第1章:鉄の暴風が吹き荒れた島――伊江島という場所を知ること
沖縄本島北部、本部港(もとぶこう)からフェリーでわずか30分。
目の前に現れるのは、穏やかな青い海と、島の中央にポコンと突き出た小さな山、城山(ぐすくやま)です。標高172メートル、地元では「タッチュー」と呼ばれる、丸みを帯びたその頂きは、どこか愛嬌があって、見る者を温かい気持ちにさせてくれます。
島の北西岸に目を向けると、60メートルを超える断崖絶壁の下から、今も真水が湧き出ている場所があります。「湧出(わじぃー)」と呼ばれるその場所は、伊江村指定の名勝地であり、古くから島人の命をつないできた水源です。
伊江村史によれば、この場所はかつて漂流者と一緒に流れ着いた馬が、海水の中で水をゴクゴクと飲んでいたことから発見されたと伝えられています。不思議に思った漂流者が飲んでみると、それが真水だったというのです。以来、島の人々はその断崖の険しい岩間を降り、命がけで水を汲みに通い続けました。この馬はやがて岩になったと伝えられ、今でも「ウマノハンジ(馬のたてがみ)」と呼ばれる岩が拝所(うがんじゅ:祈りを捧げる聖なる場所)として残っています。
海に囲まれながら、一滴の真水を得るためにも命がけだった島。その「命と水」の物語は、後に語る戦争と土地の話と、深いところで静かに響き合っています。





そう。
今から80年前、この穏やかな島の空は、真っ黒に染まっていました。
1945年(昭和20年)4月16日。太平洋戦争の末期、米軍第77歩兵師団が伊江島に上陸。日本本土への上陸拠点として、この島に建設されていた飛行場を接収するためでした。
総務省の公式記録「伊江村における戦災の状況」には、こう記されています。
「伊江島の戦闘による日本側の死者は、軍人約2,000名、村民約1,500名に達した。一家全滅家族が90戸という惨状であった」
米軍が島を制圧した21日までの戦死者は、米軍239人に対し、日本側は住民約1,500人を含む約4,800人。当時、島に残っていた住民は約4,000人でした。つまり残留した島民の実に3人に1人以上が、わずか6日間の戦闘で命を落としたことになります。沖縄戦の中でも、最も高い住民死亡率の一つとして記録されている島です。
沖縄県平和祈念資料館が収集した証言記録に、当時17歳だった玉城キクさんの言葉があります。
「川平地区へ避難できず、別の壕に隠れていました。3歳と1歳半の妹がいました。この妹たちがひどく泣くのです。それで、一緒に壕の中にいた人々から、『この子どもたちを殺せ』と言うのです。この妹たちを殺すことはできません・・・」
17歳の少女が、戦場の壕(ごう:岩や土を掘って作った避難場所)の中で、幼い妹たちを守ろうとしながら、その言葉を聞いた。これは遠い昔の話ではありません。今から80年前、この同じ青い空の下で起きたことです。
伊江島は「沖縄戦の縮図」と呼ばれています。総務省の公式記録にも「戦闘の激烈さや住民犠牲の大きさだけでなく、最も早い時期の飛行場建設からはじまり、住民の疎開、徴用と勤労奉仕、空襲と艦砲射撃、防衛隊・義勇隊の戦闘参加があげられる」と、その凄惨さが記されています。
しかし、この島の歴史が本当に伝えたい部分は、戦争の悲惨さだけではありません。
むしろ、その後にあります。
焦土(しょうど:焼け野原になった土地)と化した島に戻ってきた人々が、銃剣とブルドーザーで土地を奪われながら、それでも「武器を持たず、怒りを憎しみに変えず」に立ち上がった、一人の農民の話があります。
その人の名を、阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)といいます。
飛行場が島を変えた――戦争が始まる前の伊江島
伊江島に戦争の影が落ちてきたのは、1943年(昭和18年)の夏のことでした。
