屈辱外交時代
明治の新しい政府は、できたときから外交にはずいぶん力を入れてきました。けれども、その成績は、とても合格点をつけられるものではありませんでした。当時の日本の国の力がたいへん弱かったことがいちばんの原因ですが、外交の役目を担う人々が、知識の面でも力量の面でも、十分とは言えなかったことにもよります。
外国語ができる、外国の風俗や習慣に通じている、という点では、旧幕府の外国奉行や目付のほうが、ずっとすぐれていたかもしれません。川路聖謨(かわじ としあきら)や栗本安芸守(くりもと あきのかみ:栗本鋤雲)など、外交に慣れた人物は幕臣に多くいました。これに比べると、新政府の外交官は田舎者でもあり、外交の事務に不慣れだったのです。
新政府の外交官でいちばんの腕利きは、佐賀出身の大隈八太郎(おおくま はちたろう:のちの大隈重信)でした。ところが、その国際法の知識といえば、中国語に訳された『万国公法』一冊が唯一の虎の巻です。これを頼りに、海千山千の外国の外交官たちと、宴席や談判の場で向き合っていたわけです。大隈は後年、「よくあれで外交官が勤まつたものだ」とたびたび語っていますが、ほかの人々は、おそらく国際法をまったく知らなかったにちがいありません。
むやみに恐れ、ただへりくだるばかりだった当時の日本の外交は、旧幕府のころよりも、さらに屈辱的なものでした。とくにイギリス公使のパークスは、外交団の筆頭として、経験の乏しい日本の外務当局をさかんに脅しました。外国人が襲われる事件が続いたときも、キリスト教の禁止の問題でも、事あるごとに脅しをかけてきたのです。
大名としてはかなり有能だった、外国官知事の伊達宗城(だて むねなり:もとの宇和島藩主)も、このパークスにはさんざんにやりこめられ、ついに職を辞めざるをえなくなりました。宗城は岩倉具視(いわくら ともみ)にあてた手紙で、こう憤っています。
「四月初旬までの応接、事毎(ことごと)に怒罵愚弄(どばぐろう)甚しく、如何(いか)に鉄面皮無識の宗城にても堪忍し難し」
(四月のはじめまでの会見は、そのたびに怒鳴られ、ばかにされることがひどく、いくら厚かましくて物を知らないこの宗城でも、とても我慢できない)
その岩倉でさえ、気の強さではパークスにかないませんでした。明治四年(1871年)四月、岩倉は三条実美(さんじょう さねとみ)たち政府の中心の人々に手紙を送り、パークスとの会見の様子を伝えています。
「昨日英公使との談判別紙の通り、小生素(もと)より不案内にて不行届(ふゆきとどき)の次第、恐怖此事(このこと)に候。抑(そもそ)も彼の軽侮する所真に憎むべし、実に遺憾千万切歯(せっし)に堪えざる事に候、右に就(つ)ても、只(ただ)此の上は海陸兵力、一日よりも一日御更張(ごこうちょう)の外之(これ)なしと弥(いよい)ます渇望仕(つかまつ)り候」
(昨日のイギリス公使との談判は別紙のとおりです。私はもともと不慣れで行き届かず、恐れ入るばかりです。それにしても、彼が私たちを見下す態度は本当に憎らしく、まったく残念で、歯ぎしりするほどです。このことにつけても、このうえは海軍と陸軍の力を、一日でも早く強めていただくほかはないと、ますます強く願っております)
岩倉は、こう悲壮な決意を書きつけています。国を豊かにし兵を強くすることこそ、彼らを見返すただ一つの道だと心に決めているところなど、今ふり返ると深く感じるものがあるではないか、と底本は書いています。
こんな屈辱に甘んじなければならなかった日本の外交が、どうにか外交らしい形になってきたのは、明治四年十一月に副島種臣(そえじま たねおみ)が外務卿になってからだと言ってよいでしょう。
