西郷王国
西南戦争の原因は、発展していく中央の政府と、古いものを守ろうとする西郷の一党とのあいだに生まれた食い違いと対立が、ついに爆発した結果にほかなりません。言いかえれば、明治六年の征韓論の対立に、明治十年の西南戦争で決着がついた、とも言えるのです。
西郷の側近だった村田新八(むらた しんぱち)の言葉を借りれば、西郷と大久保の征韓論の争いは横綱どうしの立ち合いのようなもので、どちらに軍配を上げてよいのかわからない、というのです。
なるほど、形の上では、西郷が政府の会議に敗れて鹿児島に引っこんだのですから、西郷の負けのように見えます。けれども、西郷が持っている世の中の厚い信頼は、九州の一角に、文字どおり「西郷王国」を築き上げていました。鹿児島県の役人を任じたり辞めさせたりすることさえ、この一派の手の中にあったのですから、まるで一種の独立した地域です。大久保に反対し、中央の政府に反対する人々の、どっしりとした城になってしまったのです。
いつかこの力の釣り合いが崩れ、正面からぶつかり合う運命にあることは、誰の目にもはっきり映っていました。
その爆発の直接のきっかけは、内務省が乗り出して、鹿児島県の役人を入れ替えようとしたことです。つまり中央の政府が、封建の世の最後のなごりである薩摩を、自分の統制の下に置き直そうと決心したことによります。
明治九年(1876年)七月のはじめ、大久保は鹿児島県令(今の県知事)の大山綱良(おおやま つなよし)に、東京へ来るよう命じました。県令は当時、奏任官(そうにんかん:内閣が任命する役人)でしたから、内務卿のひと言でどうにでもなる身分です。それなのに、わざわざ呼び寄せて相談しなければならないところに、薩摩という土地の特別な事情がありました。
大山は十七日に東京に入りました。病気で伏せっていた大久保は、大山にこう話しました。
「近く内政改革をやる積りだが、鹿児島県も参事課長以下官吏の更迭(こうてつ:入れ替え)をやるが、宜しく頼む」
大山も西郷派の一人ですから、とてもそんなことができるはずがありません。かといって、地方の長官としての苦しい立場もあります。
「それでは辞職させていたゞきます」
大山は辞職を申し出ます。大久保は無理になだめて、内務省の林友幸(はやし ともゆき)を一緒に行かせ、鹿児島へ帰らせました。
林は明治十年正月四日、県の役所に出て様子を見ましたが、とても手のつけようがないと直感して、東京へ帰ることにしました。帰りぎわに西郷を訪ねましたが、留守でした。翌日も留守です。このとき西郷は、すでに大隅(おおすみ:今の鹿児島県の東部)へ狩りに出かけていたのです。
一月二十四日、明治天皇は、畝傍山(うねびやま)の御陵(神武天皇の陵)へお参りになるため西へ向かわれ、木戸孝允(きど たかよし)と川村純義(かわむら すみよし)中将がお供をして、京都にお泊まりになりました。林友幸が二月五日に京都に入り、鹿児島の様子を報告しようとしたころには、薩摩の南の天地には、すでに嵐が迫っていたのです。
このときにはもう、私学校(しがっこう:西郷が鹿児島に開いた、士族の若者の学校)につながる役人をいっきに入れ替えて、ほかの県と同じようにしてしまおうという政府の計画は、すっかり筒抜けになっていました。血の気の多い私学校の若者たちは、おおっぴらに銃を持って鹿児島の城下を歩きまわり、政府のやり方を口々に非難して、まさに大きな事変が起こりそうな気配でした。
この形勢にさらに火を注いだのが、中央から送られた密偵でした。中原尚雄(なかはら ひさお)をはじめとする二十三人の鹿児島出身の者たちが、そろって帰郷し、正月六日ごろから鹿児島のあちこちを探って歩いたのです。これを見つけて捕らえた私学校の生徒たちは、西郷を刺し殺しに来た者たちだと激しく怒りました。形勢は刻一刻と、暗く重いものになっていきました。
二月九日の『郵便報知新聞』は、こう伝えています。
