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飯田忠彦の生涯|大日本史の続きを独力で編纂した勤王の歴史家

飯田忠彦の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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書き上げるまでに、三十年あまりかかりました。

徳川光圀(とくがわ みつくに)の『大日本史』が筆を止めた後小松天皇の代から先を、たった一人で書き継いだ二百九十一巻。それをようやく完成に近づけた男は、ただ一つの望みを主君の有栖川宮(ありすがわのみや)に申し出ました。この書を、天皇にご覧いただきたい——。

宮は関白の鷹司政通(たかつかさ まさみち)に意見を求め、政通は権大納言の東坊城聡長(ひがしぼうじょう ときなが)にただしました。返ってきた答えは、否でした。「野史」の「史」の字は法に触れる。しかも最近百年の出来事まで書くのは穏当でない、というのです。

男は落胆して言いました。

「中井竹山(なかい ちくざん)は『逸史』を、頼山陽(らい さんよう)は『外史』を著し、ともに『史』の字を使っている。六国史(りっこくし:奈良・平安時代に朝廷が編んだ六つの正史)はみな、その時代の直近の出来事まで書いているではないか。どれ一つ、禁を犯したとは聞かない。関白は、まだ国史を読んだことがないのか」

失望のあまり、彼は三十年の草稿を焼き捨てようとしました。

その人の名は、飯田忠彦(いいだ ただひこ)。周防(すおう)徳山の藩士の子に生まれ、有栖川宮家に仕え、安政の大獄に巻き込まれながら、生涯を一つの歴史書に注いだ人でした。

 

※注:この記事は昭和十一年(一九三六年)刊行の『日本英雄伝』を現代語に訳したものです。底本は忠彦を「勤王史家」と呼び、幕末の尊王思想の立場から書かれています。当時の書き方をそのまま訳したうえで、現在の見方が異なる点には注を添えました。記事の終わりには、彼が自ら命を絶った場面が含まれます。事実のみを記しました。

 

有栖川宮の家臣となる

 

徳川幕府の土台がようやく揺らぎ始めていた寛政十年(一七九九年)のことです。周防国(今の山口県)徳山藩主・毛利日向守(もうり ひゅうがのかみ)の家臣・生田十蔵(いくた じゅうぞう)の二男として、一人の麒麟児(きりんじ:将来を嘱望される秀才)が生まれました。のちに勤王史家として名を挙げる飯田忠彦です。

 

※注:寛政十年は西暦一七九八年にあたりますが、忠彦の誕生は寛政十年十二月二十六日で、西暦では一七九九年一月三十一日になります。底本の年号と西暦はどちらも正しく、この記事ではそのまま記しました。

 

大きな仕事をする人は、生まれつき人と違うところがあるものです。忠彦の幼いころも、ふつうの子とは違っていました。何よりも菅公(かんこう:菅原道真)の像が好きで、どんなに泣き叫んでいるときでも、乳母が菅公の像を紙に描いて見せると、ぴたりと泣きやんだといいます。五、六歳になると自分で菅公の像を描き、文字を写すこともできるようになりました。七、八歳のころには、好んで武鑑(ぶかん:大名や旗本の名前・家系を記した名簿)を暗誦したそうです。郷里の人々はその才能に驚き、末恐ろしい子だと噂し合いました。

文化七年(一八一〇年)、十三歳で藩校に入って学び、文化十二年、十八歳のとき、藩主の命で江戸屋敷に勤めることになりました。

ところが当時の忠彦は体が弱く、薬もあまり効かず、困っていました。親類のなかには心配して、江戸詰めの延期を願い出る者もいます。けれども忠彦は、そんな心配は無用だと、きっぱり退けました。

「いやしくも武士たる者は、戦場で討ち死にすることを最高の名誉とする。しかし今日のような太平の御代に生まれ合わせては、そのようなことは望めない。だから虚弱の身でこのたび江戸詰めを命じられ、たとえ赴任の途中、あるいは江戸で病死することがあっても、それは戦乱の世に戦場で討ち死にすることと、何ら変わりがない。そうであれば、自分にとっては最高の光栄なのだから、持病を押してでも江戸に赴任する」

こうなると、誰も止められません。そして無事に江戸に着きました。江戸では良い医者にかかり、武術の鍛錬にも励んだので、体はすっかり丈夫になります。藩主は忠彦の文武をことのほか愛し、抜擢して近習(きんじゅう:主君のそば近くに仕える役)にしました。

 

飯田忠彦の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

しかし太平の世の抜擢は、とかく同僚の嫉妬を買います。忠彦の異例の出世も例外ではありませんでした。讒言(ざんげん:人をおとしいれる悪口)にあい、文政二年(一八一九年)、二十一歳で勤めを退き、郷里を去って、もっぱら京都・大坂に住むことになります。忠彦が歴史書を編もうと志を立てたのは、おそらくこのころでしょう。