副島は早くから佐賀藩の藩校の教授をつとめ、のちに長崎でオランダ人のフルベッキについて英語を学び、『万国公法』も学んで、外交については当時としては確かな見識を持っていました。明治四年八月に、髪を切るのも刀を差さないのも自由だ、というお触れが出ると、副島はその日のうちに髷を落とし、刀を外しました。外務卿になると、服装も住まいもすべて洋風に改めています。
それでも副島は、漢学の深い素養があったので、形だけの西洋風の暮らしに満足することはありませんでした。孔子や孟子の説く、徳によって治める道を理想とし、その方針で外交を進めたのです。むやみに外国人にこびることもなく、かといって毛嫌いすることもなく、日本の立場を貫いて国の威信を高めることを、自分の役目としていました。
その副島を、外国通として名高い寺島宗則(てらしま むねのり)が助けます。さらに、法律の顧問として、アメリカ人のペシャイン・スミスとル・ジャンドルの二人が外務省に招かれていました。こうして、新しい外交の時代が始まったのです。
スミスはふだんから着物を着て、刀を二本差して東京の町を堂々と歩いたほどの人でしたから、副島とは大いに意気投合し、日本が自分の判断で外交を行うべきだと説いてやみませんでした。そのため、脅しばかりかける外国の公使たちとぶつかり、パークスなどはスミスを辞めさせるよう政府に迫りましたが、副島はこれを断っています。
ル・ジャンドルもアメリカの南北戦争で勇名をとどろかせた軍人で、清国の厦門(アモイ)でアメリカ領事までつとめた人物でした。たまたま本国へ帰る途中で日本に立ち寄り、副島と会ううちに、外交を立て直そうとする副島の熱意に共鳴して、そのまま日本の外務省の准二等出仕(じゅんにとうしゅっし:外務省の役職)になったという変わり種です。新しい国として歩き出そうとしていた日本は、運よく外交の分野で、得がたい人材を得たのです。
条約の改正のためにアメリカへ出かけた大久保利通と伊藤博文の二人の副使が、全権委任状を受け取りに戻ってきたとき、いちばん強く反対したのが副島でした。各国の代表を一か所に集めて話し合うべきで、わざわざアメリカまで行ってぺこぺこ頭を下げる必要はない。東京で、本当に対等な条約を結ぶべきだ、と論じたのです。
ちょうどそのとき、副島の「自主的な外交」が試される最初の出来事として現れたのが、マリア・ルーズ号事件でした。
怪船マリア・ルーズ号
明治五年六月一日、横浜の港の入り口に、一隻のバーク型の帆船が姿を見せました。船尾に掲げた旗も珍しいものでしたし、ふつうの停泊地を避けて、港の入り口に錨を下ろしているのも不思議です。しかも途中で嵐にあったらしく、帆綱は切れ、マストの一部も壊れていました。古くさい船全体の様子とあいまって、なにやら薄気味悪い感じを抱かせます。
「何処の国のフラハ(旗)かな」
「分らん分らん」
岸壁には、早くも物見高い人々が集まり、この正体のわからない船のうわさに夢中になっていました。
やがて一隻のボートがその帆船に漕ぎ寄せられ、四、五人がどやどやと甲板に上がっていきました。横浜の港長パーヴィス大佐の命令を受けて、船を調べに来た役人の一行です。
船の道具が散らかり放題の中から、それでも上着のボタンをきちんと留めた一人の男が、しきりに笑顔をつくりながら近づいてきました。小柄で、ぶしょうひげを生やした、みすぼらしい男でした。
「船長です。船長です」
男は腕を振りながらあたりを見まわし、しきりに指をさします。
「ひどい暴風雨でした。御覧下さい。ひどい。実にひどい」
大きなマストの陰や、巻き上げた帆の横にうずくまって、うさんくさそうにこちらを眺めている五、六人の船員と、船尾にはためく見たこともない旗がなかったら、これが幽霊船だと言われても、誰も疑わなかったでしょう。それほど荒れ果てた姿で、水から上がったばかりの病気の犬のようでした。
