「旦那、大変です!」
東海道の松並木。右手には富士、左手には松原越しの駿河の海。切り株に腰を下ろして写生に夢中になっている絵師の耳元で、昼寝をしていたはずの馬子(まご)が叫びました。馬がいなくなったというのです。番を頼まれていたことなど、絵師はすっかり忘れていました。この人の名は、一立斎広重(いちりゅうさい ひろしげ)。のちに『東海道五十三次』で知られる歌川広重です。
浮世絵派最後の巨匠
浮世絵の生命は、江戸時代における民衆の精神の反映にありました。けれども維新の前後を境とする民衆文化のさらなる発展によって(そのなかには印刷技術の変革という条件もあります)、民衆の関心はしだいに薄れ、浮世絵は衰えて滅びる道をたどらなければなりませんでした。一立斎広重はこの時代の画家であり、浮世絵派最後の巨匠です。
広重の風景画には、しみわたるような閑寂(かんじゃく:ひっそりと静かなこと)さと、胸を刺すようなせつない感傷と、はかり知ることのできない幽玄(ゆうげん:奥深くて味わいの尽きないこと)さとが、その隅々にまで流れています。見る者の胸にひしひしと迫ってくるこれらのものの総和は、いったい画面のどこにひそめられているのでしょうか。画面の上にしみ出ている細やかな筆づかいと、落ち着きのある色彩。ただこれだけなのです。そこには、彼が影響を受けた葛飾北斎に見るような誇張もありません。不自然さもありません。それらのものはまったく影をひそめて、純化され詩に高められた現実が、線と色彩によって表現されています。彼はまさに、線と色彩の詩人であると言えるでしょう。そして彼が浮世絵派最後の巨匠として、同時に風景画における最大の大家として、その名声を世にうたわれる理由もまた、ここにあるのです。
広重の存命の当時はもちろん、今日にあっても、世の人は広重といえば浮世絵を、いやあの胸にひしひしと迫るものをたたえた風景画を、そして浮世絵あるいは風景画といえば広重を、同時に思い浮かべるでしょう。これもまた、広重の芸術が自然とともにその生命を永遠にたたえている証拠でしょう。

天稟の画才
にぎやかな江戸の町のある通りの昼下がり、往来の両側は時ならぬ黒山のような人だかりで混雑していました。琉球使節の行列が、将軍家に参上するため、今しも静々と町中を進んでゆきます。物見高い江戸の人々は、その行列の通行を見物しながら、勝手なうわさをし合って騒いでいるのでした。
この琉球人の服装や髪の形をただ好奇の目で眺めながら騒いでいる見物人のなかに、最初から終わりまで、じっと目を据えて行列を見守っていた一人の少年がいました。まだ十一、二歳の童顔ですが、この少年の目には、そのとき射抜くような鋭い光がたたえられていました。少年は騒々しい話し声には振り向きもしません。そしてやがて行列が通過してしまうと、彼は急いで家に帰り、今見てきた琉球使節の行列を熱心に描きはじめたのです。人物、服装、持ち物など、見てきたままが微細をきわめて描かれてゆきました。少年の絵にしては驚嘆に値する巧みなできばえです。この少年こそ誰あろう、のちに一世にその名声をうたわれた浮世絵画家、一立斎広重でした。

自分の芸術を見出すまで
広重は寛政九年(1797年)、江戸に生まれました。家は代々幕府の火消同心(ひけしどうしん:江戸城と江戸の町の火消しにあたる下級の役人)で、安藤という姓です。名は通称を徳太郎といい、のちには十兵衛、徳兵衛とも名乗りました。二十六、七歳のころまで父の職を継いでいましたが、徳太郎と呼ばれた少年時代から絵が好きで、暇さえあれば草双紙(くさぞうし:絵入りの読み物)ばかり見ていました。もちろん単なる慰みからではありません。彼はそのころからすでに、生涯を絵筆に託そうという、むらむらと湧き上がる希望と憧れに胸を燃やしていたのです。
そしてまず最初、豊国(とよくに)の弟子になろうとして果たせず、その後、貸本屋の紹介で豊広(とよひろ)に入門しようとしましたが、これも断られてしまいました。しかし彼の絵画に対する憧れと熱意は、これくらいのことで冷めはしません。彼は単身豊広を訪ねてゆき、その燃え上がる熱意を打ち明けたのです。そしてついに豊広を動かし、入門の許しを得たのでした。文化八年(1811年)、広重が十五歳のときです。
豊広は、馬琴の『夢想兵衛(むそうびょうえ)』『朝比奈巡礼記(あさひなじゅんれいき)』など多くの小説の挿絵を描いていましたが、画風は豊国のように派手ではありませんでした。そのせいもあったのか、あまり世に認められずに終わった画家です。しかし性格は、実に温厚篤実(とくじつ:情が深くまじめなこと)な人物でした。こうした師を選んだことは、広重にとって、後日大成する一つのきっかけとなったのでしょう。
入門した翌年、のちの一立斎広重・安藤徳太郎は、歌川の姓を許され、「広」の一字を与えられて歌川広重と名乗りました。まだ十六歳の少年です。当時の画界としては実に珍しいことで、破格の出世でした。豊広にしても、この少年画家の将来に目をつけなかったならば名を与えるようなことはしなかったでしょうが、弟子の広重にとっては、この上ない名誉であったことはもちろんです。