「この間から鹿児島県の動静をチラホラ耳にしましたが、滅多なことを掲げて天下の視聴を驚かしては容易ならぬ事と控へて居ましたが、余り噂が甚敷(はなはだし)くなりましたから一寸述べます。三菱会社の赤龍丸は大阪鎮台の御用船となり、去月二十七日鹿児島着同卅一日同所にあるところの弾薬二千箇を滞りなく積入れ、本月一日に千八百箇を積入るべき手筈の際、突然士族輩二千五百人程にて取囲み、此の囲みを出るものは斬り殺すぞと脅し、此の弾薬を悉(ことごと)く持去りたり。依て鎮台士官も赤龍丸に乗組み、直に出帆、六日暮神戸に着せり。林内務少輔は大分県辺巡廻中なりしが、直に引返し、説諭のため鹿児島に出張せらるゝよし」
(このあいだから鹿児島県の動きをちらほら耳にしていましたが、めったなことを書いて世間を驚かせてはたいへんだと控えていました。しかし、あまりにうわさがひどくなったので、少し述べます。三菱会社の赤龍丸は大阪鎮台の御用船となり、先月二十七日に鹿児島に着き、三十一日にそこにある弾薬二千箱を積みこみました。今月一日に千八百箱を積みこむ手はずだったところ、突然、士族たち二千五百人ほどが取り囲み、この囲みから出る者は斬り殺すぞと脅して、弾薬をすべて持ち去りました。そこで鎮台の士官も赤龍丸に乗りこんですぐに出港し、六日の夕暮れに神戸に着きました。林内務少輔は大分県のあたりを回っていましたが、すぐに引き返し、説得のために鹿児島へ出張されるとのことです)
火薬を持ち出したことは、つまり、事実上の挑戦でした。しかも、この火薬にはもう火がつけられていたのです。
西郷はなぜ立ったか
西南戦争のときの西郷の心の内は、はじめからかんたんにはわかりません。事変が起ころうとして騒然としている中で、なぜのんびりと大隅で狩りをしていたのか。俗世を超えた老西郷のことだから、とかんたんに片づけることはできないでしょう。
このとき西郷は五十一歳です。このまま一生、武村(たけむら:鹿児島の西郷の住まいがあった村)の百姓で終わる気持ちもなかったでしょう。
私学校の生徒たちが事を起こしたという知らせを持って、弟の西郷小兵衛(こへえ)が駆けつけると、西郷は、
「おはん達は、何たる事を仕出来したか」
と大声でしかりつけました。けれども、しばらくしてから、
「それでは、俺どんの身体を上げまつせう」
と言ったのは、誰でも知っている話です。
一万三千人の愛する私学校の生徒たちのために命を投げ出す。その気持ちは美しいものですが、同時に、征韓論で政府を去ってから抑えに抑えてきた心のわだかまりが、一万を超える若者たちが揺れ動くのを前にして、いっきに噴き出したのではないでしょうか。
とくに西郷を怒らせたのは、自分に刺客を向けられたということでしょう。政府の考えでは、おそらく単なる密偵のつもりだったのでしょうが、それがいつのまにか暗殺者と言われるようになり、西郷の耳に入って激しく怒らせたのでしょう。維新このかた、国のために力を尽くしてきた自分を、殺させるという法があるか――。これが、西郷が戦争に踏み切った理由の要(かなめ)です。だから、刺客をよこした木戸や大久保を政府から一掃する。そのための、精鋭三万の大軍での上京なのでした。
暗殺というものは、今の私たちにはあまりぴんときません。けれども、維新の動乱の時代にいろいろな暗殺を経験してきた西郷などには、私たちの想像以上に、生々しく差し迫ったものに感じられたのでしょう。
だから西郷が征韓論に敗れたとき、いちはやく身を隠して政府の目をくらましたのも、気持ちの上でいろいろ複雑なものがあったでしょうが、その一部には、暗殺の危険を実にすばやく感じ取ったということがあったにちがいありません。赤坂喰違(くいちがい)の変(明治七年、岩倉具視が襲われた事件)のあと、土佐の林有造(はやし ゆうぞう)が薩摩へ来て西郷に会ったとき、西郷は、
「木戸は俺を殺さうと企んでゐる」
と話しています。ばくぜんとではあっても、身の回りの危険は、かなり前から感じていたのでしょう。政府側の密偵の報告にも、西郷は大隅で狩りをしていても同じ場所に長くとどまらない、とあるのを見ても、それがわかります。
