有栖川宮の家臣となる
徳川幕府の基礎がようやく固まり始めていた寛政11年(1799年)のこと。周防国(現在の山口県)徳山藩主・毛利日向守(もうり ひゅうがのかみ)の家臣であった生田十蔵の家に一人の男児が生まれた。後日、「勤王史家」として名を上げた飯田忠彦(いいだ ただひこ)がその人である。
大事業を成す者は、生まれつき(天性)非凡な性格を与えられるものらしい。忠彦の幼い時もまた、他の普通の子供とは違ったところがあった。彼は何よりも菅原道真(菅公)の肖像画が好きであった。どんなに泣き叫んでいる時でも、ひとたびその乳母が菅公の像を紙に描いて見せると、ぴたりと泣き止んだという。五、六歳になっては自分で菅公の像を描き、文字を写すこともできるようになり、また七、八歳の頃には好んで大名や武士の系図などを記した「武鑑(ぶかん)」を暗唱したとのことである。故郷の人々はその並外れた才能(偉才)に驚き、「末恐ろしい子供だ」と噂し合っていた。
文化7年(1810年)、13歳の時から藩校に入って学問を修め、文化12年(1815年)、18歳の時に主君の命令によって江戸屋敷に勤務することとなった。ところが、当時の忠彦は身体が虚弱で、薬の効き目もはかばかしくなく、誠に困り果てていた。親戚縁者はこれを心配して、江戸勤めの延期を申し出る者もあった。けれども忠彦はきっぱりと、そうした心配は無用なものであるとして退けるのであった。彼はこう言った。
「かりにも武士たる者は、戦場において討ち死にするのをもって、至上の名誉とする。しかし今日、太平の世の中にあっては、そのようなことは到底望むことはできない。それゆえに虚弱の身をもって今回江戸勤めを命じられ、たとえ赴任の途中、または江戸において病死することがあろうとも、それは戦乱の世において戦場で討ち死にすることと何ら違いはないのである。そうであれば、自分にとっては至上の光栄であるから、持病を押してでも江戸へ赴任する」
こうなっては誰も引き留めることはできない。そして彼は無事に江戸へ着任した。江戸に滞在中は名医の診察を受け、また武術の鍛錬に励んだので、大いに健康を取り戻した。藩主は忠彦の文武の才能を格別に愛し、抜擢(ばってき)されて側近となった。太平の世における異例の抜擢は、往々にして同輩の嫉妬を買いやすいものである。彼の異例な出世もその例に漏れなかった。彼は周りから疎(うと)まれ、文政2年(1819年)、21歳で勤務を辞め、故郷を立ち去って京や大坂などの地方(京阪地方)に住んだ。
恐らく忠彦が、歴史を編纂する(修史の)志を立てたのはこの時期であろう。その後、彼は河内国(大阪府)の郷士・飯田謙介の知るところとなり、そこの養嗣子(跡継ぎ)となった。この養子は、二階に閉じこもって読書に余念がなかったため、人々は忠彦を呼ぶのに『二階先生』というあだ名を使ったほどである。この飯田家に出入りしていた和木某の紹介によって、飯田忠彦は有栖川宮家(ありすがわのみやけ)の家臣となった。天下の風雲が次第に険しくなっていた時代である。賢明な士はこのようにして直ちに見出されたのであろう。当時、飯田忠彦は37歳の働き盛りであった。

「野史」の独力編纂刊行
だが、飯田忠彦の真価(面目)は、彼が執筆した『野史(やし)』全291巻に込められた「勤王史家」としての業績にある。彼は文化12年、18歳の時に初めて『大日本史』を読み、大いに心を動かされ奮い立つところがあった。『大日本史』は水戸藩の徳川光圀(とくがわ みつくに:水戸黄門)によって編纂され、明治維新の「尊王(勤王)思想」を巻き起こす源泉となった名著である。しかし、同史の「本紀(ほんぎ:天皇の記録)」は神武天皇から後小松天皇に至るまで、「列伝(武将などの記録)」は足利義満までしか載せられていない。
