乃木式名将たる人格者
日露戦争において最も困難を極め、甚大な犠牲者を出した旅順港攻略戦。悪戦苦闘であった当年の乃木軍(第三軍)において、司令官たり得る主将は誰であろうか。
三軍叱咤(しった)の戦将は雲のごとく、帷幄(いあく:本陣)で画策する謀将は林のごとくにあるかも知れないが、惨憺悲壮(さんたんひそう)の悪戦に処して動かず、状況不利の戦局を迎えて驚かず、部下をして「望んで山岳よりも重きを感じさせ、喜んで死に驀進(ばくしん)せしめる」ほどの徳望ある将帥は、実に五指を屈するに過ぎないであろうが、一戸兵衛こそは、確かにその一指に値する人物であると言って過言ではあるまい。
旅順攻城戦のごとき悪戦における主将としては、用兵の術や作戦の謀よりも、不屈不撓(ふくつふとう)の胆勇気概と、部下をして死をも楽しませしめるほどの徳量が最も必要な条件となるのである。しかも用兵・作戦の事は、聡明俊敏なる参謀をもって補い得るべきも、胆勇と徳量とは他人の補佐をもってしても得難いのである。ゆえにその人に乏しく、従ってその人の尊ばるる所以であるが、一戸兵衛はまさにこれらの資質を具(そな)えた人物であったのである。
一戸は安政2年(1855年)6月20日をもって、陸奥の津軽藩(弘前)に生まれた。幼少の頃は頭脳鋭敏・才気煥発というではなく、むしろ凡庸(ぼんよう)であって、彼の大成は一に勤勉努力の賜物であった。藩の塾および藩黌(はんこう:藩校)において漢学を修めたが、青雲の志やみ難く、明治7年、20歳の時、家を出奔して東京に出た。この時、友人と共に二百余里の長途を足駄(あしだ:下駄)がけで歩き続けたのであった。
その年10月3日、陸軍兵学校寮内の戸山学校に入学した。が、その成績はさほど異彩を放つという事はなく、平凡にして卒業し、明治9年2月に陸軍少尉試補となり、歩兵第二連隊(宇都宮)の小隊長に任ぜられた。西南戦争に初陣し、皆越の戦闘で重傷を負ったが、幸いに助かった。戦時中に少尉になったが、ここに彼の将校生活の第一頁が開かれたのである。

日清戦争の大隊長
爾後(じご:それ以後)累進(るいしん:地位などが次々に進み上位にのぼること)し、日清戦争には少佐で第五師団歩兵第十一連隊大隊長であったが、選ばれて大島混成旅団の先発隊となり、急遽京城(ソウル)に入ってまず先制の利を占め、それより旅団に属して平壌に戦い、九連城を抜いた。
明治27年11月、中佐に進級すると共に第五師団の参謀となり、また翌年3月には歩兵第二十一連隊長に転じて凱旋(がいせん:戦いに勝利して故郷や自分の陣営に帰ってくること)した。
戦後、第五師団副官、留守第四師団参謀長、中部都督部参謀を経て、近衛歩兵第四連隊長に補せられた。この連隊長時代は、身をもって部下を指導し、その成績大いに挙がった。ことのほか意を用いたのは将校教育であって、国軍の精鋭は、一に将校の素質の向上によってのみ期し得るとなし、自らその教育に当たるのみならず、広く権威を集めて知識を求めた。
京都西本願寺の傑僧・赤松連城のごときも、一戸に招かれて講演をしたことがある。「世間滔々(とうとう)として名利に沈淪(ちんりん)し、この間ただ一人義を取って動かないものは、ただ将校あるのみである」という赤松の言を、一戸が大いに敬服したと後日語っているのは、実にこの時のことである。
しかし連隊長は一年足らずにして、翌年10月、第六師団参謀長に転じて熊本に赴任し、そこで三年近くの日子を閲し(にっしをけみし:年月を過ごす)、明治34年5月、陸軍少将に進み歩兵第六旅団長に補せられて金沢に赴任した。ここで日露戦争に際会したのである。

