「ようし、俺が行く!」
明治三十七年(1904年)十月三十日の夜、旅順の堡塁(ほるい:土や石で固めた砦)の真下で、眠るように黙っていた一人の旅団長が立ち上がりました。弾薬は尽き、死傷者は続出し、退却は分秒の間に迫っています。予備隊の到着も待たず、六尺近い長身をさらして第一線へ走ったこの人の名は、一戸兵衛(いちのへ ひょうえ)。その堡塁は、のちに「一戸堡塁」と名づけられました。
乃木式名将たる人格者
日露戦争以後、もしも日露戦争における旅順攻略戦のような悪戦があったとしたら、当時の乃木軍司令官にあたる主将になれる人は誰でしょうか。三軍を叱咤(しった)する戦将は雲のように、本営で策をめぐらす謀将は林のようにいるかもしれません。けれども、悲惨で痛ましい悪戦に処して動かず、不利な戦局を迎えて驚かず、部下に自分を仰いで山岳よりも重いと感じさせ、喜んで死へ突き進ませるだけの徳望ある将帥は、実に五指を屈するほどしかいないでしょう。一戸兵衛こそ、確かにその一指に値する人物だと言って過言ではありません。
旅順攻略戦のような悪戦における主将としては、用兵の術や作戦の謀よりも、不屈不撓(ふくつふとう:どんな困難にもくじけない)の胆勇(たんゆう:度胸と勇気)と、部下に死をも楽しませるほどの徳量とが、なにより必要な条件となるのです。しかも用兵作戦のことは聡明で俊敏な参謀によって補うことができますが、胆勇と徳量とは他人の補佐で補うことができません。だからその人に乏しく、したがってその人が尊ばれるのですが、一戸兵衛はまさにこれらの資質を備えた人物でした。
一戸は安政二年(1855年)六月二十日、陸奥(むつ)の津軽藩(弘前)に生まれました。幼少のころは頭脳鋭敏、才気煥発(かんぱつ)というのではなく、むしろ凡庸で、彼の大成はひとえに勤勉努力のたまものです。少年時代は私塾と藩校で漢学を修めましたが、青雲の志はおさえがたく、明治七年(1874年)二十歳のとき、家を出奔して東京に出ました。このとき友人とともに二百余里(約800キロ)の長い道のりを、足駄(あしだ:高下駄)がけで歩き続けたのでした。その十月三日、陸軍兵学寮の戸山学校に入学しましたが、その成績はさほど異彩を放つというものではなく、平凡に卒業し、明治九年(1876年)二月に陸軍少尉試補となって、歩兵第二連隊(宇都宮)の小隊長に任じられました。西南戦争に初陣し、ここに彼の将校生活の第一ページが開かれたのです。戦時中に少尉になりましたが、戦闘で重傷を負い、幸いに助かっています。

日清戦争の大隊長
日清戦争には、少佐で第五師団歩兵第十一連隊の大隊長でしたが、選ばれて大島混成旅団に属し、急いで京城(けいじょう:現在のソウル)に入ってまず先制の利を占め、それより平壌(へいじょう)に戦い、九連城(きゅうれんじょう)攻略の先発隊となってこれを攻め落としました。十一月、中佐に進級するとともに第五師団の参謀となり、また翌年三月には歩兵第二十一連隊長に転じて凱旋(がいせん)しました。
戦後は第五師団副官、留守第四師団参謀長、中部都督部参謀を経て、近衛歩兵第四連隊長となります。この連隊長時代には、国軍の精鋭は将校の素質の向上によってのみ期待できると考えて、ことに将校教育に意を用い、自ら身をもって部下を指導し、その成績は大いに上がったのです。自分で教育にあたるだけでなく、広く権威ある人々を招いて知識を求めました。京都西本願寺の傑僧・赤松連城(あかまつ れんじょう)なども、一戸に招かれて講演をしたことがあります。「世間がひそかに名利に沈んでいるなかで、ただ一人義を取って動かないものは、ただ将校あるのみである」という赤松の言葉に一戸が大いに敬服したと後日語っているのは、まさにこのときのことです。
しかし連隊長は一年足らずで、翌年十月、第六師団参謀長に転じて熊本に赴任し、そこで三年近くを過ごしました。明治三十四年(1901年)五月、陸軍少将に進んで歩兵第六旅団長に任じられ、金沢に赴任します。ここで日露戦争に出会ったのです。

旅順における一戸猛将
これまでの一戸の経歴は、時に参謀として作戦の立案にあたったこともありましたが、多くは軍隊に直接ふれて、戦将としての経験を積んできたものでした。そして今、旅団長在任まる三年、二十数年の体験をもって訓練したこの旅団を率いて投じた旅順の攻略戦こそ、彼がかねて望んだ晴れの舞台だったのです。旅順における一戸旅団長は、まさに「生ける軍神」でした。一戸の真価はここに発揮され、偉人であることの実を示したのですが、なかでも歴史に燦(さん)たる光彩を放つのは、一戸堡塁の奪取です。
明治三十七年(1904年)十月二十六日、第三軍は一挙に旅順の堅城を屠(ほふ)らずにはおかないという決心で第二回総攻撃を開始し、第九師団は二龍山(にりゅうざん)およびP堡塁の攻撃を命じられました。一戸旅団はP堡塁に主力を傾け、激戦五日、三十日午後五時に至ってようやくこれを占領することができました。しかし頑強な敵はなお喉元(のどもと)の部分に踏みとどまって抵抗し、夜に入るまで数回逆襲してきます。多数の将兵がばたばたと将棋倒しに倒れ、まさに一部を奪い返されようとする危機にも遭遇しましたが、かろうじて敵を撃退しました。
ところが同じ夜の十一時半ごろ、ロシア軍の決死隊四、五百名が手に手に爆裂弾を持ち、隣の砲台からのはげしい援護射撃と、白昼かと見まがう照明灯の応援のもとに、決然として逆襲を敢行してきました。天地にどよめく銃砲の響き。四方にとどろく爆弾の音。爆煙がほとばしり、砂塵(さじん)が渦を巻き、鬨(とき)の声は叫喚(きょうかん)と和し、叱咤は怒号と合して、堡塁の上は一面の火の海、大地の軸が傾くかとあやしまれるほどでした。このあいだ、彼我の態勢を見れば、わが軍にはすでに爆薬も銃弾も尽き、死傷者が続出して、恨みをのんでの退却は、もはや分秒の間に迫っているかのようでした。

