啓蒙期の巨材
明治政界の巨星、我が国会の父である板垣退助(いたがきたいすけ)は、当時フランス風の過激な思想の宣伝者として、官僚主義者の間に恐怖の念さえ抱かしめたものであったが、しかし彼は決して徒(いたずら)に激越な言動をあえてする男ではなかった。
西南戦争の時、土佐の青年中に西郷隆盛と通謀(つうぼう)を企てる者があり、板垣もまた土佐にあって動かなかったので、政府はこの南海の風雲にすこぶる苦慮したものであるが、板垣はしかし固く穏健主義を守り、民権論に興奮する門下の青年たちをかえって鎮(しず)めたほどである。
また明治29年(1896年)、政府と自由党との間に意志が疎通して板垣が内務大臣に就任する時、官僚は板垣の内務大臣就任についてまだ非常に疑懼(ぎく:疑い恐れること)の念を抱いたのであったが、就任後その私心のない公正な態度と人格にかえって敬服したという。これは当時、同省の官吏であった水野錬太郎の述懐である。
実に彼はこの時代の蒙(もう:無知)を啓(ひら)くため、あくまで信念を押し通して来た政治家であり、またそれに適した巨材であった。

意気軒昂(けんこう)たる青年時代
板垣退助は、天保8年(1837年)4月17日、高知中島町に生まれた。祖先は武田信玄の驍将(ぎょうしょう)・板垣駿河守信方に発している。歴代の名門で、父は栄六といい、文武諸芸を究め、兵書に精通していた。
この母の実は藩の門閥で、一時は家老格の家柄であった。退助が維新前後に為すところあり、明治政府となっても常に顕要(けんよう)な地位を占めていたのは、もちろん彼の人格・識量が大であったからこそではあるが、一面こうした家柄にも俟(ま)つところがないとは言えない。退助は幼名を猪之助といい、後藤象二郎とはその頃からの友達であった。
幼時は藩の教育を受け、19歳の時初めて江戸に出たが、同時に安政2年の大震災に遭い土佐に帰った。その翌3年、彼はある事情で同輩を詈辱(りじょく:ののしり恥をかかせること)し、藩罰に処されて城南の領地・神田の里に謫(たく)せられる(流される・謹慎する)ことになった。彼が吉田東洋を知り、それ以前の儒学や文学に対する反抗的な態度から翻然と悟り、諸家の書を翻読するようになったのは、この謫居(たっきょ)生活中であった。前にも彼は吉田東洋から門人になれと慫慂(しょうよう:ある行為をするように側から誘いかけ、しきりに勧めること)されたことがあったが、「己の才能をひけらかしてばかりいるから嫌だ」と突っぱねていたのである。
神田の里に幽閉されること四年、安政6年5月になって、彼はようやく許された。時に23歳、彼は大坪流の馬術、要馬術、調息流を学び、精魂修得につとめ、後、江戸に出て蘭式の兵術を研究しながら時勢の流れに注目するのであったが、機運はまさに向いて来た。
万延元年(1860年)8月、彼は藩の免奉行(関税の職)に任ぜられたが、翌・文久元年10月には抜擢されて江戸留守居役となり軍備の庶務を兼任、同2年にはさらに挙げられて老侯・山内容堂(やまうち ようどう)の側用人となり、江戸藩邸の藩史総裁の職を奉ずるに至った。このようにして、彼の前途は洋々と開けてゆくかに見えた。
だがここに形勢は一変したのである。
翌・文久3年、将軍家茂が上洛して加茂、石清水行幸となった後、薩長両藩の反目となり、尊攘党の失敗、続いて七卿落ちの悲劇となり、京師の形勢一変し、土佐藩の勤王派はここにまた一頓挫(とんざ)を来した。これより先の文久2年4月、藩の参政であり公武合体派の吉田東洋は、同藩の尊攘主義者の刃に斃(たお)れたが、これに続いて隠居した山内容堂が帰藩するにあたって、板垣はその途中で「東洋の残党および急進的尊攘派は一切登用してはならぬ」と容堂に進言した。容堂もその説の穏健中正を得ていることを認め、乱れた藩の内政を整備するために帰藩したのであった。
だが帰藩した容堂はたちまち前言を翻し、極端に尊攘派のみを退けたのである。板垣はこれを見ると憤然としたが、尊王党の志士・中岡慎太郎と親交し、藩政の乱れるのを慨嘆しながら、大監察の職を弊履(へいり:破れた靴)のごとく棄てて単身江戸に向かってしまった。