それが、中原尚雄たちを刺客として、はっきり目の前に見たとき、西郷はついに最後の覚悟を決めたのでしょう。大山綱良の名で、征討の将軍に差し出した文の中で、西郷はきっぱりとこう述べています。
「隆盛等を暗殺すべき旨(むね)官吏の者に命じ、事成らざるに発覚に及び候(そうろう)。此(こ)の上は人民激怒の形勢を以て、征討の名を設けられんとする姦謀(かんぼう)、千載(せんざい)の遺憾此の事と存じ奉り候」
(政府は役人に、隆盛たちを暗殺せよと命じたが、果たさないうちに発覚した。このうえは、人々が怒って立ち上がったのを口実に、征討の名目を作ろうという悪だくみであり、千年にわたって悔やまれることだと思う)
けれども、兵を出すと決まるまでには、私学校の人々の意見もいろいろでした。のちに三番大隊長となる永山弥一郎(ながやま やいちろう)は、はっきり出兵に反対しています。西郷・桐野利秋(きりの としあき)・篠原国幹(しのはら くにもと)の三人が東京へ行き、政府を問いただせばよい、というのです。さらに村田三介(むらた さんすけ)は、中原たち刺客の疑いのある者を東京へ護送して、政府の裁きを受けさせるべきだと論じました。
西郷軍の補給の役目を受け持つことになった県令の大山綱良は、兵を連れて東京へ行くと聞いて、こうたずねます。
「聊(いささ)か差出がましいやうですが、多数の兵士を引率して、東京まで無事に行き着けるでせうか」
西郷は答えました。
「いや自分は陸軍大将であるからたとへ全国の兵を率ゆるとも、陛下から特にお許しを受けてゐる次第である」
それでも、大軍が上京するとなれば鎮台の軍隊がじゃまをするだろうが、それをどうするのか、と重ねて聞くと、西郷は、
「途中の県庁の方は、然るべく取計つて貰ひたい」
とかんたんに答えています。
けれども西郷も、血の気の多い三万の兵を率いて、すんなりと東京に出て、天皇のもとに自分の考えを訴えられるとは思っていなかったのです。鎮台は必ずこれを止める。それが戦争です。そこで、「鎮台兵が乱暴を働くから討つ」という言い分が生きてきます。それに加えて、「この西郷を殺すとは何事だツ」という理由があります。矢は、弦を離れたのでした。
だから、事態を収める役目を負って、薩摩出身の海軍大輔、川村純義が軍艦で急いで鹿児島にやって来ましたが、このときにはもう、西郷に会うために上陸することすらできませんでした。
「それ西郷先生が軍艦へ行く。危いからお供をしろ」
私学校の若者たちが押し寄せ、すさまじい光景になりました。川村は危ないと見て、艦をずっと沖へ移しました。艦長の伊東祐亨(いとう すけゆき)が、撃ってもよいかと川村に聞いたほど、私学校党の勢いはすさまじかったのです。
西郷は近衛都督だったころ、この私学校系の兵士を率いるむずかしさを、「破裂弾上に寝る」(破裂弾の上に寝ているようなものだ)とたとえたことがあります。今やその統制は、西郷一人の力ではどうにもならない状態でした。
私学校の生徒たちにとって、川村は同じ薩摩の大先輩であり、西郷の親戚でもあります。しかも温かい手を差しのべようとしてやって来たのです。その川村中将でさえ、政府の一員、敵の一人としてしか見ることができないほど、彼らは心が狭く、とげとげしくなっていたのです。
なぜでしょうか。思うに、日本の南のはしにあったために最後まで取り残されたこの古い一団は、新しい時代の冷たい風が吹きつのるにつれて、たがいに固まり合い、抱き合い、今ではたがいの体温で温め合うところまで追いつめられていたのです。
薩摩の地に人物がいなかったわけではありません。けれども、時代のわかる人々は中央へ出つくしてしまい、古い考えと人情だけで生きる人たちだけが残りました。その不満と反抗だけが固まってできあがったのが、この西郷王国だったとしたら、その最後は、どこまでも悲劇的にならざるをえないではありませんか。
両軍の作戦
西郷の盟友だった山県有朋(やまがた ありとも)は、西郷を討つ作戦を、次のように書いています。
