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雨森芳洲の生涯|天才儒学者で誠信の外交官

『雨森芳洲』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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医業を擲つ(なげうつ)

 

彼の生まれは近江国(現在の滋賀県)で、半農半士(半分農民で半分武士)の家柄でした。1668年(寛文8年)に生まれ、数え年で15歳の頃のことです。性質は極めて温厚で、かなりの勉強家で見込みもありそうだったため、「ぜひ医業を見習わせたい」という話が持ち上がりました。

1682年(天和2年)の春、名古屋に住む高森という医者が、近所の囲碁仲間からこの依頼を受けました。ちょうど医者も見習いが欲しいと思っていたため、即座に承知しました。その囲碁仲間の甥である「東五郎(とうごろう)」という少年が彼のもとにやってきました。

聞いていた通り、東五郎は大変な勉強家で、暇さえあれば黙々と本を読んでいました。物覚えの良さは驚くほどで、気が利いて礼儀も正しく、何より性格が穏やかで給料も安く済みます。医者は「いい小僧が見つかった」と喜んでいるうちに、早くも一年が過ぎました。その頃には、東五郎は単なる見習いではなく、診断でも薬の調合でも「出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ:弟子が師匠を超えること)」と言われるほど立派な「代診(だいしん:医者の代わり)」へと成長していました。

ところがある日、東五郎は突然「お暇(いとま)をいただきたい」と申し出たのです。

医者と叔父は「給料が少ないからか?」と尋ねましたが、そうではありません。「医者になる志がなくなった」と言うのです。二人は「そんな薄弱な意志でどうする!」ともっともらしい説教をしましたが、相手が彼なのでどうも格好がつきません。

「私は軽々しく考えを変えたのではありません。二ヶ月間、十分に考えた上でのことです」と東五郎は静かに答えました。

「いつだったか、お二人が座敷で囲碁を打っていた時のことです。先生が『学問を学ぶには紙を存分に使い捨て、医術を学ぶには人間を存分に使い捨てにしなければ一人前にはなれないと言うが、全くその通りだ』とおっしゃり、叔父さんも『ごもっともです』と相槌を打っておられました。

私はそれを聞いて『なるほど』と納得したのですが、自分が一人前になるために『人間を存分に使い捨てる』というのは、私の性分には合いません。ですから、紙を使い捨てる『学問』の方に志を変えたのです。どうかお暇をいただきますようお願いします」

これを聞いて、二人は一言も言い返すことができませんでした。

東五郎はこうして医者の家を辞め、日頃から尊敬していた大学者・木下順庵(きのした じゅんあん)の塾に入りたいという希望を胸に、名古屋を後にして江戸へと向かいました。

この東五郎こそ、のちに「芳洲(ほうしゅう)」と号し、木下順庵の門下生の中でトップクラスの秀才として、日本を代表する儒学者となる「雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)」の少年時代の姿だったのです。

 

雨森芳洲

対馬侯に仕えるまで

 

医業をスッパリと辞めた翌年、17歳の時に芳洲は念願叶って木下順庵の門下に入ることができました。

彼は「一を聞いて十を知る」というような天才型の少年ではありませんでしたが、時間を惜しんで猛烈に勉強に打ち込む秀才であり、その記憶力の良さは周囲を驚かせるほどでした。さらに、優しく真面目な彼の人格には誰もが頭を下げました。師匠の順庵が彼を抜擢して「塾頭(塾のリーダー)」にしたのも当然のことでした。ちなみに彼の同僚には、のちに天下の大学者となる新井白石(あらい はくせき)や室鳩巣(むろ きゅうそう)などがいました。

当時は徳川幕府の政権がすっかり安定した時代でしたが、同時に「お金の力(金権)」が強くなり始めた時代でもありました。そのため、学問の世界でも「自由」が求められたり、現実離れした難しい理屈を排除して「実践的で現実的な学問」が重視されたりするようになっていました。

さらに、学問好きな第5代将軍・徳川綱吉や第6代・家宣がトップに立ったため、学問は大流行し、優秀な学者たちが一斉に花開く時代となりました。各大名はこぞって学者を雇い、学者たちも喜んで政治に参加し、自分たちの学問を現実に活かそうとしたのです。

師匠の木下順庵の名声は全国に響き渡っていましたが、彼は加賀藩(石川県)からの誘いを受けてそちらへ下り、門下の優秀な弟子である新井白石を甲府藩へ、そして雨森芳洲を対馬藩(長崎県)へと推薦しました。

芳洲ははるか海を渡って対馬に行き、藩の教育や文化の発展に尽力しました。さらに彼は一日も怠ることなく勉強を続け、あっという間に「韓国語(朝鮮語)」と「中国語」をマスターしてしまったのです。常に外国との外交交渉がある対馬藩にとって、彼はなくてはならない最重要人物となりました。

ある時、朝鮮の人が芳洲の語学力をこう評価しました。

「芳洲先生は、鬱陵島(うつりょうとう)や激浪にもひるまず、我が国の言葉(朝鮮語)にも中国語にも非常に精通しておられる」

 

「鬱陵島」は現在のウルルン島。
雨森芳洲が生きていた江戸時代は、島の呼び方が現在とあべこべになっていました。

  • 当時の「竹島」 = 現在の「鬱陵島」(韓国側にある大きな島)のこと。
  • 当時の「松島」 = 現在の「竹島」(現在、領土問題になっている小さな島)のこと。