陸軍航空本部が、この島に飛行場を建設することを決めたのです。当時「東洋一」とも言われた規模の飛行場建設のため、島の農民たちは自分たちの畑を取り上げられ、勤労奉仕(きんろうほうし:賃金なしで働かされること)に動員されていきました。
総務省の公式記録によれば、1944年10月10日の「十・十空襲(じゅうじゅうくうしゅう)」で、島の唯一の交通手段であった船舶2隻が爆撃を受け、通信網・交通網が遮断され、40余名の死者が出ました。これが伊江島における最初の犠牲者でした。
その後も1945年1月、3月と空襲が続き、同年3月28日からは「1平方メートルに1弾打ち込まれる」と表現されるほどの艦砲射撃(かんぽうしゃげき:軍艦の大砲による砲撃)が2週間にわたって続きました。
断崖の岩間を降りて水を汲みに通った、あの穏やかな島の日常が、戦争によって完全に塗り替えられていく。その過程の中で、島民たちはただ翻弄(ほんろう)され続けていったのです。
アハシャガマの悲劇――命が命を奪った日
1945年4月16日、米軍が上陸してから6日間の戦闘の中で、最も心が痛む出来事の一つが、「アハシャガマ」での悲劇です。
アハシャガマとは、伊江島北東部にある自然の洞穴です。そこに多くの住民が避難していました。4月22日、日本兵が機雷(きらい:爆発物の一種)とともにその洞穴に飛び込み、避難していた住民たちを含む約150人が命を失いました。
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」。これは当時の軍の教育方針「戦陣訓(せんじんくん)」に記された言葉です。捕虜になるくらいなら死ねという思想が、軍人だけでなく、一般の島民にまで浸透していたのです。
総務省の公式記録はこう記しています。「スパイ容疑の濡れ衣を恐れるあまり、戦闘終結後も長く洞穴にたてこもって投降を拒否しつづける住民も少なくなく、日本兵からスパイ容疑で処刑されたものや、自然壕で集団自決する壕もあった」と。
命が、命を奪っていく。その連鎖の中で、伊江島の人々は1,500人という、取り返しのつかない命を失いました。
この事実から目を背けることなく、しかし恨みと憎しみの連鎖を断ち切って生きることを選んだ人が、戦後の伊江島にいました。それが阿波根昌鴻という人物です。



第2章:武器を持たずに立ち向かった農民――阿波根昌鴻と「命こそ宝」の精神
戦争が終わっても、伊江島に平和は来ませんでした。
1945年4月、米軍が島を占領すると、島の63%が米軍基地として接収(せっしゅう:国や軍が強制的に土地や財産を取り上げること)されました。農民たちは自分の畑に戻ることすら許されず、着の身着のままで島の外へ追い出されていきました。
総務省の公式記録によれば、戦闘終結後、島の住民約2,100名は南海岸の収容所に集められ、その後、渡嘉敷島(とかしきじま)へ移送されました。渡嘉敷島でも食料難と栄養失調が続き、さらに1946年4月には沖縄本島の久志村(くしそん:現在の名護市久志区)へ移動を命じられました。そこでもマラリアが蔓延(まんえん)し、多くの命が失われていきました。
そして1948年8月6日。戦争が終わって3年が経ったというのに、伊江島の港で米軍の上陸用舟艇に積まれていた未使用砲弾が爆発し、島民107人が亡くなりました。戦後最大の事故でした。
苦難が、次々と押し寄せてくる。そんな中、一人の農民が静かに立ち上がりました。
阿波根昌鴻。1901年生まれ。沖縄県本部町(もとぶちょう)出身で、若い頃にキューバ・ペルーへ移民として渡り、農業で生計を立てていた人物です。戦時中に一人息子を沖縄本島の戦場で失い、自らも伊江島の戦場を生き延びました。
彼が選んだ戦い方は、銃でも暴力でもありませんでした。
「陳情規定」――怒りを力に変えない、魂の戦い方
1954年、阿波根昌鴻は島の農民たちとともに、ある文書を作りました。それが「陳情規定(ちんじょうきてい)」です。