これは何としても非常に残念なことである。「自分は必ずこの『続史』を編纂(へんさん)しよう」――こう決心した彼が、その後三十有余年にわたって書き続けたのが、すなわち『野史』と銘打った飯田忠彦の近代国史である。
徳川光圀は将軍の親戚(親藩)であり、三十五万石の大名として強大な勢力を持ち、歴史編纂のために「彰考館(しょうこうかん)」を設立して学者を集め、さらに明の儒学者・朱舜水(しゅ しゅんすい)の援助を得てこの事業に従事したが、それでもなお苦労と忍耐の絶えない事業であった。それなのに飯田忠彦は、独力でこの続編を完成させようと念願したのである。
身分と時代の違いは、その困難を何十倍にも増やしたことであろう。しかも彼は貧困に耐え、その全生涯をかけてこれを完成させた。友人の助力もあったのはもちろんであるが、当時、忠彦の主君であった有栖川宮中務卿韶仁親王(ありすがわのみや なかつかさきょう つなひとしんのう)およびその皇子の宮であられた上総太守幟仁親王(かずさのたいしゅ たかひとしんのう)のご恩恵が、莫大な助力であったことは言うまでもない。
忠彦はたびたび江戸へ行ったが、文政6年(1823年)にまた江戸へ上った(上府した)。これは高野山の依頼を受けて行ったのだと言われているが、用事が済んでもなかなか帰国しなかった。湯島の聖堂(昌平坂学問所)に入って勉学したかったからである。しかし資金が乏しかったので方法を変え、上野寛永寺の学寮に入って「寺侍」となった。こうして学寮から数々の貴重な書物を借用して、目的を達成しようとしたのである。同寺の住職は忠彦の並々ならぬ学識を見て、ついに聖堂で学ばせたほどである。
その後、文政14年から嘉永元年(1848年)に上洛(京都へ行くこと)するまでは、ほとんど江戸に滞在していた。この間、彼はまたしても上野東叡寺(寛永寺)の学寮に入り、「竹林三介」と名前を変えて(変名して)、ひたすら『野史』の編纂に従事した。これを成し遂げること以外に他の考えはなかった。この間に、仏教の経典(仏典)の印刷に使用された木版を利用して自分の原稿本を十冊ほど刊行し、最初の印刷本は恐れ多くも仁孝天皇に献上し奉ったのである。続いて三十冊ほど印刷発行し、いよいよ本格的な事業に入ってきた。
こうして試験的に印刷した『野史』が出版されると、諸大名は争ってこれを買い求めたが、未だ著者が誰であるかは知られていなかった。たまたま、久貝因幡守(くがい いなばのかみ)が初めて忠彦の居場所を探し当て、当時の江戸町奉行・水野出羽守を介してその全冊を心から望んできた。
そこではじめて忠彦が偉大なる歴史家であることが判明し、その居場所を訪ねて書き写し(謄写:とうしゃ)、または読むことを乞う者が多くなった。中でも、薩摩・長州・尾張・水戸の諸藩では人を派遣して彼の原稿本全部を書き写させたほどであった。
本来、飯田忠彦は、自分の心血を注いだこの『野史』が完成したならば、これを天皇の御覧に供したい(天覧に供したい)というのが最大の希望であった。今やほぼ完成に近づきつつあるので、忠彦はこの希望を、彼が臣下として仕えている有栖川宮韶仁親王に申し出た。親王は早速これに対する意見を、関白・鷹司政通(たかつかさ まさみち)に尋ねられた。政通はこれを権大納言・東坊城聡長(ひがしぼうじょう あきなが)にただした。しかし聡長は同意しなかった。彼は「『野史』の『史』の字は国法を犯しており、また最近百年以来の歴史的事実を記載するのは穏当でない」として退けた。
これを聞いた忠彦はがっかりして言った。
