸軍中将の鳥尾小弥太(とりお こやた)、三浦梧楼(みうら ごろう)、谷干城(たに たてき)、曾我祐準(そが すけのり)、侍講の副島種臣(そえじま たねおみ)、中山忠能(なかやま ただやす)、浅野長勲(あさの ながこと)など、国じゅうの上の人も下の人もこぞって政府のやり方を攻撃しました。世論がこれほど沸き立ったことは、それまでありませんでした。

黒田自身、おそらくたいへん意外だったでしょう。何も今回に限って、問題がこんなにもつれ、沸き立たなくてもよさそうなものです。それ以前の山城屋事件でも、藤田組の贋札事件でも、世の中はそれほど非難しませんでした。

 

※注:山城屋事件(明治五年)は、陸軍の公金が御用商人の山城屋和助に貸し付けられて返らなくなった事件です。藤田組贋札事件(明治十二年)は、藤田伝三郎らがにせ札づくりの疑いで捕らえられた事件で、のちに無実と分かっています。

 

福沢諭吉も、鹿児島にいる鎌田栄吉(かまた えいきち)への手紙の中で、こう書いています。

「近来東京は開拓使払下げの一条にて、誠に物論(ぶつろん)の喧(かまびす)しきことなり。其(そ)の事柄はあまり正しき仕方にもこれ有るまじく候(そうら)へども、今の政府の仕組みなれば、何も珍しからぬ挙動ならん。必(かならず)しも黒田を此度(このたび)に限り咎(とが)るにも及ばざることなり。之を咎れば十三年間政府の全体を咎めて可なり」

(このごろ東京では、開拓使の払い下げの一件で、ほんとうに世間の議論がやかましい。そのやり方は、あまり正しいものではないだろうが、今の政府の仕組みなら、別に珍しくもないふるまいだろう。何も黒田だけを今回に限って責めるには及ばない。これを責めるなら、十三年間の政府全体を責めてよい)

また、同じ年の十月一日に大隈に出した手紙にも、「かうした政府の払下げは、これまでも度々あつたことだが、今度に限つてこんなに烈しい問題になつたのは、何か他の原因があるのだらう」と書いているほどです。

思うに、明治十三年ごろから、金や銀と取り替えられない紙幣が大量に出回って、日本の経済をのみこみました。その結果、紙幣の値打ちが下がり、一円札の銀に換えた値打ちは五十八銭と、ほとんど半分になりました。たちの悪いインフレの波が、人々の暮らしを根本からおびやかしていたのです。世の中の景気は表面こそ華やかでしたが、栄えるのは投機の事業ばかりで、しっかりした産業は育たず、中流から下の人々の暮らしはたいへん苦しい状態にありました。

北海道開拓使の官有物なども、世間が想像したほど大きなものではなかったかもしれません。また人々は、政府の産業の方針が民営に変わったことを知らなかったわけでもないでしょう。それでも彼らがこぞって政府のやり方を非難したのは、追いつめられた暮らしのなかで、この問題をどこまでも強く、大きく考えずにはいられなかったからなのです。

世論がかたくなになった二つ目の原因は、これをやり通そうとした黒田清隆の態度でした。払い下げの話がなかなか進まず、ぐずぐずしているのを見て、気の短い黒田は烈火のごとく怒り、三条実美に詰め寄りました。

「閣下が御承知なさらぬなら、黒田覚悟があります」

そう言って、そばにあった燭台をつかんで投げつけたのです。三条はたいへん恐れて、すぐにこれを決めてしまう手はずをとりました。気の弱い三条には、払い下げを許したことで世論が怒るよりも、黒田の激しい怒りのほうが恐ろしかったのでしょう。福沢は、先の鎌田あての手紙の終わりに、こう書いています。

「此(こ)の度は鹿児島人が傍若無人の挙動とて、苟(いやしく)も鹿児島の名ある人物は、皆その党類の如く言ひ做(な)さるるは、在県の人の為にも少々気の毒の様に存じ候」

(今回は鹿児島の人の勝手なふるまいだということで、少しでも名のある鹿児島の人物は、みなその仲間のように言われているのは、鹿児島にいる人々のためにも、少々気の毒なように思う)

黒田の乱暴が、どれほど各方面の人々を刺激したかが分かるでしょう。

さらに、開拓使の問題がここまで世論を燃え上がらせた理由は、それが国会開設の運動とからんだからです。国会開設の運動は、明治十三年に期成同志会が二府二十二県にわたって結成され、八万七千人の署名を集めて太政官に願い出ることになり、この年にはもう、その世論は抑えることができないほど強くなっていました。そこへ、開拓使の払い下げ問題が起きたのです。