南米ペルー国の商船「マリア・ルーズ」号。三百五十トン。船長はペルー海軍の大尉、ドン・リカルドオ・ヘレラ。
船尾の旗は、南米の小国ペルーのものでした。誰にもわからなかったのも当然です。また、当時の日本とペルーは条約を結んでいなかったので、正規の埠頭に着けず、わざと港の入り口に停泊したのだという船長の答えも、まことに行き届いた心配りでした。
係の役人がかんたんな質問をすると、この怪しい帆船の正体はだいたい明らかになりました。
マリア・ルーズ号は、中国人の出稼ぎ労働者「苦力(クーリー)」二百二十五人と、船長が自分で雇った中国人の給仕二、三人を乗せて、四月二十二日にマカオ(澳門)を出発し、ペルーのカリアオ(今のカヤオ)港に向かっていました。ところが、北緯およそ三十七度、東経およそ百三十二度のあたりで台風にあい、前のマストなどに大きな損害を受けたので、修理のために横浜に入ってきたというのです。積み荷はなく、流行病の患者もいない、という答えでした。
(こんなボロ船の何処に、三百名近い乗客を乗せてゐるのだらう)
積み荷もなく、中国人ばかり三百人近くも乗せている――怪しいと思えば、不審な点がないわけではありませんでした。けれども、船長の歯切れのよい答えに好感を持った一行は、ひとまず調べを終えて船を降りることにしました。
翌六日、港長パーヴィス大佐の指示で、マリア・ルーズ号の船長は関係の書類を、当時の神奈川県令(今の県知事)、陸奥宗光(むつ むねみつ)に差し出しました。県はこれを受けて、横浜港への停泊と、船の修理を許したのです。
脱走する苦力
「怪しからん、奴隷売買船ではござらんか」
県令の代理をつとめていた権令(ごんれい:県令に次ぐ役職)の大江卓(おおえ たく)は、イギリス領事館からの報告を読み終えると、顔色を変えて立ち上がりました。
「すぐ東京の本省へ報告する。それから君、すぐ邏卒(らそつ:巡査)をやつてマリア・ルーズ号の船長を召喚する手続きをとつてくれツ」
驚いて立ちつくしていた部下たちが、あわてて部屋を出ていくと、大江は静かに椅子に腰を下ろし、イギリス領事館の報告書をもう一度ゆっくりと読み直しました。
「明かに奴隷船だ。うーむ」
大江はうなりました。イギリス領事の報告は、次のような驚くべき事実を伝えていたのです。
六月八日の夕暮れどき、マリア・ルーズ号のすぐ近くに停泊していたイギリスの中国艦隊の旗艦「アイアン・デューク」号の乗組員が、水の中でもがき苦しんでいる中国人の姿を見つけ、すぐに助けて手当てをしました。この男はやつれ果てた顔をしていて、ひどい虐待を受けていたことがひと目でわかります。当直の将校が問いただすと、男はマリア・ルーズ号に乗せられていた苦力の木慶(もっけい)という者で、船の中でひどい扱いを受けたと語り、どうか助けてほしいと涙ながらに頼んだのです。
アイアン・デューク号の艦長は、この苦力を横浜のイギリス領事館に引き渡しました。領事館はすぐに、「この愕(おどろ)くべき蛮行の事実を、卒直に当局に告げ、日本政府が適宜の処置を執られんことを切望する」(この驚くべき野蛮な行いの事実を率直に当局に知らせ、日本政府が適切な処置をとられることを強く望む)と、神奈川県を通じて知らせてきたのです。
それから数時間ののち、船長ヘレラが神奈川県の役所にやって来ました。
「私は苦力木慶を脱走罪を以て、告発します」
船長は堂々とした態度で、逆に攻めに出てきます。そして言葉を継いで、さらに激しく言うのでした。
「……尚、船中の苦力全部を暴動罪として、訴へる用意もあります」