維新前後の光彩
江戸に入った板垣は築地の藩邸に身を潜め、深尾政五郎に就いて騎術を究める傍ら、蘭書二十余巻を翻訳して昼夜刻苦すること三年、ここにようやくその蘊奥(うんおう:奥義)を極めるに至った。そして静かに天下の形勢を睨んでいた。そこへ京都にあった同志・中岡慎太郎の急使が来た。急使は言う。
「京都の形勢はいよいよ定まって、幕府の信用は地を払った。いまにして事を決しなければ我が藩は再び起つ時があるまい。速やかに藩論の帰着を定めるべきである」
もはや躊躇(ちゅうちょ)の場合ではなかった。彼は江戸を発って、昼夜兼行で京都に達した。慶応3年5月のことである。彼は京都の同志と別れ、容堂侯を説き伏せるため帰藩するにあたり、まず大坂に寄って銃三百挺を購入して非常準備を整えた。そして帰藩と同時に、まかり違えば切腹の覚悟で容堂に血涙の諫言(かんげん)をした。結果は上首尾であった。藩論は急転直下、佐幕から倒幕に変わり、その上彼は軍備総裁の職に任ぜられたのである。
そこで彼は京都から飛報の来るのを待ちながら、ただ藩の兵備を整えることに余念なかった。従来、銃器を携えるのは足軽のみに限られていたのを、一般士格の者から次男、末子を選んで新たに銃隊を組織し、ひそかに討幕挙兵の機を窺ったのである。しかしこの間、藩論は倒幕になっていたとは言え、佐幕党、公武合体派はいまだなお影を潜めておらず、従って彼の身辺は常に危なかった。だが機会はついに到来した。
慶応4年正月(1868年。のちの明治元年)、急遽出兵の報が京都から飛来し、板垣は直ちに隊伍を整えて高知を発した。まず高松を攻めてこれを降伏せしめ、下旬には堂々京都に乗り込んだ。そして二月東征軍の編成にあたって、板垣は東山道軍参謀となり、土佐藩兵士の総大将を兼任した。まず美濃、信州を経て甲州を攻め、三月江戸に入り、四月には、奥羽の野に向かって進んでいた。さらに東征軍は白河口を攻め、棚倉城に進撃し、平城を陥落せしめ、中山口、母成口(ぼなりぐち)の敵軍を突破し、ついに九月下旬、白虎隊の抵抗を破って会津城を落とした。
この時の板垣の働きは、土佐の板垣隊の奮戦と後年の自由民権運動と共に、彼の生涯において特記されなければならないものである。

大阪会議と自由民権運動
板垣は明治2年4月、参与に任ぜられ、4年7月には参議となったが、6年10月、征韓論のことで西郷らと共に野に下った(下野した)。当時政府は、人心収攬(しゅうらん)の一策として、広く各雄藩の代表を台閣(政府)に網羅するかに見えたが、しかし実権はかたく薩長(さっちょう)の手に握られていたので、それに対する不平不満の波が次第に高潮して来ていた。征韓論は政府に容れられず板垣は野に下ったが、しかし彼の本来の不満はそこにのみあったのではなく、薩長強藩の意に重きを置いている当局の専制に対する不満からであり、それを打破するために、権力を広く天下に分散する必要を切実に感じたからであった。
明治7年、彼は土佐に帰って立志社を創設したが、これは前述の意味から地方に自治思想を普及せんがためであった。彼はその年、左院に対して民選議院設立の建白書を提出したが採用されなかった。翌8年1月、彼は井上馨の計画に賛して、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らと大坂に会合した。そして、専制を矯(た)め立憲主義を採るという条件で、再び政道に協力することを約束した。世にいう「大阪会議」とはこの時のことである。この結果、同年3月、彼は再び参議の要職に復した。そしてここに、木戸、大久保、伊藤等と共に政体取調の命を受けたのである。
だが板垣は永く台閣に留まらなかった。立憲代議制度を布(し)かんとするに当たって、木戸と板垣の間に方針の食い違いが生じ、また政府が新聞条例や讒謗律(ざんぼうりつ)を布いて言論の自由を抑圧する手段に出たので、このため板垣は8年10月27日、慨然として職を抛(なげう)ったのである。

岐阜の遭難以後
板垣は再び土佐に帰って民権運動に没頭した。これはたちまち天下の志士を奮起させ、猛烈な国民的運動に発展し、当時急進論を唱えていた大隈重信の動きとも呼応して、ついに政府内部の態勢を転換させた。
そしてついに明治14年の大詔煥発(たいしょうかんぱつ:天皇の詔勅が出ること)となり、明治23年を期して国会を開設する旨が天下に明示されたのである。これに続いて板垣を総理とする自由党が組織され、大隈の改進党も結成された。やがて開かれる国会に対する準備としてである。
明治15年3月、板垣は遊説のため岐阜に赴いた。そして演壇から控室に戻る途中、反動の刺客・相原尚褧(あいはら なおぶみ)のため、短刀をもって胸を刺された。この時彼は鮮血に彩られながら千軍叱咤の声で叫んだ。
「板垣を殺しても自由は死なんぞ!」
(※「板垣死すとも自由は死せず!」として広く知られる言葉)
傷は幸いに急所を逸れていたため、一命は辛くも取り留めたが、かくして彼の自由民権運動は文字通り血潮の飛沫(しぶき)を浴びたのである。
内務大臣たること二回。明治33年(1900年)、立憲政友会が組織されるに及んで、彼は己れに能う(あたう)限りの啓蒙の役割を果たし終えたことを自覚し、潔く政界を引退して、余生を社会事業に捧げた。そして大正8年(1919年)8月16日、83歳で他界した。尾崎行雄、犬養毅に先立ち、身をもって民論を代表して闘い、進歩的役割を果たした板垣退助は、日本政治史上に燦(さん)と輝く巨星でなければならぬ。