 

※注:底本の「期成同志会」は、一般には「国会期成同盟」と呼ばれる団体です。

 

「議会さへ開いてあれば、かうした一個人の専断私曲(せんだんしきょく:勝手な不正)は行はれない」

というのが国会開設論者の言い分でした。そして事実、そのとおりなのです。

大隈の門下の小野梓は、この問題を政治に利用し、藩閥の日本を、公の世論にもとづく日本へと導くべきだと論じました。この問題にどこまでも食い下がり、目的を果たすまでがんばれと、新聞や雑誌を総動員して政府に迫ったのですから、事態はますます悪くなるばかりです。

だから、同じ国会開設論者でも穏やかな考えだった佐々木高行などは、この問題があまりに政治に利用されすぎると心配して、こう書いています。

「もし此(こ)の際彼等廟堂(びょうどう)の失挙(しっきょ)を口実となし、従前請願するところの民権主義なる国会開設の議を主張し、天下を鼓動し囂々(ごうごう)たるに至らしめ、遂に止むを得ずして其の請願を允許(いんきょ)せらるゝに至らば、過激粗暴、軽薄奸黠(かんかつ)者流大に志を得て、或(あるい)は仏国革命の景況に至る如きあらば、臍(ほぞ)を噬(か)むも及ばざる儀と存奉(ぞんじたてまつ)り候」

(もしこのとき、彼らが政府の失敗を口実にして、これまで願い出てきた民権主義の国会開設の議論を唱え、世の中をあおってやかましく騒ぎ立て、ついに政府がやむをえずその願いを許すことになったら、過激で乱暴な、軽はずみでずるがしこい者たちが大いに力を得て、あるいはフランス革命のような有様になるかもしれない。そうなっては、後悔しても取り返しがつかないと思います)

民権主義の者たちがのさばることを本気で心配しているところに、世の中の騒然とした様子がうかがえるではないか、と底本は書いています。

大隈の陰謀

 

では、この勢いよく高まる民権主義の流れに乗って、大隈はほんとうに陰謀をたくらんだのでしょうか。

大隈を参議から辞めさせるよう天皇に願い出た文書の理由は、はっきりと大隈の陰謀だと決めつけています。陰謀とは、ひそかに藩閥の政府をひっくり返そうとはかった、という意味です。

大隈の陰謀説のもとは、大隈が仲間の伊藤や井上馨(いのうえ かおる)を出し抜いて、国会開設の意見書をひそかに天皇に差し出した、ということにあります。大隈が仲間に相談せず、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)を通じて国会開設の意見を差し出したことは事実です。また、その説が伊藤や井上に比べて、ずば抜けて進歩的だったことも事実です。

それがどれほど進歩的だったか、一つ例をあげましょう。もっとも進歩的と言われた井上馨でさえ、民法の編纂、元老院の廃止、華族・士族と天皇が選んだ人からなる上院の開設は述べていますが、下院のことは無視しています。日本の憲政の大恩人と言われる伊藤博文でさえ、当時は元老院の改造を唱えるだけで、自由民権の叫びや国会開設を願う声も、その耳には不平士族の恨みの声、乱暴な民の暴言としか響かなかったのです。

そのなかで、大隈ただ一人が、

「立憲の政治は政党政治なり、故に国民の与望を有する多数党をして政府を組織すべし、速(すみや)かに憲法を制定して、明治十六年の初めに国会を開設すべし」

(立憲の政治とは政党政治である。だから国民の支持を得た多数党に政府をつくらせるべきだ。すぐに憲法をつくって、明治十六年のはじめに国会を開くべきだ)

と唱えたのですから、政府の人々が驚いたのも無理はありません。いつもの大風呂敷だと聞き流してはいられない。当時としては、明らかに危険な思想でした。大隈の陰謀が叫ばれるようになった原因は、ここにあるのです。

大隈の陰謀の裏には、福沢とその一派がいた、というのが、大隈に反対する人々の一致した考えでした。そして彼らは、この通じ合いを盛んに言いふらしました。両者のあいだにはっきりした連絡があったことを証明する文書は、今日ありません。福沢なども、この問題について、

「大隈の陰謀と云つて、なにも大隈が民権論者と相通謀(あいつうぼう:示し合わせること)したといふ痕跡もないので、こゝに福沢なる者を持ち出し、福沢は大隈と懇意だ。その福沢は民権論の親玉で、板垣とも同説だらう。その上三菱の謀臣(ぼうしん:知恵袋)と称する者は悉(ことごと)く福沢の門下だ。その陰謀の金主(きんしゅ:金を出す人)は三菱で、福沢も今度は政治社会に乗り出すのだらう。井上や伊藤も、この俺の心事を知らぬ筈はないが、大隈を除く口実として、自分の名を利用したのであらう」

