「老臣、病に伏して、すでに末期に臨む。われ今生に一つの望みあり。これを殿に伝えずしてむなしく終わらんこと残念なれば、今一度、殿のお目にかかりたし」
池田輝政(いけだ てるまさ)は、老臣・伊木清兵衛(いぎ せいべえ)からの手紙を読み終えると、すぐに立ち上がって馬の用意をさせました。やがて主従五、六騎は、砂ぼこりを高く上げながら、疾風のように城下町を駆け抜けていきます。
名君学の免許皆伝
輝政は馬を走らせながらも、手紙の文句を頭の中で何度もくり返しては、「愚か者め、なぜ早く清兵衛を見舞いに行かなかったのか」と、自分を叱っていました。清兵衛は、輝政の少年時代から、戦場でも城内でも、いつもそばで世話をやいてくれた老臣だったのです。
清兵衛の家に着くと、輝政は身内の者や見舞い客でごった返すなかを、ずかずかと老人の病室に通っていきました。
「老人!」
輝政は枕もとに突っ立ったまま、声をかけます。
「おお、殿か」
よごれたひげに埋まった老人の顔が、その瞬間、喜びに輝きました。
「おれは愚か者じゃ。もっと早く来るんじゃったのを」

輝政はがっくりと膝をついて、顔を老人の顔に近づけました。二人がまじまじと顔を見合わせると、二人の目にはしだいに涙があふれてきました。
「かたじけない。よく来てくれたのう」
清兵衛は涙のなかで、心から微笑みました。
戦国時代には、殿といい家臣といっても、ともに十数年、あるいは数十年もの長いあいだ、たがいに戦場で生き死にのあいだを助け合ってきたのですから、自然とその仲は兄弟よりも親しくなっていて、まったくざっくばらんの友だちづきあいでした。酒を飲めば、殿も家臣も大あぐらで車座になり、何の分けへだてもなく「お前」「おれ」で呼び合いながら放談する、という当時の武士の気風も、そこから生まれたものです。その後に見られるようなやかましい礼儀作法は、天下が統一されて平和がしだいに固まっていくにしたがって、きびしくなっていったものでした。
「老人、何なりと、望みどおりにしようぞ」
やがて輝政は、清兵衛にうなずきながら言いました。
「せがれのことなら、安心しておれにまかせてくれ」
けれども清兵衛は、首を横にふりました。
「せがれのことではないのじゃ。せがれめは、力量相応に殿のご用をつとめておれば、おれは満足じゃ」
そして清兵衛は、「今生に思い残すただ一つの望み」について語りはじめましたが、それは輝政にとって意外にも、輝政自身に関することでした。伊木清兵衛は、輝政に対して、次のような意味の重大な忠告をしたのです。
殿は生まれつき凝り性で、何事につけても掘り出し物でないと気に入らない。家臣を抱えるにも、一芸に達した者ばかりをあさって召し抱えているが、これはひじょうに悪い癖である。なぜなら、一芸に達した者たちはとかく自信が強いものだから、殿がどれほど彼らを優遇しても、彼らは必ず心の中で、自分の禄高(ろくだか:俸給)に不平を持たないということはないだろう。したがって、戦場でも十分に働こうとはしないだろう。だから、むしろ非凡とはいえないまでも、しっかりした者たちを粒をそろえて召し抱え、その者たちを思いきって、才能に見合う以上に十二分に優遇しておくことだ。そうすれば彼らも、いざ戦場に出たときには自分の才能以上に十二分に働いて、殿の恩を返すであろう、と。
老人が一言一言、涙とともにようやく語り終えると、輝政はその手を力強く握りました。
「かたじけない。よく言ってくれた。その言葉、輝政、必ず守るぞ」
「おう、それでおれも安心じゃ。もう何も思い残すことはない」
そして二人は、しばらく手を握り合ったまま、涙にくれていました。
輝政は若いころから名君の評判が高かったのですが、それは伊木清兵衛のような賢い人の忠告をよく用いたからでしょう。輝政は清兵衛から、その臨終の床で、いわば名君学の最後の奥義、免許皆伝を授けられたのです。輝政はもちろん、この忠告を忘れませんでした。だから、古今の名君としての名は、ますます広まっていったのです。

大諸侯となるまで
池田輝政は、永禄七年(1564年)、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の清洲(きよす)に生まれました。父の紀伊守信輝(きいのかみ のぶてる:池田恒興)は、織田家の家中で武勇の誉れ高い大将でした。そのころは室町幕府の末期、足利義輝(あしかが よしてる)将軍の時代にあたります。都に将軍がいるとは名ばかりで、全国の大名はそれぞれの居城に割拠し、隣どうしで食い合って、ほとんど休まる日のない時勢でした。
だから輝政は、少年時代から父に従って戦場を駆け回っていました。戦いにきたえられながら成長したので、長じては父にもまさる戦上手の名将となったのです。