「中井竹山は『逸史』を、頼山陽は『日本外史』を著し、共に『史』の字を使用しており、また六国史(日本の古代の六つの正史)はみなその最近の史実までを記載しているではないか。しかしどれ一つとして法を犯したという事を聞かない。関白はまだ『国史』を読んだことがないのだろうか」
そして彼は失望したあげく、その草稿を焼き捨てようとしたが、知人である能登介・藤原光遠がこれを聞いてその短絡的な考えを戒め、ようやく思いとどまったのである。
嘉永2年(1849年)3月、彼は旧友の生田森衛に書き送っている。
「執筆の暇がなく、ひたすら著述の書き写しに取りかかり、勤務の暇には執筆のみ。昨年の秋八月以来今日に至るまで、早朝より夜中(丑の刻前)までは執筆のみに時間を費やしており、世間の人から見ては狂人と見える由、そのくらいに精魂を傾け……云々」
これによって、その苦心のほどがうかがわれるであろう。

災禍に堪えて
安政5年(1858年)の12月であった。寒さの厳しい京都の冬である。有栖川宮家邸の門口から黒い人影が流れ出た。それは京都町奉行・滝川播磨守(たきがわ はりまのかみ)の捕り方に導かれていた。その路を奉行所へと護送されていくのは、有栖川宮家の家臣である飯田忠彦、並びに彼と親交のあった豊島泰盛(としま やすもり)らの姿であった。
「尊王攘夷」の世論は、まさに幕府の権威を突き落とそうとしている。幕府の独裁(専横)は、憎しみの国論に変わりつつあった時代である。沸騰した世論は、折から開国を迫っていた海外列国の脅威と結びつき、まさに討幕の一大政治行動に転じようとしていた。徳川幕府を守ろうとする者は慌てふためいた。
こうして、時の大老・井伊直弼は「言論封鎖」の弾圧を決行して、世論を押し潰そうとした。勤王の志を持つ者は次々に投獄された。開国に傾いた幕府の方針に反対する者は残らず捕らえられた。いわゆる「安政の大獄」が引き起こされたのである。豊島泰盛もこれに関係ある者と見られていた時であるから、ついに京都町奉行の手が伸びた。そしてこの勤王史家を逮捕したのである。
しかし忠彦の嫌疑は安政7年(1860年。※万延元年)に晴れて、再び自由の身になったが、彼は高齢(老年)を理由に隠居を願い出た。それが許されて京都の浄蓮華院に籠もろうとした。そこへ今度は「桜田門外の変」が勃発したのである。これは安政の大獄における井伊大老への激しい怒り(憤激)が、ついに国を憂う志士たちの心を爆発させたのであった。万延元年(1860年)3月3日の桜田門外には血染めの雪が踏みにじられ、水戸の浪士たちによって井伊大老は討ち取られた。
けれども、たった一人の政府高官(大官)が暗殺されただけで、それで天下が一変するものでもないのである。暗殺した浪士一味は追及され、再び幕府の疑惑は飯田忠彦の身辺にも注がれるに至った。かねてから彼が勤王の志士と交遊していたことを探知していたからである。
伏見奉行所における忠彦は、議論において筋道が正しく、意気盛んなものであった。もともと確たる証拠もないのであるから、彼は最寄りの宿屋に「宿預け(自宅謹慎のような処分)」の身となった。しかしその月の22日、午後6時頃(暮れ六ツ頃)、彼はやり場のない怒り(憤懣:ふんまん)と主家への迷惑を考え、喉を突いて自殺した。その時、年齢は63歳(1861年)である。
彼の一生をかけた大著述(畢生の大著)であった『野史』は、有栖川宮家の「御蔵版」として刊行されることになっていたが、のちに国家の歴史編纂のために国へ献納されることになった。その後、明治24年(1891年)に生前の功績が称えられて(追賞されて)従四位が贈られ、さらに同25年には靖国神社に合祀(ごうし)された。