「南隅(なんぐう)破裂するに当り、渠(かれ)の策略その何の点に出づるは量り知るべからずと雖(いえど)も、之を要するに三策に過ぎず。第一には火船に乗じて東京或(ある)ひは浪華(なにわ)に突入すること。第二には長崎及び熊本鎮台を襲撃し、全九州を破り、以て中原に出づること。第三には鹿児島に割拠し以て全国の動揺を窺(うかが)ひ、暗に海内(かいだい)の人心を揣摩(しま)し、時機に投じ以て中原を破ること、恐らくは此の三項の外に出でずと洞察せり。因(よっ)てその何れの点に出づるも、我に在つては他を顧みず、力を一にして鹿児島城に向ひ、海陸並進、桜島湾に突入し、奮闘攻撃し、瞬間鹿児島城を殲滅(せんめつ)するを期して後に止む。而(しこう)して更に中国四国及び両肥等に向つて之を撃破せんも難らず……」
(南の端で反乱が起きたとき、相手がどんな策に出るかはわからないが、まとめれば三つしかない。一つ目は、蒸気船で東京か大阪に乗りこむこと。二つ目は、長崎と熊本鎮台を襲って九州全体を押さえ、それから本州へ出ること。三つ目は、鹿児島に立てこもって全国の動揺をうかがい、ひそかに世の中の人心を読み、時機を見て本州へ攻め上ること。おそらく、この三つのほかにはないと見抜いた。だから、相手がどの手に出ても、こちらはほかに目もくれず、力を一つにして鹿児島の城に向かい、海と陸から同時に進んで桜島の湾(鹿児島湾)に突入し、激しく攻めて、一気に鹿児島の城を打ち滅ぼすまでやめない。そのうえで、さらに中国・四国や、肥前・肥後などに向かって、ほかの勢力を打ち破るのもむずかしくない……)
さすがによく見抜いている、と底本は書いています。要するに、熊本の鎮台を命がけで守ると同時に、全力をあげて相手の拠点の鹿児島をもみつぶせ、というのです。敵は薩摩だけではありません。天下の乱れをうかがう古い考えの人々は、九州にも四国にも東北にもいました。けれども、わき目もふらずに鹿児島の城を落としてしまえば、ほかは問題にならない、というのです。
この作戦がついに成功し、鹿児島を突いた政府軍は、西郷軍の食料の道を断ち、西郷軍を北九州でむなしくさまよい散らばらせることになりました。また各地の政府に反対する勢力も、鹿児島が落ちるとともに、自然に引いていったのです。
これに対して西郷軍の作戦は、結局、九州を順に攻め取り、それから上京する、という変わりばえのしないものになっていました。
けれども、作戦よりも何よりも、西郷軍のいちばんの誤算は、鎮台の兵の戦う力をどう見ていたかでしょう。百姓や町人あがりの兵隊に何ができる、という腹だったのです。戦は武士がするもの、つまり武士がいちばん強いと信じきっていた士族たちが、やがて向き合わなければならなかったのは、すぐれた武器を持ち、近代的な戦い方を身につけた庶民の兵たちの、ねばり強い反撃でした。熊本鎮台の頑強な抵抗がそれです。
けれども一方で、薩摩の勇士たちもまた、よく戦ったと言うべきです。白刃をひらめかせて激しい斬り合いを演じ、少ない兵で雲のように押し寄せる政府軍の陣をおびやかしました。田原坂(たばるざか)の一戦などは、まことに薩摩の勇士たちの真価を余すところなく発揮したものと言えるでしょう。
田原坂の戦いがはかばかしく進まないころ、木戸孝允は岩倉具視にあてた手紙で、こう書いています。
「田原坂口も最初の算用と齟齬(そご)、已(すで)に二十日近く相成候へども、日々百五六十人の死傷、已に傷人のみにても二千五百人之(こ)れある由、死人は未詳、実に大難戦にて御座候」
(田原坂の方面も、はじめの見込みとは食い違い、もう二十日近くになるが、毎日百五、六十人が死んだり傷ついたりしている。けが人だけでも二千五百人いるそうで、死者の数はまだわからない。実にたいへんな苦戦である)
ずいぶん悲観的な言葉です。もっとも木戸は、もともと物事を悲観的に見るくせがあり、このときはちょうど病気だったので、いっそう気が弱くなっていたのでしょう。この手紙から二か月ほどのちに、木戸は病気で亡くなりました。
可愛岳の突破戦
田原坂の戦いのことは、以前『日本合戦譚』に書いたので、ここでは省く、と底本は断っています。