その後、河内(かわち:現在の大阪府東部)の郷士(ごうし:農村に住む武士身分の人)・飯田謙介(いいだ けんすけ)に見込まれ、その養嗣子(ようしし:跡取りの養子)になりました。この養子は二階に閉じこもって本ばかり読んでいたので、飯田家に出入りする人々は「二階先生」というあだ名で呼んだほどです。

やがて和木某(わき なにがし)という人の紹介で、忠彦は有栖川宮家の家臣となりました。天下の雲行きが険しくなり始めた時代です。賢い人は、こうしてすぐに見いだされるものなのでしょう。三十七歳、働き盛りでした。

 

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『野史』の独力編纂刊行

 

しかし飯田忠彦の真骨頂は、自ら編んだ『野史(やし)』二百九十一巻に込められた、勤王史家としての姿にあります。

文化十二年、十六歳のとき、彼は初めて『大日本史』を読み、大いに奮い立ちました。『大日本史』は水戸の徳川光圀が編み、維新の勤王思想を巻き起こす源となった名著です。ところがこの書の本紀(ほんぎ:天皇ごとの記録)は神武天皇から後小松天皇までで終わり、列伝の武将は足利義満(あしかが よしみつ)までしか載っていません。これは何としても残念だ。自分は必ずこの「続き」を編もう——そう決心して、それから三十年あまり書き続けたのが、『野史』と名づけた飯田忠彦の近代国史です。

 

※注:底本は『大日本史』を読んだ年齢を「十六歳」としていますが、前の章では同じ文化十二年を「十八歳」としており、底本の内部で食い違っています。寛政十年生まれなら、文化十二年は数えで十八歳です。

 

ここで考えてみてください。徳川光圀は将軍家の親藩で、三十五万石の大名として強い力を持っていました。歴史編纂のために彰考館(しょうこうかん)を開いて学者を集め、朱舜水(しゅ しゅんすい:明から亡命した儒学者)の助けも得て、この事業にあたったのです。それでもなお、苦労と忍耐の絶えない仕事でした。ところが飯田忠彦は、その続編を独力で完成させようとしたのです。身分と時代の違いは、その困難を何十倍にもしたことでしょう。しかも彼は困窮に耐え、全生涯をかけて、これをやり遂げました。

もちろん友人の助けもありました。けれども、主君の有栖川宮中務卿(なかつかさきょう)韶仁(つなひと)親王と、その子である上総大守(かずさたいしゅ)幟仁(たかひと)親王の寵任(ちょうにん:信頼して重く用いること)が、何よりの支えだったことは言うまでもありません。

忠彦はたびたび江戸へ出ました。文政六年(一八二三年)にも江戸へ上ります。高野山の依頼を受けてのことだったといわれますが、用事が済んでもなかなか帰りません。湯島の聖堂か昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ:幕府の学問所)で勉強したかったからです。しかし資力が乏しいので方針を変え、上野寛永寺の学寮に入って寺侍(てらざむらい:寺に仕える武士)となりました。そして学寮からさまざまな参考書を借り、目的に向かって進んだのです。寺の住職は忠彦のなみなみならぬ学識を見て、ついに聖堂で学ばせたほどでした。

 

 

のちに文政十四年から嘉永元年(一八四八年)に上洛するまでは、ほとんど江戸にいました。この間、彼はまた上野東叡山(とうえいざん:寛永寺)の学寮に入り、竹林三介(たけばやし さんすけ)と名を変えて、ひたすら『野史』の編纂に打ち込みます。これを成し遂げること以外、頭にはなかったのです。

 

※注:底本は「文政十四年」と印刷していますが、文政は十三年までで、この年は存在しません(天保二年=一八三一年にあたります)。底本の誤りとみられます。

 

このあいだに、仏典の印刷に使われた木版を利用して自分の原稿十冊を刊行し、最初の印本は畏れ多くも仁孝(にんこう)天皇に献上しました。続いて三十冊ほどを印刷し、いよいよ本格的な事業に入ります。こうして試しに印刷した『野史』が出回ると、諸大名は争って買い求めました。しかし著者が誰かは、まだ知られていません。

たまたま久貝因幡守(くがい いなばのかみ)が初めて忠彦の所在を探し当て、時の江戸町奉行・水野遠江守(みずの とおとうみのかみ)を通じて、全冊を強く望んできました。ここで初めて忠彦が偉大な史家であることが分かり、その住まいを訪ねて書き写す者、閲覧を頼む者が増えていきます。なかでも薩摩・長州・尾張・水戸の諸藩は、人を送って原稿を全部書き写させたほどでした。