これは、米軍との交渉や陳情(ちんじょう:権力者に対して事情を訴えること)を行う際の、農民たちの行動指針でした。東京弁護士会の機関誌『LIBRA』(2017年7月号)に掲載された資料調査によれば、その内容はこう始まります。
「これから鬼畜とたたかうには、こちらは人間になる。鬼畜を討ち滅ぼす事は難しい。生き返ってくる。だから鬼畜であるアメリカ人を人間に教育する。子どもを教えるように誠意をもって教えていく」
この文章を読んだとき、僕は思わず立ち止まりました。
息子を戦場で失い、土地を奪われ、食料も住む場所も奪われた人間が書いた言葉とは、到底思えません。怒りも憎しみも、当然あったはずです。しかし阿波根は、その怒りを相手を打ち倒す力に変えるのではなく、相手を人間として教え導く誠意に変えることを選んだのです。
陳情規定にはさらにこう続きます。
「人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍事に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること」
農民は生産者であり、軍人は破壊者である。だから人間としての深さにおいて、農民は軍人に優っている。その誇りと自覚を持って、誠意をもって交渉せよ、と。
これは単なる「おとなしくしなさい」という諦めの言葉ではありません。むしろ、深い人間的な誇りと、相手への徹底した誠実さから生まれた、魂の戦略だったのです。
日本の心が大切にしてきた「誠を尽くし切れば、動かせないものはない」という信念。その言葉の意味を、阿波根は行動で体現しようとしていました。
「乞食行進」――恥を捨て、命をかけて訴えた農民たち
1955年から56年にかけて、阿波根昌鴻は島の農民たちとともに、ある行動を起こしました。
「乞食行進(こじきこうしん)」と呼ばれる行脚(あんぎゃ:歩いて各地を回ること)です。
米軍による土地の強制接収(「銃剣とブルドーザー」と呼ばれた:武装した兵士とブルドーザーで農民を追い出し、土地を接収したことから)に抗議するため、農民たちは那覇の琉球政府前まで歩いて陳情に向かいました。その姿が「乞食のようだ」と言われたことから、この名がついたとされています。
原爆の図丸木美術館が所蔵する資料によれば、阿波根はこの時期、島で唯一のカメラを入手し、米軍の横暴や農民たちの姿を記録し始めました。写真を武器を持たない抵抗の手段として使ったのです。
その後、阿波根たちの訴えは「島ぐるみ闘争」として沖縄全体に広がっていきました。1965年には島民の名前を連ねた陳情書を首相宛てに提出したことが、琉球新報の資料調査によって明らかになっています。その陳情書には、食料不足や米軍演習による被害など、島民の苦しい様子が切々と記されていました。
陳情書に名を連ねた島民の平安山良有(へんざんりょうゆう)さんは後にこう振り返っています。「(戦後は)米軍に畑を取られ作物が作れず、食べ物が無くて苦しかった。阿波根さんは進んだ考えの人。優しかった」と。
「優しかった」。その一言が、阿波根という人物の本質を、すべて語っているような気がします。怒りを持ちながら、優しくある。それは、最も難しく、最も深い人間の強さではないでしょうか。
「ヌチドゥタカラの家」――怒りではなく、愛を遺した人
1984年6月23日、沖縄の慰霊の日(いれいのひ)。
阿波根昌鴻は、伊江島に反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家(いのちこそたからのいえ)」を、自費で建設しました。「ヌチドゥタカラ」とは沖縄の言葉で「命こそ宝」という意味です。
この資料館には、戦争の記録、土地闘争の記録、そして陳情規定が今も張り出されています。阿波根が生涯をかけて訴え続けたことは、一言でまとめればこうです。