三月十九日、険しい田原坂も背後からの攻撃で抜かれます。これが大きな分かれ目となり、あれほど勇猛を誇った西郷軍も、しだいに負けの色が濃くなっていきました。しかも、次々と新しい兵を加える政府軍の包囲の中で、西郷軍は日ごとに孤立していったのです。
これに対する、総力をあげた反撃が、可愛岳(えのだけ:今の宮崎県延岡市)の突破戦です。
八月十七日、西郷軍は軍議を開きました。辺見十郎太(へんみ じゅうろうた)がこう提案しました。
「敵は嶮(けん:険しい地形)を恃(たの)んでゐるから、必らず守備の薄いところがあらう。若し可愛ケ嶽を突破し得たら、豊後へ出ることが出来るだらう」
袋のねずみのような西郷軍にとっては、このままじっとしていれば全滅です。別府晋介(べっぷ しんすけ)は、
「鹿児島へ戻つて、再挙を計るべしだ」
と反対しました。桐野は黙っていましたが、豊後(ぶんご:今の大分県)へ出るほうに賛成らしい。そこで西郷に決めてもらうと、
「とにかく、可愛ケ嶽を突破してみよう」
ということで、話はまとまりました。西郷はそこで各隊の幹部を集め、こう命じました。
「今日の策は、たゞ一死を奮つて決戦あるのみだ。この際諸君の中に、降らん者は降り、死せんとする者は俺と一緒に死んでくれ」
そして本営になっていた児玉家の庭先で、陸軍大将の制服をはじめ、大切な書類をすべて焼き捨てました。
西郷軍は戦いが始まってから、けが人や病人をいつも連れて歩いてきました。けれども、可愛岳は元気な者でさえ越えるのがむずかしい険しい山です。ここで、いよいよ置いていかなければなりません。西郷は大きな目をくもらせながら、彼らに語りかけました。
「今に及んで言葉もない。心残りの極みだが、傷病兵を殺すのは、万国公法の禁ずるところだから、官軍も恐らく害を加へまい」
そして、「病院」と書いた大きな旗を、児玉家の母屋の屋根の上に高く掲げさせました。
深夜、この一軍はひっそりと出発しました。真っ暗な夜で、地図も持っていません。ただ土地の人の案内にまかせて進むのですが、なにしろ可愛岳のこの方面は、きこりもあまり足を踏み入れないところです。岩角をまたぎ、木の根をよじ登り、兵士たちはみな血まみれになって進んでいきました。
太っていた西郷は、もちろん歩いては越えられません。山駕籠(やまかご)を使いましたが、あまりに坂が急なので、駕籠かきが苦しさのあまり声をあげて泣くありさまでした。
山道を三里(約十二キロメートル)。こうして十八日の午前四時、可愛岳の頂上によじ登りました。ちょうどそのとき、頂上には政府軍の第二旅団が陣を張っていましたが、まさかこんなところに西郷軍が現れるとは夢にも思っていません。食事の支度をしているところへ、辺見をはじめとする荒武者たちが刀を抜いて斬りこみました。政府軍は総崩れになりました。
けれども、この山越えのあいだに、疲れはてて倒れる者、道に迷う者、自ら命を絶つ者、散り散りになる者などが出て、西郷に従ってこの厚い包囲を抜け出すことができたのは、わずか五百人あまりでした。
城山最後の日
明治十年二月十五日、雪をけたてて鹿児島を出発した西郷軍は、百九十九日にわたって各地を転戦し、九月一日、残暑の中をあえぎながら、敗れた姿で鹿児島に戻ってきました。
やがて城山(しろやま:鹿児島市の中心にある山)に立てこもり、ここを最後の地と決めます。西郷はおもに、野村某(のむら なにがし)という人の家の裏手に掘った洞窟に住み、ほかの将たちもそれぞれ洞窟を掘って、雨露をしのぎました。兵士たちは土手の下や石垣のそばに戸板を立てかけ、わらを敷いて、ごろりと横になっています。毛布も布団もなく、食べるものは梅干しと握り飯だけ。しかも、絶え間なく砲弾が落ちてきます。
転戦二百日。硝煙に焼けた顔に目ばかりぎょろつかせながら、辺見十郎太・桐野利秋・別府晋介・村田新八たちは、西郷を囲んで心静かに軍議をしていました。ふしぎなことに、ときには笑い声さえもれてきたのです。