もともと忠彦の最大の望みは、心血を注いだ『野史』が完成したら、天皇にご覧いただくことでした。いまや完成に近づいたので、その望みを主君の有栖川宮韶仁親王に申し出たのです。

それからのことは、冒頭に記したとおりです。親王は関白の鷹司政通に意見を求め、政通は権大納言の東坊城聡長にただしました。聡長は同意しません。「野史」の「史」の字は法を犯している、最近百年来の史実を記すのは穏当でない、というのが理由でした。

これを聞いた忠彦は落胆し、「関白はまだ国史を読んだことがないのか」と言い放って、失望のあまり草稿を焼き捨てようとしました。知友の能登介(のとのすけ)藤原光遠(ふじわらの みつとお)がこれを聞いて、その短慮をいさめ、ようやく思いとどまったのです。

嘉永二年(一八四九年)三月、彼は甥の生田森衛(いくた もりえ)にこう書き送っています。要旨は次のとおりです。

——執筆の暇がなく、ひたすら著述の書き写しに取りかかり、勤務の暇には執筆のみ。昨秋八月以来今日に至るまで、早朝から夜の丑(うし)の刻(午前二時頃)の前まで執筆だけで日を送っている。世間の人から見れば狂人と見えるそうだが、それほどに精を込めている——。

その苦心のほどが、これでうかがえるでしょう。

 

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災禍に堪えて

 

安政五年(一八五八年)十二月。寒さの厳しい京都の冬です。有栖川宮家の邸の門から、黒い人影が流れ出ました。道は京都町奉行・小笠原長門守(おがさわら ながとのかみ)の役宅へ続いています。奉行所へ護送されていくのは、有栖川宮家の家臣・飯田忠彦と、彼と親しかった豊島泰盛(としま やすもり)らでした。

では、なぜ史家が捕らえられたのでしょうか。当時、勤王攘夷(きんのうじょうい:天皇を尊び、外国勢力を退けようとする考え)の世論は、まさに幕府の権威を突き落とそうとしていました。幕府の専横は、憎しみの国論に変わりつつあった。沸き立つ世論は、折から開国を迫る列国の脅威と結びついて、討幕という大きな政治行動に転じようとしていました。徳川幕府を守ろうとする者は、あわてふためきます。こうして時の大老・井伊直弼(いい なおすけ)は、言論を封じる弾圧に踏み切り、世論を押しつぶそうとしました。勤王の志を持つ者は次々に投獄され、開国に傾いた幕府の方針に反対する者は残らず捕らえられます。いわゆる安政の大獄です。

そして、この勤王史家にも京都町奉行の手が伸びました。忠彦も泰盛も、大獄に関係のある者と見られていたからです。

しかし忠彦の嫌疑は安政七年(一八六〇年)に晴れ、ふたたび自由の身になりました。彼は老年を理由に隠居を願い出て許され、京都の浄蓮華院(じょうれんげいん)にこもろうとします。そこへ今度は、桜田門の変が起こったのです。安政の大獄への憤りが、ついに志士たちの心を爆発させた事件でした。万延元年(一八六〇年)三月三日、桜田門の外では血に染まった雪が踏みにじられ、水戸の浪士たちによって井伊大老は討ち取られました。

けれども、たった一人の大官が暗殺されたからといって、天下が一変するわけではありません。暗殺した浪士の一味は追及され、幕府の疑いの目は、ふたたび飯田忠彦にも向けられました。彼がかねて勤王の志士と交わっていたことを、幕府は探り知っていたからです。

伏見奉行所での忠彦は、議論は厳正、意気軒昂(いきけんこう:意気込みが盛んなさま)でした。もともと確かな証拠もなかったので、近くの宿屋に身柄を預けられ、取り調べを待つ身となります。しかしその月の二十二日、暮れ六つ(午後六時頃)のころ、彼は憤りと、主家にかかる迷惑とを思い、咽喉(のど)をついて自ら命を絶ちました。六十三歳(一八六一年)でした。

 

※注:桜田門外の変は万延元年三月三日、忠彦の死は同年五月二十二日で、西暦では一八六〇年です。底本の「一八六一」は誤りとみられます。年齢も寛政十年生まれなら数えで六十二歳になります。

 

生涯をかけた大著『野史』は、有栖川宮家の御蔵版(おくらばん:宮家が版木を所有して刊行する書物)として刊行されることになっていましたが、その後、国史編纂のために国家へ献納されました。明治二十四年(一八九一年)に追賞されて従四位を贈られ、二十五年には靖国神社に合祀されています。

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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