と弁明していますが、これは真相の一面を伝えていると思う、と底本は書いています。

大隈は、あるいは潔白だったのかもしれません。けれども彼には、補給の役目として使える三菱会社があり、武器として『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』という二つの大きな新聞があり、部下には、のちの改進党の中心となる若い政治家たちがいて、遊軍として福沢の慶應義塾がありました。大隈自身が自分を抑えたとしても、血の気の多い門下生たちが黙っているはずがありません。五代友厚(ごだい ともあつ)や中野梧一(なかの ごいち)など、関西の財閥にうまい汁を独り占めにされて、勢いのある三菱会社が指をくわえて引っこんでいるはずがないではありませんか。

たとえ大隈に、すぐに藩閥を倒そうというはっきりした意図がなかったとしても、国会開設論者は彼をただ一つの希望と仰ぎ、藩閥の政府は彼を、身内にいながら害をなす者だと思ったのは、当時の形勢から言って当然でした。爆発するのは、もう時間の問題だったのです。

大隈参議の罷免

 

十月十一日、天皇の乗り物がつつがなく千住に着くと、岩倉はこれをお迎えして事情をすべて申し上げ、その夜のうちに臨時の大きな会議を開いて、大隈を辞めさせることを決めてしまいました。岩倉らしい、てきぱきとしたやり方です。

辞職をすすめる役目に当たったのが、伊藤と西郷従道の二人でした。つまり、薩長の力をもって大隈に向かったのです。『大隈侯昔日譚(おおくまこう せきじつたん)』には、そのときの様子が次のように語られています。

「七十幾日間、先帝の供奉(ぐぶ)で東北から北海道を巡つて帰つて来ると、その間に政府は種々方略をめぐらしたと見え、何でも夜中の一時頃であつたと思ふ。参議の伊藤と、西郷従道が吾輩(わがはい)の所へやつて来て、唯(ただ)簡単な言葉で『容易ならざることだから』とだけで『どうか辞表を出して呉れ』と云ふ。此(こ)の方は多くを訊(き)かなくとも、その間の消息は大抵判つてゐる。『よし吾輩が内閣に出る。辞表はお上に拝謁してから出す』と言つたら、これは両人一寸(ちょっと)当惑したらしいが、流石(さすが)に之を止める訳には行かないので、彼等は帰つた。然し翌日吾輩が宮中に行つた時は、モウ門衛が厳重に遮つて入らせぬ。有栖川宮様に行つても、やつぱり玆(ここ)にも門衛を置いて、固く門を閉ざし、我輩の入るのを拒絶するといふ仕末、昨日まで供奉申し上げた陛下にも、御同行申し上げた宮様にも、今日は固く門衛から拒絶されてお会ひすることすら出来ぬと云ふ。急転して体のいゝ罪人扱ひになつてしまつたのである。御免の辞令は司法卿の山田顕義(やまだ あきよし)が、友人として持つて来て渡してくれた」

(七十日あまり、先の天皇のお供をして東北から北海道を回って帰ってくると、そのあいだに政府はいろいろと策をめぐらしていたらしい。たしか夜中の一時ごろだったと思う。参議の伊藤と西郷従道が私のところへやってきて、ただ短い言葉で「容易ならないことだから」と言うだけで、「どうか辞表を出してくれ」と言う。こちらは多くを聞かなくても、そのあたりの事情はたいてい分かっている。「よし、私が内閣に出る。辞表は天皇にお目にかかってから出す」と言ったら、二人は少し困ったらしいが、さすがにそれを止めるわけにはいかないので、帰っていった。ところが翌日、私が宮中へ行ったときには、もう門番が厳しくさえぎって入らせない。有栖川宮さまのところへ行っても、やはりここにも門番を置いて、固く門を閉ざし、私が入るのを断るというありさまだった。昨日までお供をしていた天皇にも、ご一緒した宮さまにも、今日は門番に固く断られて、お会いすることさえできないという。たちまち、体のいい罪人扱いになってしまったのである。辞めさせる辞令は、司法卿の山田顕義が、友人として持ってきて渡してくれた)

これを見ても、薩長がどれほど大隈を恐れたかがうかがえると思う、と底本は書いています。当時の東京鎮台をあずかる野津道貫(のづ みちつら:薩摩の人)は、命令ひとつで兵を出せる準備をしていたといい、警視総監の樺山資紀(かばやま すけのり:薩摩の人)は、巡査を率いて天皇のお住まいを警護していたといいます。