けれども、このとき桐野や辺見たちは、全軍が降伏してでも、せめて西郷の命だけは助けてもらえるよう、ひそかに動き始めていました。河野主一郎(こうの しゅいちろう)は、西郷にはただ「政府軍の本営へ行って、こちらの言い分の正しさを訴えてくる」とだけ言って出発しました。そのとき西郷は笑って、「よし」とだけ答えています。けれども心の中では、桐野たちのはからいを見抜いていたのでしょう。
そのあとで西郷が全軍に出した命令書には、こうあります。
「今般河野主一郎等を敵陣に遣(つか)はし候儀(そうろうぎ)、全く味方の決死を知らしめ、且(か)つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法廷に於て斃(たお)れ候つもりに候間、一統安堵(あんど)し此の城を枕にして、決戦致す可(べ)く候につき、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様に、覚悟肝要に之有るべく候」
(このたび河野主一郎たちを敵の陣へ送ったのは、ひとえに味方が死を決していることを知らせ、また兵を挙げた理由を述べて筋道を通し、法廷で倒れるつもりだからである。だから皆は安心して、この城を枕に決戦するように。いっそう奮い立ち、後の世に恥を残さないよう、覚悟することが大切である)
未練な心を起こすな。今助かっては、死んだ者たちに申しわけが立たない――そう言っているのです。「一統安堵し此の城を枕に」と言ったところに、西郷の悟りがあります。桐野たちは西郷の命だけはと心をくだいていましたが、西郷にしてみれば、この命はもう、桐野たち三万の若者にくれてやったものです。また、ここまで来れば、とても命が助かるはずがないことも、西郷はよくわかっていたのです。
はたして、使者の河野に対して、政府軍の参軍、川村純義は、こう言ったといいます。
「西郷に、子供のことはこの川村が引受けたからと伝へてくれ」
九月二十四日、午前三時五十分。突然、三発の号砲がとどろきわたりました。政府軍のいっせい攻撃です。
この日の戦いの様子と西郷の最期を、のちの首相、犬養毅(いぬかい つよし)が『郵便報知新聞』の特派員として、見事な筆で書き残しています。当時の新聞記者の戦況報告として、なかなか興味深いものです。少し長いけれども引用してみる、と底本は書いて、その記事をそのまま載せています。
「記者は前夜より思ふ仔細(しさい)のありければ、身拵(みごしらえ)をなし脚絆(きゃはん)を着け、足袋までも穿(うが)ちて寝に就きしに、眠られぬ儘(まま)に深しぬ。二時頃になりて少しく眠りし間もなく、県官の起出る物音に眼覚めしは、四時過る頃なりき、直ちに、刎(は)ね起き、草鞋(わらじ)の紐結ぶ間(ま)惜しと、多賀山に駈け上りしは、九月廿四日午前三時を期し一斉に四面攻撃するとの報を洩れ聞きたるを以てなり。此(この)夜は一天晴れ渡り、海面波平(たいら)にして残月影清く、風物爽涼(そうりょう)の響は深渓の嶂霧(しょうむ)を破り、就中(なかんずく)旧城島津邸その他私学校、岩崎辺に渉(わた)りたる七ケ所の火焔は、さながら高き秋天も焦げんばかりに燃上り、目前に看る活地獄、叫喚修羅(きょうかんしゅら)の有様もかくやと坐(そぞろ)に想像せり。かくて夜も明け渡りければ、浄光明寺の砲塁に赴きたりしに、次第に銃声も薄らぎ、六時四十分には戦も止みしかば、記者は直(ただち)に新選旅団の本営なる米倉に赴き、戦況の概略を問ひしに、安村中隊長部下を率ゐて城山を踰(こ)へし時、肥満せる男の駕籠に乗りて過ぐるに出会ひしかば、有無なく銃槍にて無二無三に突き止め、首を刎ねろと安村が一喝の声未だ了(おわ)らざる間に、流丸其の股を貫き、大地に堂(どう)と倒れしかば、隊長を助けんと、少し躊躇する隙に、従僕ならんか何処ともなく一箇の壮漢馳せ来りて、手早く駕籠の内なる男が首級を刎ね、雲を霞と逃げ失せたり、天未だ明けざるの時の事なれば、終にその踪跡(そうせき)を失ひたりしが、死体及びピストルと刀一口(ひとふり)を留め得たるも、その首級なし、然れども、後にこの新選旅団にて打ち留めたりと云へる、肥満の丈夫こそ、全く西郷なりと考定せり。聞く所に拠れば、西郷隆盛は木綿の単衣に脚絆草鞋にて、右手には三寸程の古疵あり、これ先年幕兵と戦ひて傷けるもの、又桐野は面部より脳へかけ疵を蒙(こうむ)り居り、衣服は米沢織を着し居るとのこと」