旅順における一戸猛将
これまでの一戸の経歴は、時に参謀として謀議参画の任に在ったこともあったが、多くは軍隊と直接して、戦将としての経験を積んで来たのである。そして今、旅団長在任満三年、二十数年の体験をもって訓練したこの旅団を提げて投じた旅順の攻略戦こそは、真に彼のかねて望んだ晴れの舞台であったのである。
旅順における一戸旅団長は、まさに生ける軍神であった。一戸の一戸たる真価はここに発揮され、偉人たるの実を如実に示したものであるが、中にも竹帛(ちくはく:歴史)に燦(さん)たる光彩を放つものは、「一戸堡塁(ほうるい:敵の攻撃を防ぐため、または敵を攻撃するために石・土砂・コンクリートなどで構築された独立した陣地)」の奪取である。
明治37年10月26日、第三軍は、一挙に旅順の堅城を屠(ほふ)らずんばやまざるの決心をもって、第二次総攻撃を開始したのであるが、第九師団は二龍山およびP堡塁の攻撃を命ぜられた。一戸旅団はP堡塁に主力を傾注し、激戦五日、30日午後五時に至り、ようやくこれを占領するを得た。が、頑強なる敵はなおも咽喉部に踏み止まって抵抗し、かつ夜に入るまで数回逆襲し、多数の将卒はバタバタと将棋倒しに斃(たお)れ、将(まさ)に一部を奪還されんとする危機にも遭遇したが、辛うじて敵を撃退したのである。
しかるに同夜十一時半頃、露軍の決死隊四、五百名は、手に手に爆裂弾を持ち、比隣砲台の熾烈なる援護射撃と白昼を欺く閃々(せんせん)たる照明灯の応援の下に、決然として逆襲を敢行して来た。
殷々(いんいん:雷や太鼓などが「大きく鳴り響くさま」や、「物事が非常に盛んで勢いがある様子」を表す言葉)として天地にどよめく銃砲の響き! 轟々として四隣にとどろく爆弾の音! 爆煙・砂塵渦巻き、喊声(かんせい)は叫喚と和し、叱咤(しった)は怒号と合し、実にP堡塁の上は一面の火の海、坤軸(こんじく:大地の軸)はために傾くかと怪まれた。この間、彼我の態勢いかにと見れば、我が軍には既に爆薬銃弾尽き、死傷続出し、恨みを呑んでの退却は、もはや分秒の間に迫れるかのごとくであった。
時に堡塁の直下にあって、黙々と眠れるがごとくであった一戸は、この危機切迫の急報に接するや、
「よし、俺が行く!」
と、旅団予備隊の来着をも待たず、あたかも怒れる獅子のごとくに蹶起(けっき)した。一度起てば鬼神のごとく、敵弾雨飛の間を交通壕にも拠らず、かの六尺(約180cm)近い長躯を暴露しつつ、第一線に突進して督戦(とくせん)し、白刃を抜き放って、続いて急進し来った予備隊の先頭に立って叱咤すれば、士気たちまち倍加し、完全に敵を撃退し、その占領を確実にしたのみならず、さらに占領地域を拡張したのであった。
この第二次総攻撃は、遺憾ながら各方面ともに失敗に帰したが、ひとりP堡塁のみはこれを確実に占領し、旅順の陥落を一歩進めたものであった。この報は畏(かしこ)くも天聴(天皇のお耳)に達し、大本営よりP堡塁は「一戸堡塁」と命名され、永久に彼の武勲を表彰する記念碑となったのである。
当時の師団長・大島久直は、後日彼を評して言った。
「主将の資格は、戦争中に生ずる悲惨なる光景に心を動かさず、不利なる状況に自恃心(じじしん:プライド)を失わず、あくまでその目的を遂行する堅確なる意志を有しなければならない。一戸少将のごときは、確かにその人なるを認めざるを得ない」
と。けだし適切な評語であろう。

乃木大将に重視さる
旅順陥落後、第三軍は馬首を北方に転じて、長駆・満州軍の左翼に進み、奉天会戦に敵右翼包囲の大迂回運動を試みて見事に成功したが、一戸の勇は常に寡(少)をもって衆(多)を制し、敗を転じて勝としたものであった。
されば乃木軍司令官は、彼を衷心より信頼し、奉天会戦後、軍参謀長・松永正敏の後任として彼を起用した。かくして戦局の発展と共に彼の策謀もいよいよ発揮されんとしていたが、戦局は同会戦をもって停止し、やがて講和となった。
戦後、歩兵第一旅団長、中将に進んで第十七師団長となり、次いで第四師団長および第一師団長に転じ、大正4年(1915年)2月、軍事参議官に補せられ、同8年に大将に任ぜられた。そしてその12月には、上原勇作に代わって教育総監の重職に就き、軍事参議官を兼ねた。
大正8年8月、教育総監を免ぜられ、軍事参議官専任となったが、翌9年6月、停年に達して現役を退いた。これより先、5月に学習院長を兼ねたが、現役を退いてからはこれに専任し、足掛三年の奉公の後、大正11年11月に学習院長を辞めた。
大正13年9月、明治神宮宮司を仰せ付けられ、大正15年2月には帝国在郷軍人会会長を嘱託された。
その徳望は彼を安逸たらしめず、他人の容易に就き得ない椅子に、望まずして就かしめられるのが常であった。

努力勤勉にして大成す
一戸は知識才能が優れたものではなかったが、誠実にして努力勤勉、不屈不撓の勇猛心が、ついに彼を大成せしめたのである。しかも彼は秋毫(しゅうごう:少しも)の私心なく、謙譲にして倹素、身を持することあくまで厳なるに反し、部下に臨むには慈愛と寛宏とをもってした。ゆえに至る処その部下は彼の徳になつき、彼の部下として死地を得んことを希(ねが)った。軍部の将も人たる以上、時に非難の声を放たるるのもまたやむを得ないところであるが、一戸に対する非難は、ほとんど聞かれなかったという。もって彼の人格高邁(こうまい:志や理念、精神が非常に高く、一般のレベルを抜きんでて優れていること)の一証とするに足るであろう。
彼はかつてこう言ったことがある。
「私は旅団長になった時でも、師団長になった時でも、就任の時の訓示は、いつでも『皆、自分の通りにせよ』ということにしておった。」
身をもって範を垂れたのであるが、この事は容易に出来ることではなく、またこの事は容易に言われ得ることではない。しかも一戸はこれを言い、またこれを実行していたのである。
昭和2年(1927年)の夏頃より胃潰瘍を病んだ彼は、時に消長はあったが、結局これを死病とし、昭和6年(1931年)5月、病床に臥して再び起たず、9月2日永眠した。享年77であった。