「武器を捨てなさい」
息子を戦場で失い、土地を奪われ、仲間を失い、それでも半世紀以上にわたって非暴力で訴え続けた人間が、最後に遺した言葉が「武器を捨てなさい」だったのです。
阿波根昌鴻は2002年、101歳で亡くなりました。
彼の著書『命こそ宝』(岩波新書)『米軍と農民』(岩波新書)は、今も読み継がれています。その言葉の一つひとつに、怒りではなく、深い愛と悲しみと、それでも人間を信じようとする意志が宿っています。
「沖縄のガンジー」と呼ばれた阿波根。しかし彼はガンジーを手本にしたのではなく、ただ「命こそ宝」という、自分の魂の声に従って生きただけだったのかもしれません。
土地をめぐる、もう一つの現実
阿波根昌鴻たちが命をかけて守ろうとした「土地」は、その後、全く別の姿を帯びていきました。
1972年の沖縄本土復帰以降、米軍に接収されたままの土地については、日本政府が地主に対して毎年「軍用地料」と呼ばれる借地料を支払う仕組みが整えられていきました。国が借主となるため支払いが滞ることはなく、しかも借地料は復帰以降ほぼ毎年少しずつ上がり続けています。
島を訪れた際に、島の方からこんな話を聞いたことがあります。
「土地を取られた人が、みんな気の毒な目に遭ってるかというと、そうとも言えない。軍用地になったまま何十年も国からお金をもらい続けて、島の外の都会にマンションを買って暮らしている人もいる。一方で、そんな土地を持たない島民は、毎日農業や漁業で汗を流して生きている。同じ島で生まれ育った者同士なのに、持っている土地の違いで暮らしがまるで変わってしまった」と。
実際、沖縄県基地対策課のまとめ(2013年)によれば、県内の軍用地主のうち軍用地料の受取額は大部分が年間200万円未満であり、「全員が高額収入」という実態ではありません。しかし一方で、広い面積の土地を接収された地主の中には、相当額の地料を受け取り続けているケースも存在します。また、沖縄県軍用地等地主会連合会の資料によれば、軍用地は一般の不動産市場で自由に売買されており、土地を相続・売却して島外に移住した地主も一定数います。
かつて阿波根たちが命がけで守ろうとしたのは、耕して作物を育て、命をつないでいくための「生きた土地」でした。しかし時代が変わる中で、その土地は農業の糧(かて)としてではなく、金銭的な資産として機能するようになっていきました。
思えば、湧出の水をめぐって断崖の岩間を命がけで降りていた時代から、島の人々は「水」も「土地」も、命がけで守り、命がけで得てきました。それが今、目に見えない形で島の内側に亀裂(きれつ)を生んでいる。戦争と基地という外からの力が、同じ島に生まれ育った人々の間に、時間をかけて静かな影を落としているのです。
これを誰かの責任と断じることは、簡単ではありません。ただ一つ言えるのは、阿波根昌鴻が「陳情規定」に込めた「誠を尽くして人間として戦う」という精神は、この複雑な現実の前でも、色あせることなく問いかけてくるということです。
土地の価値とは何か。命の価値とは何か。そして、同じ島に生きる者同士が、互いを尊重しながら生きていくとはどういうことか、と。
第3章:結び――「命こそ宝」が、今日のあなたに伝えること
城山の頂きから、海を見渡してみてください。
どこまでも広がる青い海。本部港へと向かうフェリーの白い航跡(こうせき:船が通った後に残る波の跡)。穏やかな風に揺れる島の緑。そして北西の断崖の下では、今日も変わらず湧出の真水が、静かに湧き続けています。
今の伊江島は、そのどこを切り取っても、美しい南の島の風景です。





しかし80年前、この同じ海を、米軍の軍艦1,500隻が埋め尽くしていました。この同じ空が、爆弾と砲弾で真っ黒に染まっていました。この同じ大地に、一家全滅した90戸の家族が眠っています。
