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石井十次の生涯|医書を焼き捨てて岡山孤児院を創設した人道の戦士

石井十次の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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人道の戦士

 

キリスト教(新教:プロテスタント)が日本に伝道されてからいまだ一世紀に満たないが、幾多の偉大なクリスチャンを生んだ。岡山孤児院の創設者・石井十次(いしい じゅうじ)は、実践的キリスト教――言葉は正確ではないが――すなわち社会事業の方面における、最も優れたクリスチャンの一人である。

明治20年(1887年)、岡山で「孤児教育会」を独立で設立してから、大正3年(1914年)に宮崎県茶臼原(ちゃうすばる)の岡山孤児院分院で亡くなるまでの二十有七年間、彼の全生命は「キリストの愛」の実践である孤児院事業に燃え尽きたのであった。それは、稀に見る博愛と至誠の生活であったと共に、文字通り先駆者としての苦難の生涯であった。偉大な「人道の戦士」としての彼の存在は、ひとりキリスト教界のみならず、日本の誇りでなければならない。

彼は、慶応元年(1865年)4月11日に、宮崎県の上江村(うわえむら)に生まれた。

幼い時から博愛心の深かったことは、国定教科書の六年生用修身書に収録されている逸話でも知られよう。そして偉人の背後にきっと賢母があるように、彼の母もまたその例に漏れなかった。彼の博愛心は、この母の奨励(しょうれい)と鞭撻(べんたつ)によって、いよいよその深さを加えて行ったのである。

明治15年(1882年)、岡山医学校に入学した18歳の彼は、医学の勉強にいそしむ傍ら、彼の周囲の人々のために全力をあげて尽くすことを忘れなかった。

彼を頼ってやって来た五人の友人たちの生活費と学費のためには、喜んで按摩(あんま)稼業さえやった。乞食のたむろする場所に朝飯を運ぶのを日課とし、また自ら進んで不幸な乞食女の息子を引き取って、肉親の弟のようにいたわり養った。それは、受動的な弱い性格のためではなくて、常に積極的な博愛心の発露だった。

これが彼の生涯の一大転機となったのであるが、熱烈な祈祷(祈り)によって確信を得ると、「千万人の反対があろうとも我行かん(※原文:千万人と雖も我行かん)」の意気で、一切の障害を越えて即座に実行に移し、目的を達せずにはおかないのが、彼の一生を通じての特色であったのである。

医学校の卒業論文を書いていた彼は、三人の孤児の世話をしていた。しかし下宿の一室では万事思うに任せないので、岡山市内の三友寺という寺に移って「孤児教育会」を設立した。それは明治20年9月22日のことであって、ここに日本は、23歳の医学生によって、初めて孤児院という社会施設の萌芽(はじまり)を見たのであった。

明治20年と言えば、大日本帝国憲法発布の二年前であり、国会開設の三年前であった。当時は、国会開設の詔勅煥発(明治14年)以来、天下はこぞって政治的興奮の中にあった。従って、日本で初めての、しかも極めて地味な孤児院事業などを顧みる者もなかった。それゆえ「いっそうこの事業を始めなければならぬ」と決意を固くした彼の熱意は、世の頼りない者に対する一途な博愛心の発露だったのである。

 

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医書を焼いて

 

常人の目から見たなら、白面(はくめん:若き)の一医学生のこの出発は、明らかに暴挙であった。そこには、いわゆる慎重な用意と言うべきものはなかった。あるものはただ満身の熱意と、彼の信ずる神の加護ばかりであった。

貧窮はたちまち彼の上にやって来た。さらに彼には一つの悩みがあった。それは、自分の使命が「医術にあるか、孤児教育にあるか」という問題であった。曖昧な態度を嫌う彼は、長い間苦しみ悶えたが、それに解決を与えたものは、

「人は二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を疎(うと)んじることになるからである」

というキリストの言葉であった。彼はこれによって、後者(孤児教育)を選ぶ決心を得た。そして、医師の免状を持つことは、今後絶えず付き纏(まと)う貧困と苦難に対処する上で、生活的に安易な道(医者への道)につこうとする誘惑となる恐れがあると考えた。そのため、すぐさま三友寺の庭に、六年間の勉学の結晶である医学書、ノート、および医療器具など一切を積んで、石油を注いで焼き払ったのである。

知人たちは卒業を目前に控えた彼のこの暴挙に驚いて、言葉を尽くして忠告したが、

「二つの道はとうてい兼ね行うことはできぬ。自分はキリストの命ずる所に従って一つの主に仕えるのだ。自分が医者になってもならなくても、日本全体から考えたら大した事ではない。しかし、いまだ哀れな子供たちを救う施設のない今日、自分がこの事業を始めるか否かは重大な問題だと信ずる」

