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磯崎眠亀の生涯|「錦莞莚」を発明し世界に輸出した情熱の発明家

磯崎眠亀の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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まず小倉織物の改良

 

磯崎眠亀(いそざき みんき)は初めて機械製莚法(むしろを機械で織る方法)を発明し、日本の製莚(せいえん)工業に一紀元を画した人である。また花莚(はなむしろ:模様を織り込んだ美しい敷物)の海外輸出を試み、花莚を重要輸出品の一つとした基礎をつくったのも眠亀である。

眠亀は幼名を与三郎といい、のち家を継いで什三郎と改め、天保5年(1834年)、当時小倉織物で名高い備中(岡山)茶屋町に生まれた。大きくなってから小倉帯地(おくらおびじ)の製造を家業としていたが、糸質が粗大で織り方が粗雑な従来の小倉織に満足せず、文久3年(1863年)、初めて紡績糸が英国から輸入された時、即座にこれを使用し、帯地の改良を企てた。

その第一歩として、地方の撚糸工(ねんしこう)や紺屋(染物屋)の職人を説いて再撚(さいねん)・染色を託したが、単に従来の方法を固守するこれらの職人は少しも応用の才能がなく、糸質や撚り(より)方が日本の手紡糸と違っているのに閉口し、一人として眠亀の求めに応じる者がなかった。

眠亀はやむを得ず、自家に撚糸機械、藍甕(あいがめ)を装置し自ら撚糸・染色に当たったが、眠亀の天性の創案力によって、間もなく相当の出来ばえを見ることが出来た。この第一歩の成功に力を得て、さらに織り方の考案に歩を進め、最も精密な筬(おさ:織機の部品)を編成して織機に用いると、所期の好成績であって、この原料と織り方により製造したものは、品質が精巧で色沢(しょくたく)優美、一見博多織と見違えるほどであった。眠亀の機械製造の発明改良は、すでにこの時に閃(ひらめ)いたのだった。

 

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花莚製法の改良に砕心

 

明治5年、眠亀は家を嗣子(跡継ぎ)に譲り、全力を発明考案に委ねるようになった。社会に顧みられず、発明家の等しく辿りつく窮況(貧しい状態)に沈潜しながら、莚織機(むしろおりき)の改良に着手したのは、ようやく明治9年のことである。

当時、農民の副業にとどまっていた日本の藺莚(いぐさむしろ)業は、その製法が極めて幼稚であって、その編機(あみき)には樋(とひ)といって筬(おさ)と綾取りをかねた粗略な立機(たてばた)が一種あるきりだった。挿藺工(いぐさを差し込む係)と織工との二人を必要とするこの立機は非常に不便だった。

眠亀はまず改良を志し、筬と綾取りを各別に装置し、織工一人で藺莚を織る機械を案出したが、品質が粗悪な点では従来のものと大差なかった。眠亀は藺莚の織り方を根本的に革新する必要に駆られ、地質を緻密強靱にすると同時に、莚面の意匠を精巧優美にするために、莚織機の発明に主力を注ぎ、日夜研鑽(けんさん)を試みていた。

ある日、近村の浮田某が眠亀を訪れ、当代一流の意匠家として有名だった塩田真氏が、かつてセイロン島(現在のスリランカ)から持って帰った龍鬚(りゅうし)製の敷物を眠亀に見せた。製品の強靱なことと意匠の卓抜なことは、全く眠亀の考えていたものそのままと言ってよいほどだった。しかしその製法は土着の人間の手によるものであるから、価格は非常に高い。

眠亀は機械によって日本の藺莚でこの龍鬚莚を凌(しの)ぐ美術品を製造し、安価に多量に供給したいという考えをますます強くするようになった。数年の歳月を費やして研鑽を重ねた結果、ついに小織機を作ったが、試験の結果は非常に良好だった。しかし、いよいよ実地に応用し製造をするようになると、思いがけぬ大欠点を発見した。

それはこの機械によると、藺草(いぐさ)が寸断されてしまい、莚をなさなくなるのである。

しかしこの傷々しい考案は、全然徒労ではなかった。いや、この考案こそが眠亀の後日の成功の一段階を築いたのである。

前の考案で藺草が寸断されるのは、縦糸が非常に多数だからである。もともと藺草は伸縮の性質がないから、これを緻密に織り込むには、縦糸の数によって幾多の波状に屈曲する余裕を与えなければ、緯藺(よこいぐさ)の寸断はやむを得ない。

緯藺に余裕を与えることが第一であり、そして莚幅より広い織幅であらかじめ緯藺二条以上を組み、漸次に予定の莚幅に圧縮する一種独特の花莚織り方を案出し、これを遂行する方法として扇面形(せんめんがた)の筬(おさ)をつくり、その広がった部分で緯藺を挿し、その狭まった部分で織り込むことにした。果たして所期の好結果を挙げ、藺草を寸断しないで最も緻密な藺莚を織り出すことが出来たのである。

眠亀はこの有効な発明に勇気百倍し、続いて紋様挿織器を考案し、どんな紋様でも莚の表面・地質に異常を呈しないで簡単に織り出すことに成功した。さらに一歩を進めて、藺草染色法の改良に着手し、各種の染料について試験を遂げ、塩基性染料を使って藺草を煮沸する方法を発見した。眠亀の多年の宿望は、不断の研鑽によって、ここに有名な「錦莞莚(きんかんえん)」の製出を見るようになった。明治11年5月のことである。

 

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錦莞莚の海外輸出まで

 