東海道写生旅行
天保三年(1832年)の初め、幕府から京都の御所へ御馬献進(おうまけんしん:朝廷へ馬を献上する行事)の際、広重はその一行に加わって東海道を旅行しました。
当時広重は、絵双紙、錦絵、肉筆画などを描いていましたが、最初に師の豊広から受けていた感化を抜け出し、風景画においては豊春の浮世絵に、また北斎の画風に影響を受けていました。いわば彼の模索時代です。そして有名とまではいきませんでしたが、相当にその名を世に知られていました。しかし彼は、風景を描くためにはどうしても旅をして実際の風光に接しなければならないと考え、旅に出ることを決心したのです。その当時として、しかも相当に名の知れた画家で、この追求心の実行は、なかなか誰にもできる行いではありません。
広重は道中を盛んに写生してゆきました。ここは東海道の松並木、右手には富士の姿が雲の上にそびえ、左には松原越しに駿河の海が青々と広がり、白帆の影さえあざやかに浮かべています。まさに広重の趣向に合った風景です。街道の松の切り株に腰を下ろしてしきりにあたりの風景を写生しているのは広重、少し離れたところの草原には、一人の馬子が大の字になって昼寝の夢をむさぼっていました。馬子に馬の番を頼まれた広重は、これ幸いとばかり、しきりに写生の筆を走らせます。向かい側の茶屋には、上り下りの旅人がかわるがわる足を休めてゆく。汗をふきながら駆けこんでゆく早飛脚、六部(ろくぶ:巡礼の行者)姿の男、僧侶、武士、女。広重は休んでいる早飛脚の姿を大急ぎで写生しにかかりました。と、そのときです。
「旦那、大変です!」
ふいに耳元で叫んだ者がありました。広重がびっくりして振り向くと、それは昼寝をしていたはずの馬子です。何事かとたずねると、馬がいなくなったといいます。広重は写生に熱中していて、頼まれた馬の番はすっかり忘れてしまっていたのです。だが彼の熱中ぶりは、そんなことでは冷めませんでした。まもなく馬をつかまえた馬子が迎えに来て乗馬をうながしましたが、広重はなかなか腰を上げません。
「ちょっと待ってくれ、もう少しだ」
そう言いながら、また筆を動かしはじめるのでした。こうして彼は執拗(しつよう)に風景を観察しながら東海道を旅しましたが、このときの風景研究こそ、彼に模索中の芸術のなかで独自のニュアンスをつかませ、自然と人事の交わりを描かせるに至った羅針盤であり、のちに江戸じゅうの好評を博し、今なお世にたたえられている『東海道五十三次』の土台となったのです。そしてこのときこそが、彼にとっての一大芸術的転換の動機となりました。彼が風景画の処女作『一幽斎東都名所(いちゆうさい とうとめいしょ)』(そのころ彼は一幽斎または一遊斎と号していました)を描いたのは天保二年(1831年)で、この東海道写生旅行に出る前の年でした。

中心帰聚の妙諦
広重が世に残した作品は、四十歳以後の苦心研鑽(けんさん:深く学び究めること)、実地踏査のうえで描いた『東海道五十三次』に続く作品に多く求めることができます。彼はまた「雨の画家」といわれるほど多くの雨景を描いていますが、こうして行き詰まりを来していた当時の浮世絵界に新境地を開き、素朴にあるがままの自然と人事の姿を人々の前に提供したことは大きな業績であり、近世風景画を生む源泉となりました。
あの細かい線と落ち着いた色彩は、なぜ詩となって人々の胸に迫るのでしょうか。動脈として一貫するものを残して、細々した重要でないものをことごとく切り捨てることを、建築の上で「中心帰聚(ちゅうしんきしゅう)」と呼びますが、広重はまさに芸術の上でこの中心帰聚の妙諦(みょうてい:すぐれた真理)をその作品に活用した画家だったのです。そして趣味を中心とする郷土的な風景画家であり、偉大な詩人でもありました。
彼はそのために生涯を苦しみとおしました。晩年、築地あたりの水茶屋で、そこの亭主から自分の絵の欠点を指摘されたことがあります。もちろん亭主は広重とは知らずにしゃべったのであり、絵についても知識のない人間でした。だが広重はその評言にいたく感動させられ、ふたたび真の風景を観察し直すために旅に出たのです。あくまで良心的で、追求心を捨てませんでした。やがてその良心的な研究旅行から帰りましたが、翌年の安政五年(1858年)九月六日、六十二歳で病没しました。彼の残した諸作品のうち、『東海道五十三次』『富士三十六景』『江戸百景』『諸国百景』などは、もっとも世に知られた傑作です。