と答えた。医学校の校長であった菅博士も、彼の志に感激して、彼のために出来る限りの援助を約束したのであった。

いよいよ彼は孤児院事業に全身を投じたのであるが、収容する孤児の数が増すにつれ、その経営は尋常一様の苦労ではなかった。

社会事業に対して無理解であり、社会事業家の社会的地位置について無知な世間に訴えて、寄付を仰ぐことは徒労に近かった。少数の方々の零細な寄付にも幾多の弊害があり、かつまた彼の好むところでもなかったので、意を決して「寄付による院の経営を排する」宣言を発して、労働自活の鉄則を立てた。それは彼の伝記の間にしばしば出くわす「暴挙」の一つであった。

たちまち極端な貧窮がやって来た。おまけにその矢先に、彼は当時各地に蔓延(まんえん)していたコレラに感染した。幸いに全快したが、かねてから病弱だった愛妻・品子夫人を喪(うしな)ったのである。さすがの彼も、

「大柱が折れ、全家まさに覆らんとする。そぞろに亡妻を想って悼む。ああ、余はいかにして可ならんか(私はどうすればいいのだろうか)」(日記より)

との言葉を吐いたのであった。

彼の身辺からはほとんど一切のものが金に換えられて、孤児の食物となった。彼は訪問者に対する時には、シャツと猿股(下着のズボン)一丁の上に、赤毛布をまとっているありさまだった。

 

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彼の抱負

 

明治24年(1891年)10月、美濃国(岐阜県)を襲った濃尾大地震は多くの不幸を生んだ。彼は97名の孤児のために名古屋に震災孤児院を設立したが、次第に事業の規模が大きくなるにつれて、彼の活動は目覚ましさを加えていった。

彼は孤児院事業を、単なる救済・慈善の事業とはせず「教育事業」として重く見ていたので、教師などの人材も多額の出費を顧みず、岡山県下の最も優秀な教師ばかりを招聘(しょうへい)するのに非常な苦心を払った。そして、院がどんなに経済的な苦境にあっても、この方面の出費には躊躇(ちゅうちょ)することはなかった。

「耳からでなく、眼から教育せよ」

これが、教育者としての彼のモットーであった。教師が自ら率先して実行することに教育の眼目を置いて、彼自らそれを忠実に実行した。

彼はまた、その事業の中心を絶えず「院児そのもの」に置くことを主張して、「孤児院は孤児のもので、孤児院のものではない」と言った。彼は、孤児院経営のために孤児を利用することを罪悪だとして、彼の孤児院では前後を通じて一回も孤児を行商(売り歩く販売形態のこと)に出したことがないのである。

彼が、明治27年に反対を押し切って宮崎県の茶臼原(ちゃうすばる)に分院を建てたのも、院児の健康と労働教育の実践に必要だと信じたからで、そのために被(こうむ)る経営上のあらゆる不利益などは全く眼中に無かったのである。

さらに、明治39年(1906年)の東北大飢饉に際して、彼は一時に八百余名の孤児を収容した。彼の熱心さに動かされるまでは、院の評議員会はこぞって強力に反対したが、一時は総院児が千二百数十名という多数に上ったというから、その反対も当然であっただろう。これもまた彼の「暴挙」の一つである。

またある時、多額の寄付をした篤志家(とくしか)があったので、彼は連れと共にその家を訪問した。連れの者は丁重を極めたお礼の言葉(謝辞)を述べたのであるが、彼は時候の挨拶をして、お礼は最後に極めて簡単に「どうも有難う御座いました」と一言述べたきりだった。帰途、彼は連れの者に言った。

「僕たちは生命を投げ出して事業に従事している。あの人たちは有り余る財産の中から若干の金を寄付される。その志は感謝至極だが、しかしそうむやみにお礼を言うには当たらない。――徳は先方が積むのだ。僕は、世の社会事業家があまりに無見識で、頭が低すぎるのを遺憾に思う」

彼の事業に対する抱負と信念は、実にかくの如きものであった。

こうした抱負と信念とは、彼が「人を相手とせず天を相手にする」所から生まれたものであったと言わなければならない。彼の幾多の「暴挙」も等しくここに源を発する。そして、その果断な実行と、たゆみのない勤勉・努力とが、孤児院事業の純粋性を保ち、それを大成させたのである。

持病の腎臓炎が重く、歩行困難に陥った時も、彼は手車(車椅子)に乗って茶臼原の開墾事業の指揮にあたり、後には人に支えられながらかろうじて身を起こしてそれを続けた。死が近いことを悟った時、彼は愛する孤児たち一人一人を病室に呼び寄せ、その長所を褒め、将来の鞭撻(べんたつ:励まし)を与えて別れを告げた。それがこの世における彼の最後の活動だったのである。

大正3年(1914年)1月30日。日本は、最も偉大な人道の戦士の一人を失ったのである。

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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