大江は黙って聞いていましたが、やがてふところから例の報告書を取り出し、木慶の体を調べたところを示して、おだやかにたずねました。
「弁髪(べんぱつ:頭の後ろで長く編んだ髪)を断り、身体数ケ所に打撲傷の跡があると書いてあるが、これは脱走罪と何う云ふ関係があるのかね。貴下はまた苦力全部を暴動罪として告発すると言ふが、一体何かそんな不穏な事件があつたのかね。それを承りたい」
(言はなくてもよい事まで言つてしまつた)
そう気づいた船長ヘレラは、とたんに態度をがらりと変え、しきりにあやまり出しました。これからは扱いに十分気をつける、というのです。大江も、無理に事を大きくする必要はないと考えたので、けしからんとは思いながらも、今後を戒め、よく反省するよう促して、船長を帰しました。
アメリカの南北戦争の結果、奴隷が解放され、そのためアメリカ大陸ではひどい人手不足になっていました。そこにつけこんだ一部の悪徳商人たちが、新たに中国の苦力を大勢アメリカ大陸へ送り、奴隷と同じように売り買いして、大もうけをしていたのです。大江は、以前からそういうことがあるとは聞いていましたが、今その痛ましい有様を目の前にして、激しい怒りを覚えずにはいられませんでした。
けれども、無理に国と国のもめごとを起こすべきではありません。今の日本の国力で、この問題にどこまで関わるべきか――ここまで考えて、大江は目を閉じ、見て見ぬふりをすることも考えたのでした。
しかし、この問題は、権令の大江卓ひとりの胸の中にしまっておくには、あまりに大きな波紋を広げていきました。船長ヘレラは県の役所から帰ると、すぐに木慶を引きずり出して鞭で打ちました。その悲鳴は、遠くアイアン・デューク号まで届いたといいます。そして数日もたたないうちに、また一人の苦力がイギリス艦の船べりまで泳ぎつき、船の中のひどい有様を訴えてやみません。
怒ったイギリス艦の乗組員たちはすぐに、これをイギリスの代理公使ワトソンに急いで知らせました。ワトソンはアメリカ公使をともなって外務省の副島種臣を訪ね、日本政府の注意をうながしたのです。
このとき政府の中では、司法卿の江藤新平(えとう しんぺい)や陸奥宗光などが、条約を結んでいないペルーと争うのは得策ではない、と反対しました。けれども副島は、この人の道にそむく事件に対しては、きっぱりと責任を問うべきだとし、法の筋道から見ても、マリア・ルーズ号の事件を日本が裁くのは正当な権利だと主張しました。
つまり、日本は清国やペルーとのあいだで、条約による「領事裁判」(外国人の裁判をその国の領事が行う決まり)を認めていない。だから、両国の人々は、日本にいるかぎり日本の法と裁判に従う義務がある、というのです。
副島の主張はこうして政府の会議を通り、七月一日、マリア・ルーズ号事件の調べは、神奈川県参事の大江卓に命じられました。大江は勇み立ち、すぐに県の役所の中に、今でいう予審(本格的な裁判の前の取り調べ)の法廷を開き、船長をはじめ関係者一同を呼び出して、取り調べを始めました。
大江の問いに対して、ヘレラ船長はふんぞり返って、こう切り出しました。
「何故に、我々は日本の裁判権に服さねばならぬか、了解に苦しむ……」
そのうえで船長は、こう述べ立てました。問題の苦力たちはみな乗客なのだから、それなりの扱いをしてきた。ただ、木慶ほか数人は性質が乱暴なので、手錠をかけ、弁髪を切った。そのほかの苦力たちも全員がたいへん反抗的で、船の中は不穏な空気に満ちており、横浜に入ってからも、みなで示し合わせて船に火をつけようとたくらんだことさえある――。そして最後に、こう言い放ったのです。