政府はまた、押さえつけるだけでは効き目がないと見たのでしょう。伊藤が起草した国会開設についての意見書を中心に、ついに十月十二日、「明治二十三年を期して国会を開く」という、日本の憲政の歴史で画期的な天皇の詔(みことのり)が出されたのです。

十四年の政変は、どこから見てもあまり自慢にならない事件でしたが、この事件の副産物として、国会を開く時期が決まったということは、国民は覚えておいてよいと思う、と底本は書いています。

伊藤の暗躍

 

これまで、この政変の事情ははっきりしないとされてきましたが、この政変での伊藤の働きは、目ざましいものがありました。この政変の原動力がどこにあったにせよ、こうした展開になったのは、伊藤の態度しだいだったのです。

頭の切れる岩倉は、はじめ、この大隈の罷免にどうしても賛成しませんでした。証拠も何もないのに陰謀呼ばわりすることはできない、というのです。岩倉は、国会開設の問題についての大隈の意見や態度を、よく知っていたからです。

前の日までそう言ってがんばっていた岩倉が、十月七日に伊藤に会うと、がらりと態度を変えました。千住まで天皇をお迎えに行くと、その夜すぐに、嵐のような速さで大隈の処分をやってのけています。これを見れば、岩倉はまったく伊藤の意見で動かされたことが分かります。

伊藤にこれほどの決心をさせた原因はどこにあるのか。なぜ、長年の厚い友情を受けながら、大隈を追い出す先頭に立ったのか。福沢は伊藤のこの態度を、

「大隈の首を提(さ)げて、敵の軍門に降(くだ)つた」

と評していますが、この点、伊藤にはまったく弁解の言葉はないと思う、と底本は書いています。

開拓使の官有物払い下げ問題がもつれるにつれて、「薩長の横暴」という声が世の中に満ち、大隈の人望だけがひとり高まっていました。このままでは薩長の勢力は根もとからくつがえされ、大隈の時代になることは明らかでした。頭のよい伊藤は、この勢いを逆に利用して、大隈を自分の競争の場から葬り去り、あわせて薩長を守るために必死の力をふりしぼったのです。

伊藤のこのやり方は、第三の勢力が伸びてきたときの薩長の昔からのやり方で、彼らはこうして一つにまとまり、東北の諸藩を滅ぼし、江藤新平を処刑したのだ、と底本は書いています。岩倉にしても、薩長が重いか、大隈が重いかと伊藤に詰め寄られては、どうしても小さな虫を殺して大きな虫を生かす、ということにならざるをえなかったのでしょう。

けれども岩倉としても、罪のない大隈を処分したことは、よほど寝覚めが悪かったのでしょう。明治十六年七月、岩倉は息を引き取るとき、自分の子を大隈の屋敷へ使いにやって、来てくれるよう頼み、病床で大隈にわびを言って亡くなったといいます。

大隈が去ったあとの政府は、まったく薩長の政治家の独り舞台で、誰に遠慮する者もいなくなりました。明治二十年五月、勝安房(かつ あわ:勝海舟)の建白書には、こうあります。

「邦家(ほうか)の政権、近来にては旧薩長両藩人に非ざれば掌握難きが如く、衆人相心得、他は絶念の怨みに候」

(国の政権は、近ごろでは旧薩摩・長州の両藩の人でなければ握れないものだと、みなが思いこみ、ほかの者はあきらめて恨んでいる)

この恨みは、自由民権論者の骨の髄までしみこみました。これがいわゆる「官」と「民」の隔たり、政党と薩長の争いの原因となり、長く明治政府の災いのもととなったのです。

 

※注:十四年の政変については、今の研究でも、大隈に政府を倒そうとする陰謀があったとする証拠は見つかっておらず、伊藤博文や井上毅(いのうえ こわし)らが、急進的な大隈の憲法構想を退けるために動いた政変と見られています。底本も、大隈は「潔白だったかもしれない」と書いています。

 

政府を追われた大隈は、翌年、立憲改進党をつくり、板垣退助(いたがき たいすけ)の自由党とともに、政党の時代を切り開いていきます。次の回では、板垣が会津の戦場で考えたことから始まる「自由党と改進党」を読みます。

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている 菊池寛『大衆明治史 国民版』(汎洋社・1942年) を、現代の読者に向けて現代語に訳したものです。

原本は戦時中に書かれ、戦後にGHQ(連合国軍総司令部)の没収の対象となった本です。原本の記述は省かずに訳し、原本の誤りや言葉の意味・人物・年代には注を添えています。当時の見方は、そのままの形で伝えています。
文章はAIが原本を読んで作成しました。アイキャッチ画像は、記事ごとに画像の中に出どころを記しています。

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