ここにさらに一段の難関が横たわっていた。当時の日本の国情は、この斬新で優秀な製品を需要するまでに進んでいなかったが、販路を海外に求めることは、片田舎に起臥(きが)して発明考案に余念のなかった眠亀の企て及ばないものであった。眠亀は意を決し、彼の作った錦莞莚数枚を携えて神戸へゆき、外国商館を頼って輸出の道を拓こうとしたが、片田舎の産としては稀に傑出した花莚に目を留め、注目する者はなかった。

多年の辛苦は報われず、眠亀は途方に暮れ、涙を呑んで帰郷しなければならなかった。しかし彼が丹念に織り込んだ熱情と愛は決して無駄ではなかった。

当時、神戸の貿易商・浜田篤三郎は錦莞莚に見る所あり、試みに数枚の見本を求めて、これを英米の二国へ送った。果然、彼の地の趣向に適合し、たちまちその注文を受けるようになった。

篤三郎はさっそく眠亀に向かって製品の供給を交渉したが、長年の研究によって資財を蕩尽(とうじん:使い果たすこと)した眠亀は、わずかに三台の莚織機を擁するのみで、意外の反響を前に坐視しなければならなかった。花莚の前途に確信を得た篤三郎は、資金を貸与した。勇躍(ゆうやく)した眠亀はさらに三台の莚織機を増加し、ようやく海外の注文に応じることが出来た。これが日本の重要輸出の一つとなった花莚の海外輸出品のトップであった。

 

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特許法制定前の眠亀の苦心

 

錦莞莚の販路が海外に開かれ、その前途が有望になると、先に眠亀を狂人扱いした者たちも眠亀の発明を盗用しようとし、甚だしいのは深夜、門壁を越えて眠亀の邸内へ忍び入り、製織の状況を窺(うかが)おうとする者も出て来た。

同業の某は明治15、6年頃から、眠亀の錦莞莚を模造しようとし、ある日眠亀の門を叩いて錦莞莚の好評噴々であるのを賞賛し、甘言を弄し(ろうし)て彼の蓄えた屑絹(くずぎぬ:西陣織屋の使用屑)と眠亀の錦莞莚との交換を求めると、眠亀は虚心坦懐これを承諾したが、あとでこれは眠亀の発明を剽窃(ひょうせつ:盗み取る事)するためであることが分かった。

また近村の某も、間諜的人物(スパイ)を使って「錦莞莚の販売開発の見込みがある」と言い、見本として一枚を買い取り、この機会を利用して眠亀の工場を窺おうとしたこともあった。

片田舎の世知に長けた弄策(ろうさく)は眠亀を困惑させ、ようやく勝ち得た発明の栄誉を不正者流の手に剽窃されるのを防ごうとし、百方苦心の末、一案を思いつき、聾唖(ろうあ)者(耳や口が不自由な人)を使って製莚業に従事させることにした。

明治15年頃の世代は、のちの世のように素朴な発明家を保護してその才能を助長させるような社会的な法規もなかったので、眠亀の苦心は昭和の我々の想像を越えるものがあった。

明治18年になって専売特許条例の公布により、この法規実施の当日、直ちに錦莞莚並びに莚織機の専売特許を出願し、第二十三号、第二十四号をもってその特許を得た。その時、藺草染色法の特許出願も勧告した者があったが、眠亀は「藺草染色法は花莚業の生命であるから、一個人で独占するのはその発達を阻害する恐れがある」と言って応じなかった。

越えて明治19年、眠亀は事業拡張の目的のために錦莞莚専売特許権を佐藤某ほか一名に譲り、自ら岡山市二日市に工場を設け、家人をもって将来の発達に必要な技術者の養成に当たらせた。

また明治23年備中玉島に、25年岡山天瀬に、26年眠亀の故郷・茶屋町に、27年備前津高郡横井村、香川県高松市に、28年都宇郡中庄村にそれぞれ工場を設立した。織機の数はすべてで一千台に達し、産出額は十万円(現在の価値で数十億円規模か)に上ったのである。

こうした眠亀による花莚業の拡張は地方の同業者勃興を促し、競って花莚改良を企て、日本の花莚業は長足に進歩し、ついにその海外輸出総額六百万円(現在の感覚でいうと数千億円規模か)に達した時がある。

 

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眠亀の余生

 

しかるに明治29年になって、花莚業界に大恐慌が起こった。これは主として、アメリカにおける関税改正、すなわちマッキンレー(当時の関税法)の保護政策のために起こったものであり、全国の同業者はその救済策を立てるために神戸に会合を催した。

憂慮した眠亀は日頃抱懐(ほうかい)していた意見を岡山県花莚業組合へ陳情した。その要旨は「たとえ関税障壁があろうとも、粗製濫造(そせいらんぞう)によらず生産過剰がなければ十分恐慌を切り抜け得る。それゆえこれを防止するために官立の花莚検査所を設置し、同業者の団結を強固にし、商業道徳を向上せしめなければならぬ」ということであった。

しかし眠亀の必死の建議は用いられず、花莚の生産過剰はさらに拍車をかけるばかりであった。

明治30年10月、賞勲局より勅定(ちょくじょう:天皇の定め)の緑綬褒章を授けられたが、半生を託した花莚の不況を目前に眺めて、眠亀は満悦に浸りきれなかったであろう。

齢(よわい)ようやく加わった花莚の恩人・磯崎眠亀は、この年、全事業を実子・高三郎に譲った。眠亀の建議した官立花莚検査所が設立されたのは、それからまた8年後のことである。

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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