「貴官等は木慶一人の言葉ばかりを信用しないで、三十人でも、五十人でも、その他の苦力を調べられたらよいではないか」
これは明らかに、船長ヘレラの失言でした。やぶをつついて蛇を出す、というおろかなことをしてしまったのです。次々と法廷に呼ばれた苦力たちは、口々に船長ヘレラのずるいたくらみをののしり、中には声をあげて泣く者もいました。雇われたときの話とはまるで違う、船の中のひどい扱いを訴えたのです。
いつまで働くのかもわからないが、八ドルもらったので、言われたとおり書類に判を押した、と彼らは言いました。もちろん、その約束の書類に何が書いてあるのか読める者は一人もいません。脅されたり、うまい話に乗せられたりして、遠いペルーへ奴隷として売られていくことも知らなかったのです。
自主的外交の勝利
船長ヘレラとその弁護人は、なおもしきりに、「本事件は公海に於て発生したもので、日本国法権の及ぶ処でない」と主張しました。それどころか、「マリア・ルーズ号出港停止による、損害賠償を要求する」と、強く反対してきたのです。
そこで副島は、この事件を急いで片づけてしまわなければならないと決心しました。外務省からも法律顧問のスミスを加わらせて、裁判の進行をうながします。
七月二十七日、神奈川県権令の大江は、船長ヘレラとその弁護人を呼び出し、次のような判決を言い渡しました。
「マリヤ・ルーズ号船長ヘレラは、船客なる支那人苦力に不法檻禁(かんきん)暴行を加へた事実あり、これは日本現行刑法では、禁獄百日に当るが、情状酌量して、船長は無罪、且つ、日本海領海をマリア・ルーズ号に乗つて去ることを禁じない」
(マリア・ルーズ号の船長ヘレラは、乗客である中国人の苦力を不法に閉じこめ、暴行を加えた事実がある。これは日本の今の刑法では、禁獄百日にあたる。しかし事情をくんで、船長は罪に問わない。また、マリア・ルーズ号に乗って日本の領海を去ることも禁じない)
この判決に対して、横浜にいる外国の領事たちは、ただイギリス領事を除いて、いっせいに非難の声を上げました。日本政府のやり方は、横浜の外国人居留地の取り締まりの決まりを無視したものであり、彼らに共通する利益である治外法権(外国人が住む国の法律や裁判に従わなくてよい特権)をおびやかすものだ、というのです。
これに勢いづいたヘレラは、今度は逆に、乗客である苦力二百三十人を相手どり、移民の契約を破った罪で訴え出ました。
この激しい反対の火の手に対して、日本の外務当局はさらに強い態度に出ました。今度は、マリア・ルーズ号に乗っていた苦力全員を解放するという、思い切った決断をやってのけたのです。判決には、こうありました。
「……若(も)し人にして肆(ほしいまま)に幽閉せられた際は、ハーベーオス・コーボスなる公法によりて、其(そ)の者の自由を完全ならしむるが通議なり、今我国に於ては、この公法の設定なし。然れども、何人と雖(いえど)も、この自由の通議あり。これ我が国の本理なり。然るにマリア・ルーズ船の清国船客の如きは、外国人のため肆に船中に幽閉せられしこと判然たり。故に彼等は尽(ことごと)く釈放さるべし……」
(もし人が勝手に閉じこめられたときは、「ハーベアス・コーパス」という法によって、その人の自由を完全に取り戻させるのが、世の中で通じる道理である。わが国には、まだこの法の定めはない。けれども、誰であっても、この自由が守られるべきだという道理はある。これはわが国の根本の考えである。ところがマリア・ルーズ号の清国の乗客たちは、外国人によって勝手に船の中に閉じこめられていたことが明らかである。だから、彼らはすべて解き放たれるべきである)