信長が倒れたあと、信輝・輝政の父子は秀吉に従いました。まもなく秀吉と家康のあいだに争いが起こったとき、信輝は秀吉方の大将として家康と戦い、長久手(ながくて)で討ち死にしました。輝政はその後の功により、秀吉から三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の吉田城(よしだじょう:現在の豊橋市)と十五万二千石を与えられ、ここで初めて一本立ちの大名となりました。
けれども秀吉が亡くなったあとの慶長五年(1600年)、関東の家康と大坂方のあいだに争いが起こったときには、輝政は家康の味方につきました。それは、文禄三年(1594年)に家康の次女・督姫(とくひめ)と結婚していたので家康が義理の父にあたること、一方、秀吉はもとは輝政の同僚として、ともに織田家に仕えていた人であること、などを考え合わせれば、うなずけることです。輝政はそのとき東軍の先鋒となって、いち早く岐阜城を占領しました。これが、あの天下分け目の関ヶ原の戦いで東軍に大勝利を得させた、重要な条件の一つになったのです。それで輝政は家康から播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)五十二万石の領地を与えられ、国じゅうでも指折りの大諸侯となりました。
さて、家康がなぜ輝政に自分の娘を与えたかというと、輝政のように戦いに熟達した名将を敵に回すか味方にするかは、家康にとっても大きな問題だったからです。
輝政は大諸侯の列に加わってからも、城内での暮らしぶりは、三河の田舎武士だった昔と少しも変わりませんでした。諸侯としては、ひじょうに簡素な暮らしです。輝政ほどの大諸侯になると、こうした節約で生まれる余りのお金もまた莫大な額になります。輝政はそれによって、領地の大きさからいえばとても養いきれないほど多くの武士を抱えていました。しかも、ほかの領地にくらべて輝政に抱えられた武士たちはたいへん優遇され、その暮らしも豊かでしたし、農民たちにもたいへんよい政治がしかれていました。家康が輝政を恐れたのは、まさにその点だったのです。

名君行状記
輝政の家臣・土肥周防(どい すおう)は、世に知られた武功の者で、輝政は彼に五千石の高い禄を与えていました。ある夜、周防が播磨の印南野(いなみの)を通っていたとき、何者とも知れない者が茂り合った松のかげから走り出て、周防の左の股(もも)を斬って逃げ去りました。従者が駆けつけて曲者を追いましたが、なにしろ闇夜で、しかも広い野原でしたから、とうとう見失ってしまいます。周防は、馬が驚いて棒立ちになった瞬間に振り落とされ、足が立たずに従者に助け起こされました。とても馬には乗れないので、駕籠(かご)で姫路に帰ってきたのです。
すると、これが家中の評判となり、武者たちの嘲笑の種になりました。このことがついに輝政の耳に入ると、輝政は夜詰(よづめ:夜の勤め)のついでに近臣たちに向かって、このことをどう思うかと問い、隠さずに意見を述べるよう求めたのです。近臣たちは口々に、周防には武士としての覚悟が足りなかった、と攻撃しました。
「もっともじゃが、」
と、それを聞いた輝政はうなずき、自分の意見を述べました。
自分はみなとは反対に、今度のことがあってから、周防をますます重んじるようになった。なぜなら、敵は闇にまぎれて周防の通るのを待ちかまえ、一刀斬った。しかも二刀とは斬らずに逃げ去ったではないか。それは周防を深く恐れていたからで、このことから考えても、周防の武勇がどれほどすぐれているかが分かる。彼はその威力で、敵を完全に圧していたと言えるではないか。それに、馬がはねれば落馬するのは当然だ。暗い夜なら敵を見失うのも当然だし、股に傷を負えば駕籠で帰るのも当然のことだ。だから、周防をののしる者は、まだほんとうの武士道を知らない者と言えよう、と。
この輝政の意見を聞いてからは、周防をののしることはやんでしまいました。輝政の大きな人格への尊敬と、その厚意への感謝が周防の骨身に徹したというのも、無理はありません。
輝政はこのような名君でしたから、家康はますます輝政を重く見て、年々領地を加え、慶長十八年(1613年)、輝政が五十歳で姫路城に亡くなったときには、一族で播磨・備前(びぜん:現在の岡山県南東部)・淡路(あわじ)三国、八十九万石の大領主になっていました。明治になってから、従二位(じゅにい)を贈られています。