そのとき、堡塁の直下にあって黙々と眠っているかのようだった一戸は、この危機切迫の急報に接するや、
「ようし、俺が行く!」
と、旅団予備隊の到着をも待たず、あたかも怒れる獅子のように立ち上がりました。ひとたび立てば、敵弾が雨のように飛ぶなかを、交通壕(こうつうごう:移動用の塹壕)にもよらず、かの六尺(約180センチ)近い長身をさらしながら第一線に突進し、鬼神のように白刃を抜き放って、続いて急いで駆けつけた予備隊の先頭に立って叱咤し、督戦(とくせん:味方を励まし戦わせること)しました。士気はたちまち倍加し、完全に敵を撃退してその占領を確実にしたばかりでなく、さらに占領地域を広げたのです。この第二回総攻撃は、遺憾ながら各方面ともに失敗に帰しましたが、ただP堡塁だけはこれを確実に占領し、旅順の陥落を一歩進めたのでした。この報はおそれ多くも天皇の耳に達し、大本営からP堡塁は「一戸堡塁」と命名されて、永久に彼の武勲を表彰する記念碑となったのです。
当時の師団長・大島久直(おおしま ひさなお)は、後日彼を評して言いました。
「主将の資格は、戦争中に生じる悲惨な光景に心を動かさず、不利な状況に自分を信じる心を失わず、あくまでその目的を遂行する堅確な意志を持っていなければならない。一戸少将のごときは、確かにその人であることを認めざるをえない」
まことに適切な評語でしょう。

乃木大将に重視さる
旅順陥落後、第三軍は馬首を北方に転じて、はるばる満洲軍の左翼に進み、奉天会戦(ほうてんかいせん)で敵の右翼を包囲する大迂回(うかい)運動を試みてみごとに成功しましたが、一戸の勇はつねに少数をもって多数を制し、敗を転じて勝としたものでした。だから乃木軍司令官は心から彼を信頼し、奉天会戦後、軍参謀長・松永正敏(まつなが まさとし)の後任として彼を起用しました。こうして戦局の発展とともに彼の策謀もいよいよ発揮されようとしていましたが、戦局はこの会戦をもって停止し、やがて講和となります。
戦後は歩兵第一旅団長、中将に進んで第十七師団長となり、次いで第四師団長および第一師団長に転じ、大正四年(1915年)二月に軍事参議官に任じられ、同じ年の八月に大将に任じられました。そしてその十二月には、上原勇作(うえはら ゆうさく)に代わって教育総監の重職に就き、軍事参議官を兼ねています。大正八年(1919年)八月に教育総監を免じられて軍事参議官専任となりましたが、翌九年六月に停年に達して現役を退きました。これより先の五月に学習院長を兼ねていましたが、現役を退いてからはこれに専任し、足かけ三年の奉公ののち、大正十一年(1922年)十一月に学習院長を辞めています。大正十三年(1924年)九月、明治神宮宮司を仰せつけられ、同十五年(1926年)二月には帝国在郷軍人会長を嘱託されました。その徳望は彼を安逸にさせず、他人が容易に就くことのできない椅子に、望まずして就かされるのが常だったのです。

努力勤勉にして大成す
一戸は知識や才能がすぐれていたわけではありませんが、誠実で努力勤勉、不屈不撓の勇猛心が、ついに彼を大成させたのです。しかも彼は少しの私心もなく、謙譲で倹素、身を持すること(みをじすること:自分を律すること)はあくまできびしいのに対して、部下に臨むには慈愛と寛大さをもってしました。だからいたるところでその部下は彼の徳になつき、彼の部下として死に場所を得たいと願ったのです。軍の将も人である以上、時に非難の声を浴びせられるのもまたやむをえないところですが、一戸に対する非難はほとんど聞かれなかったといいます。彼の人格の高さを示す一つの証拠とするに足るでしょう。
彼はかつてこう言ったことがあります。
「私は旅団長になったときでも、師団長になったときでも、就任のときの訓示は、いつでも『皆、自分のとおりにせよ』ということにしていた」
身をもって手本を示したのですが、このことは容易にできることではなく、また容易に言えることでもありません。しかも一戸はこれを言い、またこれを実行していたのです。
昭和二年(1927年)の夏ごろから胃潰瘍(いかいよう)を病んだ彼は、時に良くなったり悪くなったりしましたが、結局これが死病となり、昭和六年(1931年)五月に病床について再び起たず、九月二日に永眠しました。享年七十七でした。