法律の言葉が多く、言い回しもかたいので、法律の素人である私たちには十分にはわかりません。それでも、大江のこの八月二十五日の判決は、胸のすくものです。専門家に言わせると、当時としては画期的な名判決だそうです。
マリア・ルーズ号事件が清国に伝わると、清国政府はすぐに特使の陳福勲(ちん ふくくん)を日本に送り、中国の人々を保護する役目にあたらせました。陳は八月二十七日に横浜に着き、大江権令に会って厚く感謝の気持ちを伝えます。さらにその二日後には東京へ出て外務省に副島外務卿を訪ね、その厚い友情と骨折りに深く礼を述べました。これに対して副島は、
「いや、清国はわが善隣国(ぜんりんこく:よき隣の国)、同文同種(どうぶんどうしゅ:同じ文字を使い、同じ人種)の国ではござらぬか」
と、少しも手柄を誇らず、清国の使節をいっそう感激させたといいます。西郷隆盛は副島の才能と人柄に深く心を寄せていたといいますが、まことにもっともなことです。
九月、日本は二百三十人の苦力たちを清国に引き渡すことになり、九月十三日、陳福勲は彼らを連れて横浜を出港し、上海へ向かいました。苦力たちが日本政府の処置にどれほど感謝したか、はかりしれないと底本は書いています。むずかしい裁判のことなど彼らにはまったくわからなかったでしょうが、命が救われたということだけは、誰もがはっきりとわかったにちがいありません。
アヘンの売買とともに、この苦力の売買は、西洋の人々が中国に対して行った罪悪のうちでも、もっともむごいものの二つだ、と底本は書いています。当時キューバのハバナにいたイギリスの総領事が本国の外務大臣に送った報告によると、こうした奴隷船での苦力の死亡率は十四パーセントにのぼったといいます。ひどい例では、同じようにマカオからペルーへ送られた二隻の船で、七百四十人の苦力のうち、航海中に二百四十人が亡くなったという記録さえあります。これに比べれば、マリア・ルーズ号などはまだ扱いがよかったほうかもしれません。
船長ヘレラは、これより前に、こっそりアメリカの船に乗りこんで日本から逃げ出していました。一人の清国の少女を連れて行っており、自分の妾(めかけ)にするつもりだったのかもしれない、と底本は書いています。
のちに清国政府は、日本の厚い友情に感謝して、副島外務卿と大江権令に、その功績をたたえる大きな旗を贈りました。
また、このマリア・ルーズ号事件は、この判決ですべて終わったわけではありません。のちにペルーは日本に損害の賠償を求め、日本もこれに反論し、最後にはロシア皇帝アレクサンドル二世が仲裁に立つことになりました。その結果、明治八年(1875年)五月、ロシア皇帝は「日本政府にはなんの責任もない」という判断を下し、この国際的な仲裁の裁判も、まったく日本の勝利に終わったのです。
国際法の知識に乏しかった日本の外務当局が、あえて立ち上がり、自分の判断でこの事件に関わって、このよい結果を得たのは、もちろん副島の決断と大江の奮闘によるものです。けれどもそれだけでなく、人の道にかなった正しい行いは、結局は世界の共感を得るはずだ、という確信から出発したことにもよる、と底本は書いています。外務省が出した『秘魯国(ペルーこく)マリヤルズ船一件』という記録の最後には、「此(この)一件ノ当否ハ普(あまね)ク宇内(うだい)ノ正決ニ信ズ」(この事件の是非は、広く世界の正しい判断にゆだねる)と、堂々と書かれていますが、これはまさにこの自信を表したものにほかなりません。
横浜の港に流れついた一隻のおんぼろ船は、こうして、まだ頼りなかった明治の外交に、初めて胸を張れる一ページを残しました。けれども国内では、征韓論で政府を去った人々の不満が、しだいに大きくふくらんでいきます。次の回では、明治十年、西郷隆盛が鹿児島で立ち上がった「西南戦争」を読みます。