芳洲が生きていた時代、日本の漁師と朝鮮の漁師が、この「鬱陵島(当時の日本名:竹島)」の周辺での漁業権をめぐって大喧嘩になる国際問題が発生しました(歴史用語で「竹島一件」と呼ばれます)。この時、日本側の外交官として最前線に立って朝鮮側と激しい交渉にあたったのが、この雨森芳洲です。

 

雨森芳洲

 

広い学識

  

芳洲は藩の重要な役職について多忙な日々を送っていましたが、常に筆を執り、自分の意見を世の中に発表することを忘れませんでした。

彼は「朱子学(しゅしがく)」を専門とする学者でしたが、それだけに縛られることなく、仏教、道教、儒教など幅広い分野にわたる深い知識を持っており、独自の思想を確立しました。例えば、「異なる学派の考え方も結局は同じ真理に通じる」と主張したり、「道教・仏教・儒教の三つは最終的に一致する(三道一致説)」と唱えたりしました。

元々、朱子学というのは全く新しい哲学というより、孔子や孟子など昔の偉大な思想家たちの教えを総合してまとめた巨大な体系です。そのため、芳洲の教えも「根本の道理は一つであり、それを十分に理解すれば究極の真理にたどり着く」というものでした。

また、当時の日本には「神道」がありましたが、芳洲は神道も尊重し、日本ならではの考え方を大切にしました。

彼は「三種の神器」がそれぞれ「知・仁・勇」の精神を表しているとし、儒教の教えはむしろ「日本精神を説明するための解説書のようなものだ」と鋭く指摘しました。親友の荻生徂徠(おぎゅう そらい)が極端に中国の文化を崇拝していたのとは違い、芳洲は非常に「日本的」な傾向を持つ哲学者だったのです。

ある時、徂徠が「和歌なんてたった31文字しかないから、自分の気持ちを表現するには狭苦しくて不完全な芸術だ」と批判しました。すると芳洲は、「中国の有名な詩よりも、『奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の…』という日本の和歌の方が、はるかに感情がこもっていて余韻が長く、比べるまでもないほど素晴らしいではないか」と見事に言い返したと言われています。

芳洲の思想を知るには『橘翁茶話(きつおうさわ)』という本が便利ですが、他にも『交隣提醒(こうりんていせい)』や歌集など、数多くの著書を残しています。

「京都に伊藤東涯(いとう とうがい)がいて、関東に室鳩巣がいて、そして海の西(対馬)には雨森芳洲がいる」

これは、天下に名をとどろかせた荻生徂徠の言葉です。当時の日本の代表的なトップ学者として、「東涯、鳩巣、芳洲、徂徠、白石」の5名が挙げられるでしょう。

 

 

雨森芳洲

学者らしい学者

 

芳洲は88歳という長寿に恵まれ、1755年(宝暦5年)に「学者らしい学者」としてこの世を去りましたが、亡くなるその日まで、決して学問を投げ出すことはありませんでした。

なんと81歳になった時、彼は大いに思うところがあり、「和歌の道」を本格的に志しました。

彼は「漢詩は形式さえ間違えなければ誰でも作れるが、日本の和歌は奥深い。まずは古い和歌を熟読するのが一番だ。今日から『古今和歌集』を1000回読み、そのあと自分で1万首の和歌を作れば、少しは和歌の心がわかるだろう」と言い出しました。

そして実際に、2年間かけて古今和歌集を1000回読み込み、さらに3年かけて和歌を1万首作ったのです。毎日欠かさず、1日に30首近い歌を作り続けた計算になります。

彼は、国同士の外交や大きな道義に関わる問題では、熱い議論を交わし、相手を激しく論破して一歩も引かない強さを持っていました。しかし、普段の生活ではとても穏やかで、決して他人と争うことはありませんでした。道徳を重んじ、それを自ら実行する「聖人君子(完璧な立派な人)」のようなオーラを備えていたのです。生活も真面目で質素であり、家庭も信じられないほど円満だったと言われています。

そのため、親友である荻生徂徠の「豪快で破天荒、人を驚かせるような過激な生き方」には賛成できませんでした。

「徂徠は確かに一代の天才であり、普通の学者と同じように見てはいけない。しかし、人として一番大切な『徳』を後回しにしている。あんな塾には大切な若者を預けられない」

そう言って、芳洲は自分の長男を徂徠の塾から引き取ってしまいました。

また、もう一人の大物・新井白石についても、芳洲は「あいつの人間性は全く理解できない」と言っていました。

1711年(正徳元年)、白石が朝鮮からの使節に対する待遇をわざと低くし、将軍の呼び名を「日本大君」から「日本国王」に無理やり変えさせたことがありました。この時、芳洲は対馬からわざわざ手紙を送り、そのやり方の理不尽さを猛烈に批判しました。

その長文の手紙はあまりにも筋が通っていたため、さすがの白石も一言も言い返すことができず、完全に無視して自分の意見を押し通すしかありませんでした。

「学者らしい学者」として真っ直ぐに生きた芳洲にとって、裏で政治的な駆け引きをする白石のやり方は、小賢しく見えてどうしても気に入らなかったのでしょう。

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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