穏やかな風景と、凄惨(せいさん)な歴史が、同じ一つの島に重なっている。その事実を知った上でこの海を見るとき、風景の意味が、まるで違って見えてきます。
漂流者と馬が発見した命の水、湧出は、戦争の前も、戦争の最中も、戦争の後も、ただ静かに湧き続けていました。どれほど人間が争おうとも、どれほど島が傷つこうとも、大地の深いところから湧き出す水は、止まることがなかった。その水が、今も島人の命をつないでいます。
阿波根昌鴻は、その重なりの中で101年間を生きました。
息子を失い、土地を奪われ、仲間を失いながら、それでも「武器を捨てなさい」と言い続けた。「陳情規定」に書かれた言葉、「こちらは人間になる」という一文は、怒りを乗り越えた先にある、最も深い人間の覚悟から生まれた言葉でした。
僕たちは今、混迷の時代を生きています。
世界のどこかで今日も戦争が続いています。SNSを開けば、憎しみと怒りの言葉が飛び交っています。自分と違う意見を持つ人間を、徹底的に叩き潰そうとする空気が、社会のあちこちに漂っています。
そんな時代に、伊江島の歴史は静かに問いかけてきます。
あなたは、怒りをどこへ向けますか。と。
怒りは正当です。不条理に対して怒ることは、人間として当然のことです。阿波根も怒っていたはずです。息子を失った悲しみと怒りが、なかったはずがありません。
しかし阿波根が選んだのは、その怒りを「相手を打ち倒す力」に変えることではなく、「誠意をもって教え導く力」に変えることでした。「陳情規定」という一次資料に残された言葉は、その選択がいかに意識的で、深い覚悟に基づいたものだったかを、静かに証明しています。
日本の心が大切にしてきた言葉に「誠を尽くし切れば、動かせないものはない」というものがあります。また「知っていることと行うことは一つ。行動が伴わない知識は偽物である」という言葉もあります。
阿波根昌鴻の生き方は、まさにこの二つを体現していました。「命こそ宝」という言葉を知っているだけでなく、その言葉通りに生きた。銃を持たず、怒りに任せず、誠意だけを武器に、半世紀以上を戦い続けた。
それは、口で言うほど簡単なことではありません。愛する人を失い、生活の糧を奪われながら、それでも「相手を人間として教え導く」という姿勢を保ち続けることが、どれほど困難なことか。
しかし阿波根は、それをやり遂げました。101年という長い生涯をかけて。
西郷隆盛は「敬天愛人(けいてんあいじん):天を敬い、人を愛す」と言いました。吉田松陰は「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と詠みました。そして阿波根昌鴻は「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」と言い続けました。
時代も場所も立場も、三人はまるで違います。しかし彼らが命をかけて伝えようとしたものは、根っこのところで、一つの同じ「何か」だったのではないかと思います。
それは、自分の魂の声に従って、誠実に生きるということ。どんな状況に置かれても、人間としての誇りを手放さないということ。外の評価や損得のためではなく、自分の内なる「真実」に対して恥ずかしくない生き方をするということ。
「ヌチドゥタカラの家」は今日も伊江島に立っています。
阿波根が遺した陳情規定は、今日も資料館の壁に張り出されています。「こちらは人間になる」という、あの言葉とともに。
城山の頂きから見える青い海は、80年前も、今日も、変わらず広がっています。断崖の下では、湧出の水が今日も静かに湧き出しています。漂流者と馬が発見した、あの命の水が。
どれほどの時が流れても、大地の深いところから湧き出すものは、止まらない。人間の誠実さも、愛も、きっとそれと同じだと、阿波根の生涯は教えてくれているような気がします。
「ヌチドゥタカラ。命こそ宝」と。
あなたはその声が、聞こえますか。