(記者は前の夜から思うところがあって、身支度をし、脚絆(きゃはん)をつけ、足袋まではいて床についたが、眠れないまま夜がふけた。二時ごろになって少しまどろんだかと思うと、県の役人が起き出す物音で目が覚めた。四時を過ぎたころだった。すぐに飛び起き、わらじのひもを結ぶ間も惜しんで多賀山に駆け上った。九月二十四日午前三時を期して、四方からいっせいに攻撃するという知らせを、ひそかに聞いていたからである。この夜は空が晴れわたり、海は波もおだやかで、明け方の月が清らかに照り、さわやかな風の音が深い谷の霧を破っていた。そのなかで、旧城や島津家の屋敷、私学校、岩崎のあたりなど七か所から火の手が上がり、高い秋の空も焦げるほどに燃え上がった。目の前に見る生き地獄、叫び声の飛びかう修羅場とはこういうものかと、思わず想像した。やがて夜が明け、浄光明寺の砲台へ行ってみると、しだいに銃声も弱まり、六時四十分には戦いがやんだ。記者はすぐに、新選旅団の本営になっている米倉へ行き、戦いのあらましをたずねた。それによると、安村中隊長が部下を率いて城山を越えたとき、駕籠に乗った太った男が通りかかったので、有無を言わせず銃剣で突き止め、「首を斬れ」と安村が叫んだ。その声が終わらないうちに、流れ弾が安村の太ももを貫き、安村はどうと倒れた。皆が隊長を助けようと少しためらったすきに、従者だろうか、どこからともなく一人のたくましい男が走ってきて、すばやく駕籠の中の男の首をはね、たちまち逃げ去った。まだ夜が明けきらないころだったので、ついにその行方はわからなかったが、死体とピストルと刀一振りは残った。首はなかったが、あとでこの旅団が討ち取ったという太った男こそ、まさしく西郷だろうと考えられた。聞くところによると、西郷隆盛は木綿の単衣(ひとえ)に脚絆とわらじという姿で、右の手には、以前、幕府の兵と戦って負った三寸(約九センチメートル)ほどの古傷があるという。また桐野は、顔から頭にかけて傷を負い、米沢織の着物を着て戦っていたという)
別の説によれば、死に場所を求めて、別府と辺見が西郷に従い、岩崎谷の口へ向かいました。
「先生こゝらが如何でせう」
と聞くと、西郷は、
「まだまだ、本道へ出て立派に死にませう」
と答え、なおもゆっくりと進んでいきます。一町(約百メートル)ほど進むと、弾丸が激しくて顔も上げられません。今度は辺見が迫ると、
「まだまだ」
とつぶやきながら、島津応吉郎(おうきちろう)の屋敷の前まで来たとき、飛んできた弾丸が西郷の太ももを貫きました。どしんと前に倒れると、西郷は、
「晋どん、もう此処らがよからう」
と別府をふり返り、はるかに東の方角を拝みます。
「然らば、御免」
と振り下ろす刀の下に、西郷の首は転がりました。従者の吉左衛門(きちざえもん)が、その首を折田正助(おりた しょうすけ)の家の門前に埋めました。
うながされると「まだまだ」と言いながら、傷を負うと「ここがよい」と言うあたり、生も死も一つと悟った禅僧のような最期です。このあたりが、西郷がいつまでも国民に人気がある理由の一つでもあるのでしょう。
けれども、西南戦争ははっきりとした反逆である。その動機や西郷の心の内がどうであろうと、国の筋道の上から言えば、その罪は十分に責められるべきだと思う――と、底本は結んでいます。
雪の鹿児島を出た一万三千の兵は、二百日ののち、城山の秋に散りました。維新をともに成し遂げた人々が、敵と味方に分かれて戦った最後の戦いです。そしてこの年から翌年にかけて、維新の三傑と呼ばれた西郷・木戸・大久保が、次々とこの世を去っていきます。次の回では、三人がいなくなったあとの政府で、大隈重信と伊藤博文がぶつかった「明治十四年の政変」を読みます。

